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美原に住み、美原をうたった 望郷の浪漫派詩人・伊東静雄が見た風景

更新日:2013年1月16日

伊東静雄は、日本語のひびきの華麗かれいさと、思索しさくの深さを高く評価され、珠玉しゅぎょく詩篇しへんは今なお色あせることなく、多くのファンをもつ詩人です。昭和10(1935)年、処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」が第二回文芸ぶんげい汎論はんろんしょうを受賞、一躍いちやく日本浪漫派にほんろうまんはを代表する詩人となりました。伊東静雄は、昭和28(1953)年、当時の黒山村北余部に在住のまま亡くなりましたが、故郷長崎県諫早(いさはや)市では、諫早市制五十周年を記念して、平成3(1991)年から、「伊東静雄賞」を毎年実施、多くの詩人を輩出はいしゅつしています。

 昭和21(1946)年、伊東静雄は、友人に「私はこのごろ田舎に一軒家を見つけて移り住み、安楽あんらくな気持ちで一年ぶりに自由な生活ができて、喜んでいるところです」と手紙に書いています。空襲で家も蔵書ぞうしょも失い、文学の友を失い、家は粗末そまつで、暮らしは貧しく通勤も不便ではあるけれども、伊東は、北余部の地に、故郷諫早を見ていました。平野が広がる牧歌的な風景は、伊東を慰め、「広々としたたんぼ圃の中で、雲が美しく、毎夕方、下駄をやつとはきなれた夏樹(長男)をつれて、散歩にでます」と書きました。家を出た十字路には小さい地蔵の石のほこらがあり、小川にかかる石橋は久しく忘れかけていた故郷の原風景を追想させ、せきを切ったように数々の作品がうまれ、昭和22(1947)年、第四詩集「反響」が編まれました。白鳥の歌と呼ばれる、美しい詩集です。

伊東いとうしず 明治39(1906)年から昭和28(1953)年

 伊東静雄は、現在の長崎県諫早市に生まれ、大村中学校(現大村高等学校)、佐賀高等学校(現佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に進んだ。在学中の昭和3(1928)年、懸賞けんしょう募集児童映画脚本の童話「美しき朋輩達」が一等当選となり、映画化される。大学卒業後、大阪府立住吉中学校(現住吉高等学校)に就職し、生涯教職を離れなかった。昭和10(1935)年、処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」を刊行、萩原はぎわら朔太郎さくたろう激賞げきしょうされ、一躍詩人としての名を高めた。昭和15(1940)年に第二詩集「夏花」を、昭和18(1943)年には第三詩集「春のいそぎ」を刊行した。昭和20(1945)年7月の空襲くうしゅうで、堺の自宅を焼かれ、南河内郡平尾村に移り、翌年さらに、黒山村北余部へ移った。昭和22(1947)年、最後の詩集「反響」を刊行、次第に散文的描写に変化しつつ、一段と内面的静かさと高みを獲得していった。昭和23(1948)年、学制改革のため、府立阿倍野高等学校に転勤。翌年、肺結核を発病、国立大阪病院長野分院に入院、闘病生活は最後まで続いた。昭和28(1953)年、大喀血だいかっけつで衰弱の末、死去。46歳の生涯だった。

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