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今こそ知っておきたい古墳の謎・謎・謎

更新日:2021年5月27日

古墳の謎 トップバナー

2019年に世界遺産に登録され、注目を集めている百舌鳥・古市古墳群。
堺市内に多数点在する古墳がどんな目的で、どのようにして作られたのかご存知ですか?
現代人から見ると不思議だらけな古墳の謎に、古墳ライター・郡麻江さんと、古墳ビギナーの編集者イトウさんが迫っていきます。
古墳の謎を探ればきっとあなたも「古墳ファン」に!

古墳に残された橋の意味は?

見るだけじゃない、登れる古墳がある?

え、これが古墳?そう、古墳なんです

消えてしまった古墳

巨大古墳のまわりにある小さな古墳の正体は

[古墳の謎その1]古墳に残された橋の意味は?

橋に隠された古墳と市民の絆。フレンドリー古墳の代表格。

5世紀前半の築造で、墳丘長146mの前方後円墳であるいたすけ古墳。豊かに水を湛えた周濠に囲まれ、晴れた日は水面に墳丘が美しく映ります。
のどかな風情を漂わせているこの古墳も、昭和30年頃には宅地開発の波に呑まれ、消滅の危機にありました。古墳自体を住宅地にする計画が持ち上がりましたが、「この古墳を守られなければ!」と市民と若い考古学者が立ち上がり、保存運動を展開。ギリギリのところで守られたという逸話があります。

ズバリ聞きたい!古墳ビギナーの疑問!?

(編集者イトウ)
古墳に架かっている橋って古代のものじゃないですよね? 誰がいつ、どんな理由で架けたのですか?

(郡 麻江)
周濠に途中まで架かっている橋。じつはこれ、工事車両のためのもの。昭和30年頃、この橋を使って土を運び出そうとしていたんです。いよいよ古墳が壊されてしまうという時に学生や教員、若い考古学者が古墳の重要性を説いたことで保存運動の波が市民にも広がって、市民の力でこの古墳は守られました。

朽ちた橋は工事の名残り


(編集者イトウ)
そこまで工事が進んでいたのに、よく中止できましたね。
(郡 麻江)
当時、すでに「小島に家を建てませんか?」風の謳い文句も考えられていたようです。まさに売り出されようとする寸前で、堺市が土地を購入することができました。後円部から衝角付冑型埴輪しょうかくつきかぶとがたはにわが見つかっていますが、市民が古墳を守ったことの大切な記憶として、堺市の文化財保護のシンボルにもなっているんですよ。

いたすけ古墳から出土した「衝角付冑型埴輪しょうかくつきかぶとがたはにわ」。堺市博物館に展示しています


(編集者イトウ)
たぬきが住み着いているって本当ですか?
(郡 麻江)
はい。この古墳は動物たちにも愛されているようで、鷺や鴨などがやってきます。それと、テレビや新聞などでも話題となりましたが、たぬきが見られることでも知られています。橋をちょこちょこと渡って愛らしい姿を見せてくれるそうですが、私は何度も訪れているのに、まだ一度も会えていません。悔しい!(笑)。

たぬきのお出まし風景。いつも顔を見せてくれるわけではないので、一度来てすぐ出会えたら本当にラッキー!?


(編集者イトウ)
「いたすけ」ってなんですか?
(郡 麻江)
「いたすけ」という名前の由来を研究者の方に聞いてみたのですが、周濠の部分が板鶴池(いたづるいけ)と呼ばれていたり、「井タツケ」と描かれてる絵図もあるそうです。でも、なぜ「いたすけ」と呼ばれるようになったのかはよく分かっていないようです。そこは、もう勝手に妄想して、このあたりに「いたすけさん」という、呑気で気楽なおじさんが、たぬきたちと平和に暮らしていて……なんて想像を楽しんでもいいかも(笑)。

(編集者イトウ)
いたすけ古墳の魅力は?
(郡 麻江)
この古墳には明るい空気が流れていて、ホッとするというか。見ているだけで気持ちが明るくなってきます。よく古墳には「気」が流れていると言われるのですが、本当に明るくて良い「気」に満ちた場所です。橋の反対側には公園もあるので、お弁当を持っての古墳ピクニックもおすすめ。桜のお花見や紅葉のシーズンなど、それぞれの季節で色々な表情を見せてくれる大好きな古墳です。

橋の反対側は公園になっています。桜越しの古墳は「映え」ますね!

古墳ビギナーの探訪雑記

(編集者イトウ)
百舌鳥駅を南に向かって住宅地の中に入ると、突然現れるのでちょっと驚きました。お昼ごろに行ったときは亀たちが橋のたもとでくつろいでいたのですが、夕方もう一度訪れたら、ラッキーなことにたぬきに出会えました!近所の方が言うには、多いときは10匹ほどいたよ、とのことです。墳丘と周濠の距離が微妙で、ビギナーでもカッコいい写真を撮れるフォトジェニックな古墳でした。

古墳コラム

いろいろあるよ!古墳のカタチ

前方後円墳
日本における古墳のイメージとして定着している前方後円墳。古墳時代を通して造られ、その形状は日本独特のものですが、なぜこのような形になったのかは諸説あります。

[古墳の謎その2]見るだけじゃない、登れる古墳がある?

墳丘のカーブが美しい定の山古墳

「木が茂って古墳がよく見えない」「中に入ることができない」などといわれている百舌鳥古墳群ですが、44基の古墳の中には、じつは登れる古墳、「定の山古墳じょうのやまこふん」「御廟表塚古墳ごびょうおもてづかこふん」があるのです。古墳に登れると思うだけでマニアはドキドキ・・・。実際に登ってみると、その形や墳丘の高さが手に取るようにわかるし、景色も思った以上に遠くまで見えて素晴らしい。古代の人々が一生懸命に築造した古墳。感謝の思いで登れば、きっとさらなる感動が得られるはず。

ズバリ聞きたい!古墳ビギナーの疑問!?

古墳って立入禁止なイメージですが、登れる古墳は何が違うの?

仁徳天皇陵古墳など、陵墓や陵墓参考地となっている古墳は宮内庁の管轄で宮内庁の定めたルールに基づいて管理されているので、入ることはできません。国史跡など堺市が管理している古墳は、安全性の確保をどうするのかや古墳をどう保存するかで、登れる、登れないという判断がなされているようです。定の山古墳は公園として、御廟表塚古墳はかつて緑の広場として、整備されているので登ることができます。

定の山古墳には、階段があり、楽に登ることができます。


(編集者イトウ)
定の山古墳はどんな古墳?
(郡 麻江)
定の山古墳は見晴らしがよく、あっけらかんと明るいウェルカムな雰囲気の古墳です。5世紀後半の築造で、墳丘長69m、墳丘の形が崩れていて円墳のように見えますが、実は帆立貝形古墳(下記コラム参照)です。墳丘にとても立派な桜の木が一本生えていて、花見の頃や紅葉の頃には、フォトジェニックな景色を見せてくれます。”映える古墳”としてもおすすめです。

定の山古墳の頂上部からの眺め。意外に高さもあり眺望も良いです。

横には児童公園があり、なんとものんびりのどかな雰囲気の定の山古墳。


(編集者イトウ)
御廟表塚古墳はどんな古墳?
(郡 麻江)
御廟表塚古墳は5世紀後半築造のこちらも帆立貝形古墳で、墳丘長は84.8m、出土品として埴輪も見つかったそうです。この古墳に登ると、木々に囲まれた空間があり、静寂に包まれた、どこか孤高な古墳です。ここではぜひ、静けさを楽しんでほしいです。

住宅街の中に静かに佇む御廟表塚古墳


(編集者イトウ)
御廟表塚古墳の近くにあるめちゃくちゃ大きな木ってなんですか?
(郡 麻江)
古墳のすぐ近くに大きなクスが2本立っていますが、1本は大阪府指定天然記念物、もう1本は堺市保存樹木に指定されています。かなり見ごたえのある大木なので、こちらもお見逃しなく。

旧家の筒井邸の屋敷を守るように生えているクス。精霊が宿っていそうな、パワーというか「気」を感じます。

(郡 麻江)
2基とも登ってみると傾斜が意外にきつく、自然のものではなく、人の手で作られた人工物だということが実感できます。ぜひ両方登ってみて、それぞれの違いを味わってくださいね。ここから、ニサンザイ古墳や御廟山古墳に行ってみるのもおすすめです。

古墳ビギナーの探訪雑記

(編集者イトウ)
定の山古墳は、離れて見ると墳丘の形がとてもきれいで、ちょっとお饅頭のよう。手前の公園で子どもたちが遊んでいる姿にほのぼのとしました。御廟表塚古墳は、あまりに自然の景色になじんでいるので、最初見つけるまで時間がかかりました。こんもりした墳丘のてっぺんは、木々に囲まれていて、なんとも独特な雰囲気。

古墳コラム

いろいろあるよ!古墳のカタチ

帆立貝形古墳
古墳といえば前方後円墳を思い浮かべがちですが、形のバリエーションは豊富。「帆立貝形古墳」は、古墳時代の中期に造られ、前方後円墳のような大きな前方部をつけることを大王に禁止されたため、このような形になったという説があります。

[古墳の謎その3]え、これが古墳?そう、古墳なんです

これも古墳?その小ささがかえって忘れがたい古墳の数々

このフェンスに囲まれた素通りしてしまいような小さな高まりが、じつは古墳。その名も「東上野芝町一号墳」。円墳と言われていますが、詳しいことはわかっていません。なぜこんなところに古墳が?と思いますが、小さいけれど健気に残ってくれている、それだけで嬉しいじゃありませんか。

ズバリ聞きたい!古墳ビギナーの疑問!?

たまに見かける小さな古墳、どう見てもただの土手にしか見えないのですが・・・。

かつては約100基の古墳があったと言われている百舌鳥古墳群。残念なことに、土地の開発によって約半数が姿を消しています。とくに戦後復興の頃は、古墳=文化財という認識が低く、開発の波が押し寄せ次々と古墳が壊されていったようです。資料を見ると、仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳の間、現在の大仙公園の周辺には古墳がポコポコとあったようで、東上野芝町一号墳もその中の1基でした。周りの小さな古墳には消えてしまったものも多く、また、150m以上の墳丘長がありながら消えてしまった古墳もあるのに、なぜ、この小さな古墳が生き残ったのか?そのあたりの理由もはっきりとはわかっていません。

電車の車窓から姿を見かけると、「よっ、元気にしてる?」と心の中でつい声をかけたくなる風情があります。


(編集者イトウ)
どんな人が埋葬されているんですか?
(郡 麻江)
すべての古墳で埋葬施設が見つかっているわけではなく、例えば武具類や装飾品など、副葬品と言われる”モノ”だけが埋められていると考えられる古墳もあります。これらの古墳も実際は、埋葬施設があったのか、副葬品だけを収めていたのか、そのあたりもわかりませんし、墳丘の大きさや築造時期もよくわかっていません。

(編集者イトウ)
その他の小さな古墳についても教えて
(郡 麻江)
スーパーの裏手にひっそりとある鏡塚古墳は、自転車が立てかけられたり、商品を搬入するトラックがすぐそばに停まっていたり、庶民の暮らしに身近すぎるのが面白いですね。住宅地の中に鎮座する経堂古墳きょくどうこふんは、一瞬、周囲の家の庭の一部かと思ってしまう見た目が特徴的。閑静な住宅地を歩いていると、突然現れる唐突さがたまりません。

5世紀中頃に築造された鏡塚古墳。直径26mの円墳だった墳丘は周囲が盛土で高くなったことで現在のサイズに。

履中天皇陵古墳の陪塚ではないか?と言われている経堂古墳は直径20mの円墳。築造時期も不明で詳細は謎。閑静な住宅地の中でどこかセレブ感を漂わせています。

古墳ビギナーの探訪雑記

(編集者イトウ)
地図を頼りにレンタサイクルで小さな古墳たちを探し回ったのですが、どの古墳も二度見、三度見して、初めて「あぁ、これか!」となりました。それぞれどんな経緯で、現代まで残ってきたのか本当に謎ですが、この小ささは古墳マニアからすると、いわゆる”萌え”の対象なのかなとも感じました。

古墳コラム

いろいろあるよ!古墳のカタチ

円墳
実は日本で一番多い古墳の形状である円墳。直径2~3mの小さいものから100m越えの巨大なものまでサイズも幅広く、古墳時代後期に数多く造られました。

[古墳の謎その4]消えてしまった古墳

まるくカーブした道や段差に、今はなき当時の姿を垣間見る

住宅地の中を巡ると、なぜか家々がまるくカーブした道沿いに並んでいる場所があります。ここは消えてしまった古墳「大塚山古墳」の後円部だった場所。5世紀初めの築造と言われる墳丘長168mの大きな前方後円墳が、まさしくここにあったのです。昔の航空写真で見るとかつての前方後円墳の跡がよくわかります。カーブした道のように、一部に面影が残っているけれど、古墳の跡と知らなければ普通の住宅地としか思えません。刀や剣、甲冑など数多くの鉄製品とともに、銅鏡、勾玉など多数の貴重な出土品も見つかっている重要な古墳ですが、もし今、残っていれば、堂々とした勇姿で古墳マニアたちを魅了していることでしょう。

ズバリ聞きたい!古墳ビギナーの疑問!?

古墳が住宅になったりしていますが、古墳って壊してもいいんですか?

戦後の復興から昭和の高度成長期のころをピークに、堺でも宅地開発が進んで、多くの古墳が姿を消してしまいました。当時は法津で古墳を文化財として保護する仕組みがなく、次々と取り壊されてしまったそうです。大塚山古墳は、宅地造成の工事を進めると同時に緊急発掘調査が行われました。貴重な出土品が出て調査隊が沸くその横を、ブルドーザーがひっきりなしに通る。調査が終われば、墳丘がどんどん崩されていく・・・。今、聞いても胸が痛くなるような情景です。当時の研究者たちの気持ちは、いかばかりだったか・・・。

大塚山古墳からは貴重な出土品が多数発見されています。(左)銅鏡三神四獣鏡、(右)勾玉と菅玉 堺市博物館で見ることができます。


(編集者イトウ)
大塚山古墳には、どんな人が埋葬されていたんですか?
(郡 麻江)
履中天皇陵古墳のすぐ南にあって、位置的にも造られた時期的にも近いことから、履中天皇陵古墳の被葬者と関係が深かった人物の墓と考えられています。全国的にも珍しい甲冑や剣など、武具類が多く出土していることから、相当位の高い人物かもしれない・・・。なんて想像もできます。


(編集者イトウ)
大塚山古墳の名残ってどこにあるんですか?
(郡 麻江)
実際に住宅地を歩くと、写真のように急にまるくカーブする場所があって、このへんが後円部だったということがよくわかります。住宅地の真ん中に公園があるのですが、おそらくそのあたりがくびれ部と後円部の間ぐらいの場所。もっと西に行くと、がくんと土地に段差がある場所があって、そのあたりが前方部の下の辺だったのかな?坂の下は周濠だったのかな?と想像が膨らみます。

まるく弧を描く道路。この不思議なカーブに大塚山古墳の名残をしっかりと感じることができます。

住宅地の真ん中にある小さな公園。この辺りは後円部でも、くびれ部にかなり近い部分だったと想像できる。今、古墳のどのへんにいるのか想像しながら歩くのも面白い。

古墳ビギナーの探訪雑記

(編集者イトウ)
公園にある説明板を見なければ、かつて古墳のあった場所とは絶対に気づかないはず。ただ、普通の住宅地ではありえない、カーブ状に連なった家々の周りを歩いていると、「お~、これ前方後円墳やん!」と実感でき、古代のロマンに思いを馳せることができます。ある意味、体感型古墳!?

古墳コラム

いろいろあるよ!古墳のカタチ

方墳
四角形の形がピラミッドなどを連想させる方墳。古墳時代を通してよく造られています。6世紀末以降には、大王の墓も方墳に変わるなど、古墳時代の変遷で大きな役割を果たしています。

[古墳の謎その5]巨大古墳のまわりにある小さな古墳の正体は・・・

仁徳天皇陵古墳の楽しみは、周囲を巡ってこそ・・・!

仁徳天皇陵古墳は言わずと知れた国内最大の前方後円墳。この巨大古墳を楽しむには、まずは古墳の周りを巡ってみてほしい。1周約3kmをゆるりと歩けば、周囲に小さな古墳が点在していることがわかります。大王墓といわれる大きな古墳に対して、その近くにある小さな古墳を、「陪塚」(ばいちょう、または、ばいづか)といって、大王墓と関係の深い古墳とされています。仁徳天皇陵古墳の周りには10基以上の陪塚があるといわれ、それぞれに説明板があるので、ぜひ、地図を手に陪塚巡りも楽しんでみましょう。

ズバリ聞きたい!古墳ビギナーの疑問!?

こんなに巨大な古墳や周囲に陪塚を作らせた仁徳天皇って、いったいどんな人だったんですか?

『日本書紀』によると、仁徳天皇は河内平野の水害を防ぎ、難波の堀江の開削と茨田堤(現在の大阪府寝屋川市付近)の築造や田地の開拓などを行ったとあります。人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上がっていないことに気づいて3年間租税を免除し、自らも倹約のために宮殿の屋根を葺き替えなかったという「民のかまど」の話もよく知られています。こういった記述から、仁徳天皇の治世は仁政と言われています。

(郡 麻江)
百舌鳥・古市古墳群の巨大古墳の被葬者を考える時に、注目されるポイントが「倭の五王」です。中国の『宋書』に記されている日本の5人の歴代の王のことで、「讃」「珍」「済」「興」「武」の5人の王がいたとされています。この5人が活躍した時代が、百舌鳥・古市古墳群築造の時代と重なるので、どの王がどの古墳の被葬者なのか?ということは、研究者から古墳ファンまで、もうたまらない謎なんです。「讃」を仁徳天皇、または履中天皇とする説や、「珍」を履中天皇、または反正天皇とする説、ほかに「武」は雄略天皇とする説が有力と言われています。他府県の古墳群マップを見た時、比較のために仁徳天皇陵古墳が載せられていたのですが、その半端ない大きさにびっくりしました。

(編集者イトウ)
陪塚ってどんな古墳なの?
(郡 麻江)
陪塚は直訳すると「従う墓」という意味があるのですが、主たる古墳の被葬者と関係の深かった人の古墳の場合もあるし、必ずしも人の埋葬施設がある古墳ばかりではなく、例えば当時の最新技術で作られた鉄の武器・武具や農具、あるいは勾玉や玉といった装飾品など、物品だけを埋めて人体埋葬が確認されていない古墳もあります。貴重な、大切なものを副葬することで、被葬者の地位の高さや財力など「この人はこんなにえらい、凄い人やった!」「こんなに沢山の陪塚を従えている」というステータスを示したとも考えられています。

仁徳天皇陵古墳の陪塚である茶山古墳付近の濠には橋と門のようなものがあるが、門は閉じたまま。宮内庁の点検の時などに開くものと思われます。

(編集者イトウ)
陪塚が造られた時期は?
(郡 麻江)
仁徳天皇陵古墳の周囲の陪塚は、同時期に築造されたものが多いですが、中には築造時期がよくわからない古墳もあります。誰の意思で、誰の命令で造られたのかも謎。でも、わからないなりに点と点を結んでいくと、勝手妄想の相関図が見えてきて、それもまた古墳巡りの楽しみの一つになります。玉や勾玉など美しい装飾品がたくさん出てきた古墳なら、王妃の命で築造されたのではないか?とか、被葬者自身がオシャレさんだった?とか、想像がどんどん膨らんでいきます。

仁徳天皇陵古墳の陪塚と言われている永山古墳。周濠を持ち、墳丘長100mクラスの前方後円墳。

百舌鳥古墳群には方墳が非常に少ない。その1基が仁徳天皇陵古墳の陪塚と言われている銅亀山古墳。角のエッジがはっきりしていて四角い方墳の形を捉えやすくなっています。


(編集者イトウ)
陪塚にはどんな種類があるの?
(郡 麻江)
小さくてもたくさんの副葬品が出土している古墳や、周濠の中に浮島のようにぽっかり浮かんでいる古墳、百舌鳥古墳群では珍しいかたちの四角い方墳、少し離れたところにポツンと佇む古墳など、その個性はさまざまです。

孫太夫山古墳は「南孫太夫さん」という江戸時代の床屋さんの所有だったことから、持ち主の名前で呼ばれています。

仁徳天皇陵古墳の東側に突然、ぽこんと現れる塚廻古墳。直径35mほどの円墳だが、ここからひすいの勾玉やガラス玉など美しい装飾品がたくさん見つかっています。見た目は地味だけど、輝くような装飾品を長い間、守ってくれていました。

古墳ビギナーの探訪雑記

(編集者イトウ)
「仁徳天皇陵古墳やその周辺の古墳を巡る」なんて聞くと、一瞬すごい距離のように感じますが、今回取材のため、レンタサイクルで巡ったら、じっくり見えても3時間ぐらいで回ることができました。特に大仙公園内の陪塚は古墳の形をしっかりとらえることができるので、古墳ビギナーは必見です。

古墳コラム

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