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兵火に焼かれて 室町・戦国時代の美原

更新日:2016年3月22日

鎌倉時代の終りごろから南北朝時代にかけて、村落では「土豪どごう悪党あくとう」と呼ばれる新たな支配層が現れ、各地で争いが始まるようになると、美原でもさまざまな防衛施設が造られるようになりました。丘陵地帯を利用して土塁どるいを築いた平尾城や、平地の建物の周囲にほりをめぐらして、城館とした余部城城岸寺城の他、くろ姫山ひめやま古墳こふんとりでとして利用され、南朝勢・北朝勢が一進一退の攻防を繰り広げました。ただし、城と言っても、天守閣を持つような大規模なものではなく、防御のための木の柵や土を盛り上げた土塁と、居住のための簡単な建物があった程度のようです。このうち、平尾城では、二度も合戦が行なわれたことが記録に見えますが、この二度にわたる平尾の合戦でも、南朝側は優勢を保つことができず、いずれも敗退しています。
 その後、勢力を強大化させた足利氏が、京の室町に幕府を開くのですが、幕府の要職を占めた武士が内紛を起こしたり、お家騒動が起こったりして、このあたりは再び戦乱の地に陥ってしましました。
 内乱は、河内鋳物師かわちいもじがその本拠を移転する、大きな契機となりました。戦国大名は、武器の調達や城下町の建設などに、鋳物師を必要としたのです。
 この時代、兵火によって焼失した神社や寺も多く、戦乱の激しさがうかがわれます。

平尾城跡

 平尾東山にある平尾城址は、元弘2(1332)年、楠木正成が築いた城塞じょうさいあとで、俗に「ねはん」城とも呼ばれています。永徳2(1382)年に正成の三男、正儀まさのりが山名氏に敗れ、元中5(1388)年、その子正勝が、足利義満を討たんとして、逆に山名氏清のために討たれた古戦場です。今は石碑が一つたたずむだけで、悲劇の武将を今に語り伝えています。

平尾城址平尾城址

余部あまべ城跡

 余部城は、「城ノ山」「城ノ前」などの字名が、余部地区に残っているために、その存在が推定されていましたが、阪和自動車道の建設に伴う発掘調査で、東西約70m、南北約100mの規模が確認され、出土遺物から、13世紀の中頃から15世紀まで、建物が残っていたと推定されています。

余部城跡余部城跡

城岸寺じょうがんじ城跡

 大饗おわい城ともいい、楠木氏の一族である和田みきた氏が居城をかまえたと伝えられています。正平7(1352)年の和田助氏の軍忠状(戦いの功労を書いたもの)に大饗城の名が見えます。周辺の地名に「城ケ池」「城ケ岸」「城の北」などが残っています。

ひとことコラム 楠木正成くすのきまさしげ

 楠木正成は、河内・和泉を本拠地とし、鎌倉幕府の御家人帳にない付近一帯の流通ルートを支配する土豪であった。元弘の乱で後醍醐天皇ごだいごてんのうに応じて赤坂城に挙兵するが落城。翌年冬に再度挙兵、千早城に幕府の大軍を引き受けて、独自戦法で悩ませた。後醍醐天皇の建武けんむ新政しんせいがはじまると、正成はこれらの軍功で、記録所寄人、雑訴決断所奉公人、河内・和泉の守護となる。1336(延元元/建武3)年12月、関東から上洛した足利尊氏あしかがたかうじを九州へ敗走させたが、5月に尊氏の東上を摂津国湊川せっつのくにみなとがわに迎え撃って戦死。近年、能楽の観世家かんぜけの系図が発見され、正成の妹の子が能楽を興した観阿弥かんあみであり、観阿弥の子が世阿弥ぜあみであることが判明した。

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