このページの先頭です

本文ここから

堺をおもえば…安井寿磨子さん 堺の記憶

更新日:2023年8月3日

堺をおもえば…

安井寿磨子さん

「いい匂いのお香でしょう?ご近所の店で買って焚いています」

プロフィール

 村上龍さんの本の表紙など柔らかで明るい色調の花の銅版画で人気の安井さん。堺に残る日本唯一の自転車の補助輪製作所に生まれ育ち、今もこの町で老舗から新店まで「堺のもの」に囲まれて生活している。

日本初! 自転車の補助輪を作った父

 安井さんは堺区の生まれ。チン電の高須神社電停に近い静かな町だ。
「生まれてからずっとここに住んでいるんです。3年ほど大阪市内にいたことがありますけど、なんか堺に引き止められているみたい」
 安井さんの父、清司朗(せいしろう)さんは日本で初めて自転車の補助輪を作った方で、1958年に安井製作所を創業した。
「おじいちゃんが鋏の職人で、今の安井製作所のところで工場をやっていたんです。父は自転車関係の会社に勤めていたのですが、そこの社長さんに『誰も作っていないから補助輪をやってみたら?』と勧められて、結婚を機におじいちゃんの工場に間借りして始めたのが最初やそうです」
 凝り性のお父さまは研究を重ねて素晴らしい補助輪を作り、飛ぶように売れたので、追随する会社も多かったという。
「堺のもの作りって何でも分業なんですよ。だから、私が子どもの頃は近所にサドル屋さんとかメッキ屋さんとか自転車の部品屋さんがいっぱいあって、いろんな工場に遊びに行っていました」
 安井さん一家は工場に住んでいたが、寿磨子さんが小学校2年生のときに隣に家を買って引っ越した。今もそこにお母さまが住み、2階を寿磨子さんのアトリエにしている。安井製作所は妹の清代満(きよみ)さんの夫である中村明さんが継ぎ、今も補助輪を作り続けている。

高須神社の前で、自転車の特訓

 安井さんの著書に『こどもほじょりん製作所』(講談社)という自伝的な絵本がある。
「私は小さい頃からスポーツがダメで、スピードも苦手だったから、9歳になるまで自転車の補助輪が取れなかったんです。それで、父に叱咤激励されながら高須神社の前の坂で自転車の練習をしたこととか、父のこと、父の仕事を手伝っていた母のことなどを書きました。ほとんど事実なんですよ。
 補助輪が取れるまではほんとに大変で、父に『がんばれ。やればできる』と言われ続けて、ようやく取れたんです」
 補助輪なしで自転車に乗れるようになると、家族4人でよくサイクリングに行った。
仁徳天皇陵古墳とか大仙公園によく行きました。今、大仙公園には[自転車博物館]があるんですよね。一度、見に行きたいんです」

校区内と母の実家・南旅篭町が遊び場に

 宝珠学園幼稚園→錦小学校→殿馬場(とのばば)中学校と学校も近所に進んだ。
「だから、思い出というと校区の中ですね。小学校の周りはお寺ばかりだったから、たこ焼きを買って境内で食べたり、駄菓子屋さんに寄り道したり。私はボーッとしてて本を読むのが好きで、活発ではなかったんですけど、大和川の土手には毎日のように自転車で遊びに行っていました」
 校区以外で遊ぶのはお母さまの実家があった南旅篭町、チン電の御陵前電停にある南宗寺や大安寺だったという。

穴子寿司、もなか、肉桂餅……

 この辺には食べ物の思い出も多い。
「まず[深清鮓(ふかせずし)]さんの穴子寿司。おいしいからみんな大好きでよく食べていました。それから、[南曜堂]さんのもなか。今はチンチン電車の形のもなかを出してはりますね」
 食べ物の話は尽きない。
「チン電の花田口電停の近くにある[八百源(やおげん)]さんの肉桂(にっき)餅も大好き。山之口商店街にある洋食の[浪花亭]さんは、小さいときに何回も連れて行ってもらったらしいんですけど、私は覚えていないんです。今もよく行きますよ」

村上龍が自作の表紙に起用した銅版画

 小学生のときから木版画が好きで、高校生のときに棟方志功にハマッて大阪芸術大学に進んだが、銅版画のほうが性に合ったという。銅版画といえば鋭角的な線で描いたモノクロの作品という印象が強いが、安井さんのは明るく優しい色でふわーっとしているのが特徴だ。
「普通の銅版画より柔らかいものを描きたいと思って、インクを作って刷って、なおかつパステルで彩色しているんです。だから、いわゆる銅版画とはちょっと違うんですね」
 大学卒業後、美術の講師になった。
「でも、毎日、同じ電車で通うのが嫌でやめてしまいました(笑)」
 24~25歳のとき、作家・村上龍さんのサイン会に行って自作を贈ったら気に入られ、『69』『すべての男は消耗品である』『ラッフルズホテル』などの表紙の絵を描かせてもらった。
「それで、本や雑誌の仕事がもらえるようになったんです。龍さんと出会わなかったら、今のような仕事はしなかったと思います」

堺の大先輩! 与謝野晶子とコラボ

 2012年には堺市立文化館で「晶子さんを想う―安井寿磨子版画展」を開いた。
「30歳ぐらいまでは外にばかり目が向いて堺に興味がなかったんですけど、大人になって堺って何があるかなと考えたとき、パッと浮かんだのが与謝野晶子さん。それで、昔の堺のいろんなところを晶子さんとお散歩するという設定で文章を書いて、私は花をテーマにしているので、晶子さんの歌に入っている月見草、菜の花、秋のバラなどの版画を作ってつけたんです」
 堺市立文化館の中にある[堺 アルフォンス・ミュシャ館]も好きだという。
「ミュシャの絵がこんなに身近なところで観られるのが嬉しいですよね。静かで落ち着いて観られますし」

病院のプロジェクトで作品を館内に飾る

 最近では[耳原総合病院]のアーツプロジェクトに参加した。
「病院に行くのって、不安で怖いですよね。それで今、世界中で『怖くない病院をつくろう』と病院にアートを飾るホスピタルアートというのが増えているのだそうです。大学の後輩がホスピタルアートの活動をしていて、堺の耳原総合病院を建て替えてアートを飾るからと堺出身の私が誘われたんです。私の原画をシールにして検査室の壁とか待合室の床に貼ってあります。患者さんの不安が少しでも和らいでくれると嬉しいですね」

愛用してます。メイドイン堺

 今回は安井さんのアトリエでインタビューさせていただいたが、部屋に入るとお香を焚いてくださっていた。
「お香の匂いが好きでいつも焚いているんですよ。これは近所の[薫主堂]さんのもの。ちっちゃい頃からお香いうたらここ。ここしか知らない」

 名刺交換をすると、安井さんの名刺にはチン電とか町家、自転車など1枚ずつ違うイラストがついていた。
「山之口商店街の[紙cafe]というお店で作ってくれるんです。堺のシンボルの絵をつけた名刺を作っていると聞いて、すぐ注文しました。可愛いでしょう」
 出してくださったお茶もおいしい。
「これはチン電の神明町電停の前にある[つぼ市]さんの。もらって飲んだらおいしくて買いに行きました。母は知っていたようで、古い古いお茶屋さんで昔から有名だったと言っています」
 堺製のものに囲まれて、地元愛にあふれている生活である。
「堺は自分が生まれ育った土地なのに、大人になるまで興味がなかったので再発見が多いです。ちょっと勉強すると、“ものの始まりみな堺”ってほんまやなぁと興味深いですね。堺にはいろんな産業があって、イメージが広がる町。それが私の原風景なんですね」

※記事内容は取材当時のものです。

このページの作成担当

市長公室 広報戦略部 広報戦略推進課

電話番号:072-228-7340

ファクス:072-228-8101

〒590-0078 堺市堺区南瓦町3番1号 堺市役所本館5階

このページの作成担当にメールを送る
本文ここまで