堺をおもえば…片岡愛之助さん 堺の記憶

最終更新日:2020年3月26日

堺をおもえば…

片岡愛之助さん

片岡愛之助さん 堺の記憶

片岡愛之助さん 思い出の場所と店

「今も、本籍も実家もお墓も堺です」

プロフィール

『半沢直樹』でブレイクしてからは、「歌舞伎」というジャンルを超えてさまざまなメディアから引っぱりだこの愛之助さん。
大阪にいるのは年に2カ月ほどだが、今も堺に実家を残し、たびたびお忍びで帰って来ている。

実家は船のプロペラ製造工場だった

愛之助さんが生まれた場所。歴史に「堺津(堺港)」が登場する13世紀頃から海沿いでは船造りが盛んだった

 愛之助さんが生まれたのは南海本線堺駅に近い堺市堺区神南辺町(かんなべちょう)。港にも近く、お父さまは船のスクリュープロペラを作る工場を経営していた。
「祖父が創業した会社で、貨物船などのプロペラも造っていたから大きいのは5メートル以上あったんじゃないかなぁ。実家は工場と同じ敷地にあって、南海本線の線路から国道26号線まで全部うちだったんですよ」
 広~い!?

「莫大な広さでしょ? 祖父母も一緒に住んでいたし、働いている人も多かったからお手伝いのおばあちゃんも2人いて、人の出入りが多い家でしたね。会社のみんなが入るお風呂が銭湯より広くて子どもが泳げるぐらい。それが楽しくて、よくみんなと一緒にお風呂に入りに行ってました」
 敷地は広いが、あまり自由には遊べなかった。
「工場の裏には祖父の趣味で大砲の砲台が置いてあったりしました。そこを犬と駆け回っていたんです。ただ工場へのトラックやダンプカーの出入りが激しかったので、『危ないから外に出ないで家の中で遊びなさい』と言われていました」

明治41年(1908)大鳥郡三宝村(1926年に堺市に編入)に三宝尋常小学校として創立。堺市立小学校の中で最も海に近い

 ご両親が外で遊べないのは可哀想だと、5歳のときに松竹芸能の子役オーディションを受けさせて合格したのが、今の愛之助さんに繋がったのである。

「家の前には久保田鉄工の工場がドーッとあって、そこの壁にボールをぶつけて遊んでもいましたけどね。今、そこは巨大なマンションがドーンと建っていて、もう風景は全然変わってしまいました。うちも会社をやめてしまいましたし」

 一時期、茨木に住んでいたという。

「小学校1年生のときは茨木にいて、2年生で堺市立三宝小学校に転校しました。踏切を越えるのは危ないからと三宝小の学区になっていたんですけど、すごく遠いんですよ。子どもの足で片道40分ぐらいかかる。非常に遠い距離をトコトコ歩いて通ってました。器械体操部に入っていて、休み時間もみんなと走り回って遊ぶ活発な子でしたね」

堺で遊んだ少年時代を経て、役者に

 遊びに行ったところも幅広い。
「自転車っ子だったんです。小学校の頃は自転車でいろんなところに行きました。堺東の映画館で『E.T.』を観たり、ゲームセンターで遊んだり、大浜公園の猿山とかザビエル公園もよく行きましたね。大泉緑地も行きましたよ。ものすごく遠くて旅行に行った気分でした」

ザビエル公園には1970年大阪万博のポルトガル館に出展されたジョルジ・ヴィエイラの彫刻『東と西の接点』(閉会後にポルトガル政府から寄贈)がある

 家族でお祭りに行ったのもいい思い出だ。
「2015年の『堺まつり』(毎年10月に開催される)の宣伝役もやらせていただきましたけど、42回目だから僕が生まれた頃に始まったんですね。僕も小学生の頃、親にザビエル公園のなんばん市に連れて行ってもらいましたよ。ベビーカステラの屋台があったり、金魚すくいがあったり。7月には大浜公園の(堺大魚)夜市にもよく行きました。懐かしいな」

少年隊に震えた[おおとりウイングス]

浜寺中学校は昭和22年(1947)に堺市立第六中学校として開校。後に鳳中学校、浜寺南中学校はここから分離

おおとりウイングスはその名の通り鳳凰が羽を広げた外観。第一紡績堺工場跡地に昭和55年(1980)に開業

 中学に入学前に南海本線諏訪ノ森駅にある諏訪神社の近くに引っ越し、浜寺中学校に入学。今もここに家がある。

「中学生のときは舞台やお稽古に忙しくて帰宅部でした。あまり遊ぶ時間はなかったけれど、浜寺公園にはよく行きましたね。それから[おおとりウィングス]。タレントやアイドルがよく来ていて、少年隊が来たときは『うわ~、少年隊や~』って観に行ったことがあるんですけど、まさか後に自分が共演するようになるとは思わなかった(笑)。東山(紀之)さんに訊いたら『覚えてない』って言うてたけど、覚えてるわけないですよね(笑)」

自転車で舞台に通った[堺市民会館]

令和元年10月1日のグランドオープンした「フェニーチェ堺」(堺市民芸術文化ホール)

 子どもの頃、[堺市民会館]の舞台に立ったこともある。
「うちの叔父の(五代目片岡)我當がやっていた学生向けの歌舞伎の巡業だったんです。僕、子どもでしたから実家から自転車で通いましたよ。家から舞台に自転車で通うって変な感じでしたね(笑)。今、[堺市民会館]は建て替え中ですよね」

信太山の両親のお墓参りは欠かさない

愛之助さんにとって堺の地図は見慣れたものだ

 愛之助さんは長男でたった一人の男の子だが、19歳のときに二代目片岡秀太郎さんの養子になった。それを快く許してくれたご両親だったが、1999年にお母さまが、翌年にはお父さまが亡くなってしまった。
「お墓は信太山の霊園にあって、しょっちゅうお参りに行ってます。子どもの頃、親父によく祖父のお墓参りに連れていかれて、『何で親父はこんなにお墓参りが好きなんだろう?』と思ってたんですよ。でも、お墓に来て両親にいろんな報告をしたり、話したりすると、心が落ち着く。それで『ああ、こういうことなんだな』と親父の気持ちがわかりました。

 朝早くに行くことが多いので、花屋さんもまだ閉まっているんですけど、お店のお姉さんとも馴染みで『かまわず起こして』と言ってくれるので、自宅をピンポン、ピンポンさせてもらってます(笑)。芝居も観に来てくれるんですよ」

[さかい利晶の杜]で利休さんの声

1階は写真の[千利休茶の湯館]、2階には[与謝野晶子記念館]がある

 2015年3月に千利休と与謝野晶子をテーマにしてオープンしたミュージアム[さかい利晶の杜]では音声解説で千利休の声を務めている。
「今、僕がこうしてあるのも片岡家に入れていただいたお陰ですが、実は父の秀太郎は裏千家さんと非常に繋がりがございまして、お正月はいつも大宗匠(千玄室さん)のおうちにご挨拶に回らせていただいているんです。2015年の元旦もご挨拶に伺いましたら、大宗匠に『どうもお世話になりまして』と言われて、『僕、何かお世話したかな?』と思ったら、千利休さんは大宗匠のご先祖さまなんですよね。大宗匠が[利晶の杜]の名誉館長でいらっしゃるのに全然気づかなくて、喜んでくださったからよかったですけど」
 どんな声で千利休を演じればいいのか、考えた。
「利休さんはステキな感じしかないだろうし、夢があるほうがいいと思ったので、お年を召した頃の声ではなく、自分の声がどこまでステキかわかりませんけど、僕の中でマックスのステキな感じを作らせていただきました(笑)」

小学校の同級生のごはん屋さんへ

[六兵衛]自慢のカレーうどん。頼むつもりがなくても、これを見れば……

「三宝小学校の同級生だった青木くんが[六兵衛]というごはん屋さんをやっているので、そこへ行ってます。
 ただ僕が行くと連絡したら、あいつが大騒ぎするんですよ。で、他の同級生やら店の人の親戚やらいろんな人がいっぱい来て、うどん食べてるだけやのにどんだけ写真撮んのかなと思うぐらい撮影大会みたいになって(笑)。楽しかったけど、落ち着いてご飯が食べられなかったから、この間はさすがに『誰にも言わんといてや、誰にも言わんといてや』と口止めしてから行ったんです。カレーうどんとかうどんすきとか何でもおいしいですよ」

 堺が発祥でうどんすきの名店[美々卯]も、大人になって創業者のお孫さんと知り合ってから行くようになったという。

愛之助ファンのケーキ屋、その名も

これがそのプチシュークリーム。何個でも食べられそうでコワい

 堺には[フレッシュケーキ愛之助]というケーキ屋さんもある。
「ブログにも何度か書いていますけど、僕のファンの方がやっておられるお店で、よく楽屋見舞いにケーキを差し入れしてくださるんです。2014年に『GOEMON』を演ったときは、僕が扮装している顔までつけた特製ケーキをいただきました。プチシュークリームもおいしいんですよ。去年、初めてお店に行って自分で買いました」

一度行ってみたい、ご飯が美味いあの食堂

 愛之助さんはご飯好きとしても有名だ。
「僕は今でも白いご飯が大好きですが、若い頃は一食で5合も食べていたんです。公演でホテルに長逗留するときは電気釜持参で行って、部屋でご飯を炊いていたぐらい。堺にはご飯を炊く名人がいる[銀シャリ屋 ゲコ亭]というお店があると聞いて、一度行ってみたいと思っているんですよ」

 今年も歌舞伎はもちろん、NHK大河ドラマ『真田丸』、BS日テレ『片岡愛之助の解明!歴史捜査』、10月は『GOEMON』の再演と大忙しだが、ぜひ行って、自慢のおいしいご飯を食べてもらいたい。

[銀シャリ屋 ゲコ亭]ではいろんなおかずを選べる。ご飯が光ってます 

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