古くからの交通の要衝 大化の改新のころ
更新日:2022年7月20日
大阪湾岸と飛鳥京を結ぶ日本最古の官道「竹内街道」に北端を接し、古くから人びとの営みがあった美原町。美原が歴史の記録に初めて登場するのは、大化の改新(645年)のころです。
大化の改新の5年後、謀反の疑いをかけられて難波宮から大和に逃れていく大化の改新の功臣、蘇我倉山田石川麻呂を、朝廷の軍隊が追っていました。
このことは、「日本書紀」の中に書かれており、黒山の地名が見られます。彼らが今の府立美原高校のあたりで目にしたであろう大規模な建物群は、「平尾遺跡」と呼ばれているものです。発掘の結果、廻りを木の柵で囲った、規格性のある掘立柱の建物(地面に穴を掘って柱を立てた)と倉庫群、あわせて約60棟が発見され、建物の規模や配置などから古代の豪族である丹比氏の建てた住居とも、丹比郡の郡の役所跡とも言われています。
近年、発掘調査がなされ、約1キロメートル四方に建物群が広がることが発見されました。
「竹取物語」にも登場?! 歴史に名を残す丹比氏の人びと
日本最古の物語といわれる「竹取物語」で、かぐや姫の5人の求婚者は、藤原不比等をはじめ、実在の高位の人物が擬せられていますが、その一人として、名前があがっているのが丹比氏の一族、多治比(丹比)真人嶋です。嶋の嫡男である多治比真人池守は、平城京の造営長官として、奈良時代の黎明期に活躍した実務型の高官でした。池守の弟、県守は遣唐使のトップである押使を務め、唐の皇帝・玄宗にも優秀さを認められながら、帰国直前に客死した日本人留学生 井 真成を抜擢した人物として、最近新聞などで話題になりました。また、一族の多治比真人三宅麻呂は催鋳銭司に任命され、歴史的な和同開珎の鋳造の総責任者として大任を果たしています。
菅生神社
現在の菅生地区のあたりでは、中臣氏の一支族の菅生氏が勢力を誇っていました。菅生神社は、当初、天児屋根命を主祭神としていましたが、天神信仰が盛んになるにつれ、室町時代には、菅原道真を主祭神とする神社に変貌しました。この神社も延喜式内社で、宝物に「北野天神縁起絵巻」(応永34(1427)年奉納)などが残されています。
菅生神社
丹比廃寺塔跡
丹比廃寺跡は、白鳳時代のものと思われる丹比氏の氏寺で、塔跡の基壇部分が現存し、その大きさから、かなり大きな伽藍を擁していたと推察され、出土する瓦には特有の文様が施されています。
丹比廃寺塔跡
丹比神社
丹比神社は、当初は、多治比氏の始祖宣化天皇を祀ったとされますが、この地が反正天皇(多遅比歯別)の産湯井戸の伝承の地であることから、現在の祭神は瑞歯別命とされています。延喜式内社の一つで、拝殿に明治期の相撲の奉納額がかかっています。境内は広く、楠や桜などの樹木におおわれています。
ひとことコラム 延喜式内社
10世紀前半に編纂された「延喜式神名帳」に記載されている神社をいう。祈年祭奉幣を受けるべき2861社が国郡別に記載されており、当時朝廷から重視された神社であることを示している。