堺をおもえば…安井寿磨子さん 思い出の場所と店
更新日:2023年8月3日
安井寿磨子さんとめぐる、あの名店と名所へようこそ
安井さんの父、清司朗さんが日本で初めて子ども用自転車の補助輪を作るために1958年に創業。工場には50年以上前から使っているプレス機を始めとするさまざまな機械と共に、寿磨子さんが学生時代に描いた絵が飾られている。
二代目になった次女・清代満さんの夫である中村明さんはこう語る。
「僕は日産で整備士をしていたので、結婚を決めたときに親父さんから『うちを継がないか。サラリーマンよりいいだろう』と誘われて転職したんです。確かに当時は売れ行きがよかったですからね。うち以外にも補助輪を作る会社もけっこうありましたよ。
だけど、今は自転車本体も中国製が主流になって、うち以外の補助輪の会社はみんななくなりました。今、日本で補助輪を作っているのはうちだけですし、うちも私の代で終わりです」
淋しい話である。だが、ファミリーはとても円満。
「親父さんは7年前に亡くなったけど、優しかったし、家族みんな仲がいいのがいいね」
自転車博物館サイクルセンター
大仙公園の西北の角にある[自転車博物館サイクルセンター]は、自転車の部品メーカーが作った財団が1992年にオープンした、日本で唯一の自転車の博物館だ。
世界最古の自転車の複製から最新の自転車までを展示し、自転車の歴史が一目でわかる。“ものの始まりみな堺”と言われるが、「堺のあゆみ」という展示では、古墳時代の鉄器や中世からの鉄砲、刃物づくりなどの優れた鉄の加工技術が堺の自転車産業の発展につながっていった歴史もわかる仕組みになっている。一度は見ておきたい博物館だ。
http://www.bikemuse.jp/index.php
深清鮓
チン電の御陵前電停近くにある昭和23年(1948)創業で持ち帰り専門の[深清鮓]は、穴子寿司が絶品と評判の名店。かつて堺は穴子の延縄(はえなわ)漁が盛んで、[深清鮓]があるあたりは「穴子屋筋」と言われ、何軒もの穴子の卸店が並んでいたそうだ。
堺で穴子の漁獲高が少なくなった今、[深清鮓]では長崎県対馬沖などの穴子を使い、お米は滋賀県の日本晴。穴子は2代目の深井貞彦さんの長兄が営んでいる卸店から毎朝届くので新鮮だ。ツメは先代の味を継承し、注ぎ足しはしない。
穴子寿司は、穴子を柔らかく炊いて甘いツメを塗った穴子にぎりと、焼き穴子に椎茸と煮物を挟んだ穴子箱の2種類。にぎりは口に入れただけでとろけそうで、箱寿司は香ばしい。両方食べるのが必須の美味しさである。
お店は2代目をはじめ、3代目の長男・壽光さんが事業主を務め、ほぼ家族経営で味を守っている。
南曜堂もなか
同じく御陵前電停近くの[南曜堂]の創業は大正10年(1921)頃。3代目の岡田泰人(やすと)さんによると、長い間、和菓子全般を製造していたが、先代が「もなか1本でいこう!」と現在のもなか専門店になったという。
チン電の形で求肥(ぎゅうひ)が入っている「ちんちん電車もなか」を始め、商品はすべて手作り。昭和30年代から水曜限定で発売している「巴もなか」はそれ以前から行列ができるほどのロングセラーで、数量限定販売の今も午前中には売り切れる人気だという。
八百源來弘堂
風情のある築65年の日本家屋の[八百源來弘堂]は創業約200年。
6代目の岡田巧さんによると、肉桂(にっき)餅は約400年前に薬効のあるニッキ=シナモンを女性や子どもに食べさせるために、砂糖と餅に混ぜ合わせたのが始まり。江戸時代に砂糖が全国に行き渡った頃、初代が今のような求肥にニッキを練り合わせてこし餡を入れ、ジャガイモのデンプンをまぶした形にしたのだという。
[八百源]の肉桂餅の特徴は柔らかさ。すべて手作りで、その製法と使っているニッキの種類は秘伝だそうだ。香りも豊かで食べやすく、美味しい肉桂餅ができあがっているわけである。
浪花亭
のんびりした堺山之口商店街で、ランチは毎日満席なのが洋食の[浪花亭]。終戦の昭和20年(1945)創業で、もともと寿司屋だった初代の橋本勢一さんが「これからは洋食の時代だ」と、外国航路のコックさんを引き抜いてきて始めた。レシピも昭和レトロな建物もそのときのままである。
看板メニューのハンバーグは330円(!)という安さだが、ミンチも自分のところで挽き、デミグラスソースも、ポタージュスープも、ドレッシングも自家製なのだから驚く。
今年から全面的に店をまかされた3代目の慎介さんが「親父から『料理は手を抜くな!』と言われていますから」と伝統を引き継いでいるのが嬉しいお店だ。
堺 アルフォンス・ミュシャ館
[堺市立文化館]はJR阪和線の堺市駅から徒歩約3分のベルマージュ堺弐番館にある。2階が貸しギャラリーで、3階と4階が[堺 アルフォンス・ミュシャ館]だ。
ミュシャ(1860~1939)は、現在のチェコ共和国生まれでアール・ヌーヴォーの代表的画家。[ミュシャ館]は[カメラのドイ]の創業者の土居君雄さん(1926~90)がミュシャの作品約500点を、新婚時代を過ごした堺市に寄贈して創設された。
ミュシャの代表作である《黄道十二宮》《夢想》を始め、初期から晩年までのポスター、宝飾、彫刻、油彩など豊富なコレクションを落ち着いた雰囲気の中でゆっくり見られる穴場である。
https://mucha.sakai-bunshin.com/
耳原総合病院
[耳原総合病院]は1950年に地域住民たちの100円カンパによって、民家の中2階で始まった。2015年4月にリニューアルオープンしたが、その際、看護師さんが奥村伸二院長に「怖くない病院にするために、ホスピタルアートを取り入れて欲しい」と直談判し、NPOアーツプロジェクトに出会って実現した。
そこで白羽の矢が立ったのが、堺出身で明るく柔らかで人の心を和ませる画風の安井さん。森に花が咲き、椅子が置かれた原画の一部をシールにし、MRIやCTなどの検査室の壁に貼ってある。原画が飾られた待合室の床にも、安井さんが描いたタンポポやクローバーが点在している。
吹き抜けの明るいエントランスにはたくさんのハート型のオブジェが下がり、外壁にも14階までの各フロアの壁にも「希望のともしび」の物語や堺にまつわる絵が描かれ、「風の伝言プロジェクト」として募集した作品300点も飾られている。これなら、患者さんたちもホッとするに違いない。
広報課の滝沢洋子課長は「うちの理念は創立以来『無差別平等』、差額ベッド料をいただくことなく患者負担の少ない医療は変わりません」というところもアピールされた。
http://www.mimihara.or.jp/sogo/
薫主堂
16世紀に日本で初めて線香がつくられたのも堺。江戸時代には線香の産地として知られるようになっていたという。
[薫主堂]は創業明治20年(1887)で、3代目の北村欣三郎さんは今も伝統的な技法での線香づくりにこだわり、特売品でも天然香料を10種類、多いものは20種類以上調合し、板を使ってカットし、自然乾燥させている。大阪府伝統工芸士、堺市ものづくりマイスター、なにわの名工の称号も獲得した。
「線香は薬なんですよ。乗り物酔いしたお客さんがうちの店に座っていただけで気分がよくなったということもあります」
確かにここのお線香の香りは穏やかで気分がスッキリしてやみつきになる。
江戸末期に建てられ、中2階に、虫籠のような形状をした「虫籠窓(むしこまど)」がある建物に魅かれてやってくる観光客も多いという。
紙cafe
安井さんが名刺を作っているのが、堺山之口商店街にある[紙cafe]。店主の松永友美さんがライターとして関わってきた堺の地域情報サイト「つーる・ど・堺」がプロデュースするカフェとして2012年にオープンした。
最初は「おばちゃん根性で紙の魅力を文章ではなく口で伝えたい(笑)」と始めたが、古墳、旧堺燈台、チン電など堺のシンボリックなものを図案化して「堺柄」と名付け、それを使ったハンコや封筒、カード、名刺などを作ったら大好評で、堺北花田阪急イオンモール店がのし紙やタオル、ショッピングバッグ、堺の有名書店がブックカバーに使うまでになった。
「[紙cafe]は堺と紙を発信するためにある」と松永さんの堺熱は強くなる一方で、周りにも伝染してこれからますます面白いことをしてくれそうだ。
つぼ市製茶本舗
[つぼ市製茶本舗]が堺で創業したのは嘉永3年(1850)。第二次世界大戦の空襲で看板ひとつだけを残して全焼し、終戦直後に本社を高石市に移した。
それが、取り壊し寸前の町家を買って堺出身の間宮吉彦さんに空間デザインを依頼し、伝統の堺漆喰を復活させて2013年に茶寮を開店。あっという間に行列必至の人気店になっている。
お茶がおいしいのはもちろん、町家の魅力も大きいだろう。予約制の2階席は唯一焼け残った看板が飾られ、お茶会も開けるし、普通のメニューも注文できることはあまり知られていないので狙い目だ。
5代目の谷本順一社長は「茶道の本家は京都にありますが、庶民がお茶を飲んだ喫茶の文化は堺からなんです。お茶とか町家とか利休さんとか、堺の魅力を市民がもっともっと発信していかなくちゃいけませんよ」と、こちらも堺愛にあふれている。
つぼ市製茶本舗
http://www.tsuboichi.co.jp/saryo
※記事内容は取材当時のものです。
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