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記念講演

更新日:2012年12月19日

大賞 田内 基さん

 今から42年ほど前、韓国の木浦市という所で、一人の人が亡くなりました。その人の葬儀には3万人近い人が駆けつけ、その人、田内千鶴子さんのために、心から泣き悲しみました。
 彼女はほんとうに貧しい主婦でした。いったいどうして、一人の主婦のために、3万人もの人が集まったのでしょうか。
 孤児たちのために生涯を捧げるには、大きな勇気がいったと思います。彼女は「愛には恐れがない」という聖書の言葉どおりに生きたのです。
 みなさん「親」という字を書いてみてください。
 「木の上に立って見る」と書きます。子どもが遠くまで去っていく姿を親はいつまでもいつまでも見守っています。その姿が見えなくなると、木の上に立って見る。そうした親がいて人の子は育つのです。
 その親を失った子どもたちにとって、もし、千鶴子さんがいなかったらどうなったでしょう。
 子どもたちは、愛されなければならない存在です。愛され、愛する姿を見て、愛することの大切さを学びます。
 しかし、すべての子どもたちが愛されるわけではありません。
 今日、産業中心の競争社会は愛より物を大切にする人が増えています。プライバシーの尊重、隣人という存在が、少しずつ遠くなっています。
 こうした中で、子どもたちも苦しんでいます。母親が子どもを殺す事件が続いています。自殺も増えています。
 愛されない子どもを私たちはどうすればいいでしょうか。
 親から愛されないならば、親に代わって市民が育てるのが市民社会です。
 その草分けが私の父と母が生涯を捧げた韓国の木浦共生園です。
 愛された子どもは愛する人になります。愛されない子どもが愛する人になるのは難しいことです。
 被害者は受けた傷の痛さを忘れず、加害者はその責任を忘れる。
 日本が韓国に犯した罪が二つあります。
 一つは、力と強さで弱さを侵略したことです。
 もう一つは、同化政策です。同じになれと強要しました。違いを認めないのです。
 田内千鶴子と尹致浩が結婚するとき、日本人も韓国人もみんな反対しました。ただ一人、祖母・春が「結婚は国と国がするものではない。人と人がするもの。神の国には韓国人も日本人もない。全て神の子どもだ」と言って母を励ましました。
 田内千鶴子は韓国と日本の架け橋でした。
 和解とは、加害者が被害者に対して罪を認めわびる。被害者が加害者を許す。そして加害者も被害者も本当にそれを受け入れて心を開きあうことが和解です。
 第二次大戦が終わって、立場が一変しました。父・尹致浩は親日派として攻撃されました。母・田内千鶴子は日本人妻としていじめられました。
 このとき「お父さん、お母さんに手を出すな」子どもたちは涙を流して、こん棒を持ち、体を張って二人を守り抜いたのです。
 千鶴子は民族が違っても真実は通じると感激しました。これが共生園の輝かしい歴史です。
 愛された子どもが愛する人に成長したのです。
 愛されたら愛する。
 愛したら愛される。
 これが人生であります。

 田内千鶴子が初めて父・尹致浩に出会いましたとき、バラック建ての建物で、一部屋しかございません。仕切りも障子もなく、電気もガスもありませんでした。
 父は靴がないのか、わらじを履きながら子どもたちの世話をしていました。その父を見て、母は美しい姿だと思いました。苦労しているのにその眼が青く澄んでいるのに心打たれたのでございます。そして結婚しました。
 朝鮮戦争の一番苦しいときに、父が行方不明になりました。これから二人で力をあわせても大変なのにパートナーを失ったのです。どんなに苦労を重ねたことでしょうか。言葉に尽くすことはできないと思います。
 1963年8月15日韓国政府は、日本と国交正常化前に日本女性に初めての文化勲章を田内千鶴子という日本名で贈りました。
 1968年10月31日。母・田内千鶴子は、56歳の誕生日に天国に召されました。
 貧しい一人の日本女性の葬儀を木浦市は、開港以来初めての市民葬で見送り、3万人もの人が集まり、泣き悲しみました。
 これは、国籍よりも人間が優先する社会の大切さを木浦市民が私に教えてくださいました。
 私は、父母の遺業を継ぎ、26歳で320人の子どもたちの父親になりました。韓国のGNPが169ドルで国全体が貧しい時代でした。
 それから4年。私も日本の女性と結婚しました。同志社大学で社会福祉を専攻した彼女は私に大きな力になりました。
 孤児の母の後を継いだ妻は、木浦市民を大切にしてくれました。大阪市民は「大阪愛の家」を建ててくれました。この家は、今も子どもたちの宿舎として使われています。
 子どもたちに希望と平和を贈ってくださいました。
 生まれたばかりの命が、毎日共生園に棄てられました。棄子一時預かり所を開設しました。冬の日、棄てられた子どもが遅くに発見され、病院に運ばれました。そういうことがあったので、棄てる前に相談できるように共生家庭相談所を設置しました。
 子どもたちの就職先は無く、真面目に働こうにも働く場所が見つからない。卒園生たちは悲しくなり、泣きました。
 「18歳で棄てるくらいなら、子どもの頃死なせてくれたらこんなつらい思いをしなくてもいいのに。」と言いました。
 子どもたちの自立をめざして、少年少女職業訓院をソウルに開設している時、日本から婦人雑誌「主婦の友」が送られてきました。
 そこには亡くなった母の手記が載っておりました。
 「私の唯一の願いは共生園を出て行く子どもたちに職を与えることです。」
 母の夢だったと思うと力が湧いて参りました。
 もっと驚いたのはそのあとです。
 「嬉しいことに親父に似た長男の尹基(ゆんき:田内基氏)は、今、社会事業を勉強しています。」
 私が社会福祉を勉強したいと言った時、「この仕事は、ベートーベンの未完成作品のように、いつまでも、いつまでも終わりがない仕事。今いる子どもたちが大きくなったら、また新しい子どもたちが入ってきます。苦労は私たちで終わりにしたい。あなたはあなたの好きな道を選びなさい。」と母は泣きながら反対したのでした。
 職業訓練院で一年間技術を手にした少年少女たちの目には輝きがありました。
 「強い意志を持ちます」
 「有能な技術者になります」
 「隣人を愛します」
 「税金を払う市民になります」
 この院訓は多くの人たちに誇りを持たせました。そして、ソウル市民のための職業専門学校にまで発展しました。卒業生たちは、いまは世界の5大洋6大州で汗を流しています。
 これからは日本と韓国が手をつなぎ、アジアの人たちへ温かいこころを分かち合いたいと、東京事務所を開設しました。
 日本が高齢化社会に突入した時のことです。
 1983年名古屋で在日コリアンの孤独死が報道されました。
 なぜ、経済大国の日本で老人は孤独に死んでいくのか。
 在日コリアンが日本の土になろうとするとき、故郷を兄弟を、両親を思いながら「キムチが食べたい。」と韓国語で話すことでしょう。
 私は泣きました。若いときは国を失われ、異郷の日本まで来て、苦労をし、戦後は日本の復興のために一緒に汗を流したのに、一人寂しく旅立つとは。
 50年間を韓国で暮らし、孤児たちのためにと生涯を捧げ、韓国孤児の母とまで言われ、韓国人になり切っていた田内千鶴子でしたが、病床で私に言った言葉は日本語で「梅干しが食べたい」でした。
 民族の血が言わせたのか。母の心はふるさとに帰っていたのです。母にとってしゃべりやすい言葉は日本語で、食べやすいものは日本の料理だったということに初めて気が付きました。
 大きなことはできないとしても、せめて、在日コリアン高齢者たちにオンドル部屋で、ハングルを話し、キムチが食べられる老人ホームができたらどんなに喜ぶだろうか。
 朝日新聞の「論壇」に訴えました。
 在日韓国老人ホームを作ることは、「日本人の良心」だと思いました。
 「日本人は前例が無いことはしない」
 「許可が下りない」
 「日本の企業は寄付をしない」
 「日本人を期待したら大変な目にあう」
 「やめなさい」と、言われました。
 多くの壁にぶつかりました。
 制度の壁がありました。心の壁もありました。認識の違いの壁もございました。
 在日コリアンの老人ホームを建てるのは反対だという70代後半の女性に「あなたの孫の時代には、日本と韓国が仲良く暮らす社会をプレゼントしましょう」と言いました。
 「それはそうだけど」と、理解してくれました。
 老人ホーム作りで学んだことは、日本人は正直、勤勉、親切だと言って私を育てた母の言葉を信じることの大切さでした。
 80代のコリアンの男性が「故郷の家」に訪ねてきました。案内する私にこう言いました。
 「この年になるまで日本人を憎んできました。力が付いたらいつかは仕返ししたいと思いました。だが、ここに来てみて、あの若い日本の青年たちがコリアンの老人の介護をしている姿を見て、その気持ちがなくなりました。時代がいい方向へ変わりました。私も交流します。」と。
 12歳の少女、金海英は、ソウルの少年少女職業訓練で技術を学び、障害者技能オリンピックで金メダルをとり、アフリカのボツワナで職業訓練学校を作リました。さらに勉強をめざし、コロンビア大学院で社会福祉修士学位をこの秋取得しました。今度はほかの国へ行くようです。
 愛は国境を越えていくのです。助けられて助ける。愛されて愛する。それが共生という言葉の意味ではないでしょうか。
 木浦市の郊外ではじめた共生の心が地球を廻っている明日の夢を見ています。
 ありがとうございました。
 カムサハムニダ。

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