「天下の台所」のおひざもと 江戸時代の美原
更新日:2013年1月16日
江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大坂の持つ経済力を恐れた幕府は、一人の大名に大坂の地を支配させるようなことはしませんでした。当時、大坂で最も大きな大名は、5万石(のちに6万石に可増)の岸和田藩でした。丹南藩や狭山藩は、いずれも1万石の大名で、城をもつことが許されておらず、それぞれの陣屋を、現在の松原市丹南と大阪狭山市池尻に築いていました。また、この美原の地は、いくつかの藩が領地とし、また幕府の直轄領も設けられていたので、隣同士の村が別々の領主の支配を受けることになっており、村同士が協力して領主に対抗するということが不可能なように仕組まれていました。しかし、それでも時には、年貢の軽減や流通の独占を排除するために、農民を中心とした一揆がたびたび企てられたことが、村々に記録として残っています。
江戸時代、農民は、「生かさぬように殺さぬように」という方針のもと、強力な支配体制下に置かれていました。「お上に逆らう」ことは、即、死を意味しました。それでも農民たちは、自分たちの生活を守るために、立ち上がらなければならないこともありました。美原でも、水利をめぐって、川上と川下の村では争いが絶えず、この窮状を打開するために、幕府に直訴した多治井の野沼某と菅生の角右衛門の2人が刑死したという話が伝えられ、多治井地区に「多治井村義人碑」が、菅生地区に「角右衛門治水頌徳碑」が建立されています。
角右衛門治水頌徳碑
多治井村義人碑
江戸時代、多治井村の干ばつの窮状を訴えるため直訴を行い、死刑にされた人をたたえるため建立されたもの。「お手と足とはお江戸に御座る首は田治井(多治井)の野沼塚」という歌が残っている。
ひとことコラム 天下の台所
大坂が「天下の台所」といわれたのは各藩が蔵屋敷を大坂に設けたことに起因する。年貢米、その他各藩の特産品は蔵屋敷で払い下げられ、売却されたが、この代金は各藩の財政上大きな比重を占めていた。江戸時代、蔵屋敷は交通の便の良い所、つまり河川に面したところにその殆どが設けられた。更にその中のほとんどが堂島、中之島付近に設けられたという。文化11(1814)年には中之島に41、堂島に15の蔵屋敷が、また天保年間(1830~1834)には125の蔵屋敷があったと伝えられる