仁徳天皇陵古墳百科
更新日:2022年3月28日
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仁徳天皇陵古墳とは
仁徳天皇陵古墳(南から)
仁徳天皇陵古墳(西から)
仁徳天皇陵古墳(南から)
世界三大墳墓比較模型(古墳パネルコーナー)
今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です。
墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。
古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。
古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました。
仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で重要な文化遺産です。現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます。また、堺市博物館には、仁徳天皇陵古墳に関する資料を展示しています。
仁徳天皇について
『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。
父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうけます。民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。
同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。
「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。
「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となります。これを時期順に並び替えると、仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。
ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれません。
仁徳天皇陵古墳のデータ
1.古墳の名前
大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。
2.古墳の大きさについて
古墳の最大長(濠を含む) | 840メートル |
---|---|
古墳の最大幅(濠を含む) |
654メートル |
墳丘の長さ |
486メートル |
墳丘基底部の面積 |
103,410平方メートル |
後円部の直径 |
249メートル |
後円部の高さ |
35.8メートル |
前方部の幅 |
307メートル |
前方部の長さ |
237メートル |
前方部の高さ |
34メートル |
3.周濠について
周濠の数-3重
周濠と堤の幅 | ||||
---|---|---|---|---|
1重濠 | 前方部側70メートル | 後円部側71メートル | 最大120メートル | 面積131,690平方メートル |
第1堤 | 前方部側35メートル | 後円部側25メートル | 面積 65,800平方メートル | |
2重濠 | 前方部側25メートル | 後円部側10メートル | 面積 44,580平方メートル | |
第2堤 | 前方部側18メートル | 後円部側20メートル | ||
3重濠 | 前方部側15メートル | 後円部側18メートル |
4.陵域の総面積
宮内庁の陵墓図での総面積 478,572平方メートル
(陪塚と飛地を含む)
宮内庁の陵墓図の本陵面積 464,123平方メートル
(甲号-茶山古墳、乙号-大安寺山古墳、丙号-樋の谷古墳を含む)
5.古墳の外周
2,718メートル(現在整備されている周遊路の全長 2,850メートル)
6.古墳の墳丘の総容積
現在の墳丘 | 1,367,062立方メートル |
---|---|
築造当時の復元 | 1,406,866立方メートル(10トンダンプカー27万台分) |
参考文献
- 梅原末治「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と営造」『陵墓関係論文集』宮内庁書陵部陵墓課編 1980年 (書陵部紀要第5号[1955]所収)
- 大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』 1985年
- 大阪府立近つ飛鳥博物館「仁徳陵古墳-築造の時代」『平成8年度春季特別展図録』 1996年
仁徳天皇陵古墳の陪塚のデータ
陪塚とは、大きな古墳(主墳)の周辺に造られた小型の古墳の中で、主墳に付属するような位置に計画的に配置され、かつ同じような時期に造られた古墳をさします。古墳の形は方墳や円墳が多いのですが、帆立貝形の前方後円墳もあります。元々は中国の陪葬墓のような、主墳に葬られた人に、死後の世界でも付き従うために葬られた近親者や従臣、お供の人々の殉葬墓と考えられていました。しかし、最近の研究では、百舌鳥御廟山古墳の陪塚で、多量の滑石製模造品を埋納したカトンボ山古墳のように、特定の副葬品のみを埋納した古墳が多く確認され、本来主墳に副葬するはずのものを、周辺に造った小型の古墳に種類別に副葬品のみを分納した場合もあることがわかってきています。帆立貝形の前方後円墳では人体埋葬が認められる例が多く、近親者や従臣の古墳とみられます。それに対して方墳や円墳では特定の副葬品を多量に埋納したものが多いようです。
1.陪塚の数
A.宮内庁指定陪塚-12基
い号飛地 | 孫太夫山古墳 | 1,380平方メートル | 後円部墳丘のみ指定 |
---|---|---|---|
ろ号飛地 | 竜佐山古墳 | 1,828平方メートル | 墳丘のみ |
は号飛地 | 狐山古墳 | 407平方メートル | 残存墳丘のみ |
に号飛地 | 銅亀山古墳 | 590平方メートル | 残存墳丘のみ |
ほ号飛地 | 菰山塚古墳 | 804平方メートル | 残存墳丘のみ |
へ号飛地 | 丸保山古墳 | 2,399平方メートル | 後円部墳丘のみ |
と号飛地 | 永山古墳 | 5,458平方メートル | 墳丘のみ |
ち号飛地 | 源右衛門山古墳 | 870平方メートル | 墳丘のみ |
り号飛地 | 坊主山古墳 | 167平方メートル | 残存墳丘のみ |
本陵内(甲号-茶山古墳、乙号-大安寺山古墳、丙号-樋の谷古墳)
B.仁徳天皇陵古墳の周り(陪塚の位置)にあった古墳-19基(消滅した古墳を含む)
C.仁徳天皇陵古墳の周り(陪塚の位置)に現在残っている古墳-16基
2. 仁徳天皇陵古墳の周り(陪塚の位置)にあった古墳の概要
(1)孫太夫山古墳(まごだゆうやまこふん)-宮内庁い号飛地-百舌鳥夕雲町2丁
墳丘長65メートル、後円部径46メートル、前方部幅26メートルの前方部が西を向く東西主軸の帆立貝形(後円部に比べて前方部の幅が狭く小さい)の前方後円墳です。
古墳の名は所有者であった中筋村庄屋の南孫太夫に由来します。今ある周濠と前方部の一部は大仙公園の整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたものです。
(2)竜佐山古墳(たつさやまこふん)-宮内庁ろ号飛地-大仙中町
墳丘長61メートル、後円部径43メートル、高さ8メートル、前方部幅26メートルの前方部が西を向く東西主軸の帆立貝形の前方後円墳です。良佐山の字があてられたり、昭和のはじめ頃に「りゅうさやま」と呼ばれていた記録もあります。
今の周濠は孫太夫山古墳と同じく大仙公園整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたものです。
(3)狐山古墳(きつねやまこふん)-宮内庁は号飛地-大仙中町
径約30メートル、高さ4.2メートル、周濠幅約5メートルの円墳です。古墳の現状は、墳丘の裾が削られ方墳状になっていますが、墳丘は高く残存度は良好です。
(4)銅亀山古墳(どうがめやまこふん)-宮内庁に号飛地-大仙町
一辺26メートル、高さ5.4メートルの方墳で、周濠の有無は不明です。古くは堂亀山とも記されていたようです。
昭和3・17年撮影の航空写真や墳丘測量図により、南側には前方部や造り出しなどが付く可能性があります。
(5)樋の谷古墳(ひのたにこふん)-宮内庁丙号-大仙町
仁徳天皇陵古墳の三重濠の西側面のほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47メートル、高さ2.8メートルの不整形な古墳です。古墳は濠を浚渫した時の土を盛ったものとも言われ、古墳かどうかは疑問視する意見もあります。
(6)一本松古墳(いっぽんまつこふん)-削平消滅-陵西通1丁
仁徳天皇陵古墳の西200メートルに位置していた直径20メートル程の円墳です。仁徳天皇陵古墳の周濠と旧市街の環濠の土居川を結ぶ樋の谷に面し、径13メートル、高さ3メートル程の墳丘が最近まで残っていましたが、1987年に宅地造成により削平されてしまいました。この時に緊急発掘調査が行われ、埋葬施設は確認出来ませんでしたが、古墳を飾っていた埴輪や古墳を築く際に行われたマツリに使われた須恵器や土師器が出土しています。
(7)菰山塚古墳(こもやまづかこふん)-宮内庁ほ号飛地-南丸保園
現在は住宅に取り囲まれた円墳状の墳丘が残るのみで旧状をとどめませんが、もとは墳丘全長33メートル、高さ4メートルの前方部が南を向く小規模な帆立貝形の前方後円墳でした。
(8)丸保山古墳(まるほやまこふん)-宮内庁へ号飛地-国史跡-北丸保園
墳丘全長87メートル、後円部径60メートル、前方部幅40メートルの前方部が南を向く帆立貝形の前方後円墳です。墳丘の周りには幅10メートル程の濠が巡ります。後円部は宮内庁が仁徳天皇陵古墳の陪塚(へ号飛地)として管理しているためよく残っていますが、前方部は民家と耕作地であったためかなり平坦に削平されています。
前方部と周濠は昭和47年(1972年)7月25日に国の史跡に指定されています。
(9)永山古墳(ながやまこふん)-宮内庁と号飛地-東永山園
墳丘全長100メートル、後円部径63メートル、高さ10.3メートル、前方部幅68.5メートル、高さ10.3メートルの前方部が南を向く中型の前方後円墳です。墳丘は2段に築成され、くびれ部の東側には造出しがあります。墳丘の周りには幅15メートル程の盾形の周濠が巡ります。墳丘は宮内庁が陪塚(と号飛地)として管理していますが、造出しがあり前方部と後円部が同じ大きさの前方後円墳であることから、独立した古墳とみられます。
応神16年に百済から来日し「論語」や「千字文」などを伝えた王仁(わに)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓とする伝承がありました。
(10)茶山古墳(ちゃやまこふん)-宮内庁甲号-大仙町
仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの西側にある径56メートル、高さ9.3メートルの円墳です。
茶山の呼称は、「堺鑑」に豊臣秀吉が仁徳天皇陵古墳で狩りをした時に、陵の上で仮の居宅を構えたあとを茶屋山と呼んだという記事があり、これに由来します。
(11)大安寺山古墳(だいあんじやまこふん)-宮内庁乙号-大仙町
仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの東側にある径62メートル、高さ9.7メートルの円墳です。
古墳の名前は、古くは大安寺の所有地であったことに由来し、別名、寺山とも呼ばれていたようです。
(12)源右衛門山古墳(げんえもんやまこふん)-宮内庁ち号飛地-向陵西町4丁
現状は直径34メートル、高さ5.4メートルの円墳の墳丘部が仁徳天皇陵古墳の陪塚に指定され宮内庁が管理しています。平成元年(1989年)に行われた発掘調査で幅5メートル、深さ1.8メートルの周濠をもつ墳丘径48メートルの円墳であることが確認され、この時に確認された周濠の外周を、現在道路上にブロックで明示しています。
古墳の名前は江戸時代の古墳の所有者名に由来します。
(13)鏡塚古墳(かがみづかこふん)-国史跡-百舌鳥赤畑町2丁
現状は径15メートル、高さ1.5メートル程の円墳状の墳丘が残っています。一時は古絵図などから墳丘長49メートルの東西主軸の帆立貝形古墳ではないかと考えられましたが、平成7年(1995年)に行われた発掘調査で周濠をもつ墳丘径26メートル、高さ2.5メートルの円墳であることがわかりました。
(14)塚廻古墳(つかまわりこふん)-国史跡-百舌鳥夕雲町1丁
直径35メートル、高さ5.1メートルの円墳です。
明治45年(1912年)の発掘で木棺とみられる埋葬施設が発見され、銅鏡2面と鉄剣をはじめ硬玉や碧玉製などの勾玉や管玉、棗玉などの玉類が多量に出土しています。その後、昭和33年(1958年)5月14日に国の史跡に指定されています。
平成元年(1989年)に行われた墳丘裾部の発掘調査で確認した幅10メートル深さ1.8メートルの周濠跡を道路上にタイルで明示しています。
(15)百舌鳥夕雲町1号墳(もずせきうんちょういちごうふん)-削平消滅-百舌鳥夕雲町1丁
大正15年(1926年)宮内庁測量の仁徳天皇百舌鳥中陵陵墓図に記された古墳で、同図では長(東西)辺17メートル、短(南北)辺15メートル、高さ3.4メートル程の小形の方墳として描かれています。しかし、現在はその痕跡すらなく、内容や正確な位置については不明です。古墳の名前は所在した地名で名付けています。
(16)収塚古墳(おさめづかこふん)-国史跡-百舌鳥夕雲町2丁
現状は径35メートル・高さ4メートル程の円墳状の墳丘だけが残りますが、元は周濠が巡る墳丘長59メートルの前方部を西に向ける帆立貝形の前方後円墳でした。墳丘には埴輪が巡り、墳頂部から短甲片が出土したといわれますが、詳細は良くわかりません。昭和33年(1958年)5月14日に国の史跡に指定されています。
平成28年(2016年)に行った整備で、現在は削平されている前方部を色違いのブロックで明示しました。
(17)鼬塚古墳(いたちづかこふん)-削平消滅-百舌鳥赤畑町3丁
古地図の畔道の形から古墳があったと推測されますが、かなり昔に削られ宅地になっているため確かなことはわかりません。古地図の畔からは全長64メートル、墳丘長46メートル、後円部径37メートル、前方部幅15メートルの前方部を西に向ける帆立貝形の前方後円墳が復元されます。
(18)坊主山古墳(ぼうずやまこふん)-宮内庁り号飛地-百舌鳥赤畑町2丁
仁徳天皇陵古墳の東260メートルに位置する周囲40メートル程の円墳であったと推定されますが、現在は一辺10メートル前後、高さ2.8メートル程の三角形状の墳丘が残るのみで、かなり古い段階に大規模な削平が行われています。
(19)長塚古墳(ながつかこふん)-国史跡-百舌鳥夕雲町2丁
仁徳天皇陵古墳の南南東約150メートルにある墳丘全長106.4メートル、後円部径59.4メートル、高さ9.2メートル、前方部幅75.2メートル、高さ10.6メートルの前方部が西を向く中形の前方後円墳です。墳丘は2段に築成され、くびれ部の南側には造出しがあります。墳丘の周りには幅14メートル程の盾形の周濠が巡っていたことが発掘調査で確認されていますが、現在は完全に埋まり、墳丘の裾まで家が建ち並んで囲まれています。
墳丘は昭和33年(1958年)5月14日に国の史跡に指定されています。本古墳は造出しがある前方後円墳です。
参考文献
- 堺市文化財課『堺の文化財百舌鳥古墳群』 2014年
仁徳天皇陵古墳の陪塚についての補足
陪塚19基の古墳を形から分類すると、前方後円墳2基、帆立貝形の前方後円墳6基、円墳8基、方墳2基、不定形墳1基になります。不定形墳の(5)樋の谷古墳は、濠をさらった時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されています。(6)の一本松古墳(いっぽんまつこふん)と(18)の坊主山古墳(ぼうずやまこふん)については陪塚というには少し距離が離れています。また、墳丘の長さが100メートル程の(9)の永山古墳と(19)の長塚古墳については整った前方後円墳であることから陪塚ではなく独立古墳ともみられます。
(写真)百舌鳥・古市古墳群 航空写真パネルより(常設展示場)
仁徳天皇陵古墳で発見されたもの
1.後円部の石棺
堺のことを書いた江戸時代の「全堺詳志」宝暦7年(1757年)刊に後円部の頂上に「石ノ唐櫃」のあることが記され、石のふたのサイズが、長さ1丈5寸(3メートル18センチ)、幅5尺5寸(1メートル67センチ)、厚さ8寸(24センチメートル)であるとされています。重さはわかりませんが、石材が凝灰岩として比重計算すると2から3トンはあると思われます。
2.前方部の石室と石棺
明治5年(1872年)に前方部の前面の斜面で発見された石室と石棺を、描いています。絵図には、石室の長さは東西方向におよそ1丈2から3尺(3.9メートル)、幅が南北方向におよそ8尺(2.4メートル)あまりで、20から30センチメートル程の丸石(自然石)を積上げて造られ、大石3枚で覆っていたと記されています。石室の中に納められていた石棺は蓋の大きさが幅4.8尺(1.45メートル)、長さ8から9尺(2.4から2.7メートル)、高さは3尺(0.9メートル)で、石棺の全体の高さは推定で5尺3寸(1.6メートル)程とみられ、石材が凝灰岩として比重計算すると10から15トン近くはあると思われます。石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようだと記されています。また石棺を据える時に縄を掛けた縄掛け突起が径1尺4寸(42センチメートル)と大きく、前面に朱が塗られているのが特徴です。
前方部 石棺・石槨復元模型(常設展示場)
3.前方部の石室と石棺の間で発見されたもの
副葬品(復元)
明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間には甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりがあったと記されています。
4.前方部の石室と石棺の間で発見された甲冑
明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間にあった副葬品のうち、甲冑については詳細な絵図が残されています。それによると、細長く延ばした銅板を組み合わせて鋲で留めた横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)と、長方形の銅製小札を組み合わせて鋲で留め、透彫のある庇や歩揺(ほよう)を付ける小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)がセットで描かれています。大きさは横矧板鋲留短甲が背の高さ1尺5寸(45.5センチメートル)、前部が1尺1寸2分(34センチメートル)、幅が1尺6寸(49.5センチメートル)あまりで総体銅鍍金と記されています。小札鋲留眉庇付冑は前後が6寸7分(20.3センチメートル)で、同じく総体銅鍍金と記されています。銅に金メッキしたきらびやかな甲冑は、大王の持ち物にふさわしいものです。
金銅製の甲冑(復元) (常設展示場)
5.埴輪・その他
円筒埴輪、形象埴輪-人物・馬・鹿・水鳥・家形埴輪・蓋形埴輪などがある
女子頭部(巫女)埴輪 | 現存高19.4センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
---|---|---|---|
馬埴輪(頭部) | 現存長31.8センチメートル 現存高21.0センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
馬埴輪(頭部) | 現存長35.6センチメートル 現存高25.6センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
馬埴輪(鞍部) | 現存長75.0センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
鹿埴輪(頭部) | 現存長31.9センチメートル 現存高21.4センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
水鳥埴輪(頭部) | 現存高32.5センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
馬埴輪(頭部) | 現存高15.0センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | |
馬埴輪 | 現存高17.0センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | 仁徳天皇陵古墳北方古墳周濠 |
家形埴輪飾り | 12.5センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | |
人物埴輪 | 現存高17.0センチメートル | 個人所蔵 | 仁徳天皇陵古墳周辺出土 |
馬埴輪(頭部) | 現存高17.5センチメートル | 個人所蔵 | |
須恵器・甕 | 口縁部径36センチメートル 器高62センチメートル 胴部復元最大径62センチメートル |
宮内庁所蔵 | くびれ部東造出し上面から出土 |
出土埴輪(複製/原品は宮内庁所蔵)(常設展示場)
※常設展示は一部入れ替える場合がございます。
仁徳天皇陵古墳 Q&A
Q1.仁徳天皇陵古墳ってなんですか?
1500年以上前の5世紀に造られた古墳で、日本全国に20万基はあるといわれる古墳の中でも最大です。
Q2.前方後円墳ってなんですか?
1700年前から1400年前に造られた古墳とよんでいるお墓のなかで、円形と方形を組み合わせてカギ穴の形に作った日本独特の形をした古墳のことです。日本にある多数の古墳のなかで、この形の古墳を造ることができた人は、支配者の中でもヤマト政権に認められた限られた人だけだったようです。その中で一番大きいのが仁徳天皇陵古墳で、このような巨大な前方後円墳を造ることができた人物が日本の頂点にいた大王であると考えられます。また、巨大な前方後円墳を頂点として、その下に位置づけられる大きさや、幾種類かの形に分けられた古墳が分布していることから、この大王が日本をある程度まとめていた、つまりその当時ある程度のまとまりのある国家ができつつあった証しと考えられています。
Q3.仁徳天皇陵古墳にはどのような人が葬られているのですか?
仁徳天皇陵古墳に葬られている人がだれか、本当はよくわかっていません。伝承では、『日本書紀』という日本で一番古い歴史書に出てくる第16代天皇の「仁徳天皇」の墓と伝えられ、「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(にんとくてんのう もずのみみはらのなかのみささぎ)」として宮内庁が管理しています。古墳は今から1500年以上前の5世紀に造られた日本最大の古墳で、当時の日本(倭)を治めていた大王(おおきみ)が葬られたことは確実です。しかし、当時は天皇という名前がないので、後の天皇と同じ様な人だったかどうかはわかりません
Q4.仁徳天皇陵古墳から出てきたといわれる甲(よろい)や冑(かぶと)ってどのようなものですか?ほかにどのようなものが埋まっているの?
仁徳天皇陵古墳から見つかった甲と冑は、明治5年に見つかった竪穴式石室の中に石棺とともに入っていました。しかし、これらは、出てきてすぐに埋めもどしたので、今は実物を見ることはできません。ただ、それらが見つかった時に描かれた絵図が残っていて、形や作りなどがわかります。それから見ると、甲と冑は銅で作られ、その上に金メッキしていることがわかります。このような銅の上に金メッキした甲と冑は当時とても貴重な物で、かなり位の高い人しか使えない、権力を表す持ち物だったようです。ほかにも、ガラスの器、大刀金具、鉄刀などがあったようですが、今まで本格的な発掘調査をしていないので、ほかにどんなものが埋まっているのかよくわかりません。
Q5.仁徳天皇陵古墳から出てきた甲(よろい)や冑(かぶと)は誰が作ったの?
現在、実物を見ることができないのでどこで誰が作ったのかよくわかりません。ただ、作り方が当時の最先端技術で作られていることが絵からわかるので、朝鮮半島や中国で作られたか、またこれらの地域の技術者が渡って来て作ったと思われます。
Q6.仁徳天皇陵古墳から出てきた物から国際交流がわかるって本当ですか?
金銅製の甲冑は銅に金メッキしたものなので、すでにこの時代に金メッキの技術があったことがわかります。これはアマルガム法という当時の最先端技術が使われています。また金銅板を接合するのに鋲留めという鋲を叩いて留める技法で作られています。これも当時の最先端技術で、両方とも5世紀に半島から伝わった技術です。また、当時の日本にはガラスの器を作る技術はなかったので、ガラスの皿と器は遠くペルシャ(今のイラクやイランのあたりにあった国)からシルクロードを経てもたらされたものと考えられ、今から1500年以上前に、シルクロードをとおして西アジアとも交流があったことがわかります。
Q7.甲(よろい)や冑(かぶと)の他に巨大な石棺や鉄の武器や道具から何がわかるの?
大きな石棺は凝灰岩という石で出来ていて、兵庫県から運ばれてきたことがわかっています。また、その重さは合計で30トンから50トンはあると計算され、これだけの重さの石を運ぶ運搬技術があったことがわかります。また、鉄製の武器や道具は、その原料となる鉄のほとんどが朝鮮半島からの輸入品で、それを集中的に調達し管理できる力を持つ支配者がいたことがわかります。
Q8.仁徳天皇陵古墳みたいな巨大な古墳をなぜ造ったの?
当時の日本の支配者である王は競うようにして大きなお墓(古墳)を造って、自分の力を誇っていました。なかでも、日本全体を治める王の中の王である大王(おおきみ)は、当時一番大きな墓(古墳)を造って、日本を治める最大の力を持つことを、示したと考えられています。
Q9.仁徳天皇陵古墳には大山古墳とか大仙陵など名前がたくさんありますが、本当の名前は?
仁徳天皇陵古墳は、日本最古の歴史書『日本書紀』などで4世紀(313年から399年)に在位していたと記されている仁徳天皇のお墓として宮内庁によって管理されています。しかし、最近の研究で古墳の造られた時代が5世紀だとわかってきたので、本当に葬られた人がわからなくなっています。現在、堺市では、仁徳天皇のお墓と考えられている古墳という意味で、「仁徳天皇陵古墳」という名前を使っています。
ちなみに、仁徳天皇陵古墳の名前には大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。またこれらの名前に仁徳御陵などの「御」や伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。
Q10.仁徳天皇陵古墳を造るのに何人の人が働いて、何年かかったの?
古墳を造るのに積み上げた土の量は約1,406,866立方メートル(運搬土量に換算すると1,998,000立方メートル、10トンダンプカーで27万台分)で、古墳に巡らした埴輪の数は約15,000本(※)。古墳の墳丘が痛まないように表面に貼り付けた葺石が14,000トン(ダンプカーで1,300台分)として計算すると、古墳を造るのに働いた人は延べ6,807,000人で、一日当たりピーク時2,000人が働いたとして工事期間は15年8カ月以上かかった計算になります(以上、大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』1985年より)。また、これらの人が働くには食料や道具などが必要です。それらを供給する人も多数いたことになります。当時の日本の総人口が500から600万人位といわれている時にそれだけの人々を、個人のお墓を造るために集めて支配できた、それだけ大きな権力を持った人がいたという証拠になります。
なお、別の説によると、盛土土量が1,405,866立方メートルで運搬距離250メートルを一人一日1立方メートルは運ぶとして、土の運搬だけで1,405,866人が必要で、それに要する期間は毎日1,000人が働いて約4年弱かかるという計算もあります(以上、梅原末治「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と営造」『陵墓関係論文集』宮内庁書陵部陵墓課編1980年(書陵部紀要第5号[1955]所収)より-高橋逸夫氏の計算)
(※)埴輪の数は?
仁徳天皇陵古墳に立てられた埴輪の数にもいくつかの試算があります。埴輪が立てられた場所、埴輪の大きさや設置の間隔など、仮定となる要素が複数あるためです。第1堤と墳丘に並べられた数で15,000本とする説、墳丘と堤を合わせた総延長から約21,000本とする説・29,000~30,000本とする説などがあります。
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