1945(昭和20)年の出来事
更新日:2025年5月1日
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1月の出来事
13日 三河地震
愛知県東部を震源とするマグニチュード6.8の三河地震が発生しました。最大震度7相当の地震と見られ、死者は2,306人でした。戦時中で被害報道がほとんどされず、被害実態が近年までわかっていませんでした。
2月の出来事
4日~11日 ヤルタ会談
ヨーロッパでは、西部戦線、東部戦線でドイツは連合国軍から攻勢を受け、戦況は非常に厳しいものになっていました。そのような中、連合国のルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連書記長がソ連のヤルタで会談を行い、ドイツの戦後処理、ドイツ降伏後のソ連対日参戦などが話し合われました。
19日 米軍硫黄島に上陸開始
米軍が本土爆撃の中継基地とするため、小笠原諸島硫黄島への上陸作戦を開始しました。硫黄島では、1944(昭和19)年に、軍属として徴用された男性103人を残して、島民は本土へ強制疎開させられていましたが、この戦いで、日米両軍合わせて2万8千人、島民82人の尊い命が失われました。戦闘は3月26日に終結しました。
3月の出来事
10日 東京大空襲
B29米軍爆撃機が、夜間に東京都区部へ低高度から約1,700トンに上る大量の焼夷弾を投下しました。これにより大火災が起こり、消火活動による逃げ遅れなどの要因も重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5,000人を超える方が亡くなりました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人にのぼりました。
13日 大阪大空襲(第1次)
13日深夜から翌14日未明にかけ、B29米軍爆撃機274機が、大阪都市部に約1,700トンの焼夷弾を投下しました。市街地は火の海となり、被災家屋は約13万6千戸、約4,000人の方が亡くなりました。
13日 堺空襲(第1次)
13日深夜から翌14日未明にかけ、堺市は、B29米軍爆撃機による初めての空襲を受けました。B29は、まず堺市東北部上空に現れ、錦綾町東部、香ヶ丘町、浅香山町に投下された焼夷弾により、付近民家は猛火に包まれました。さらにもう1機が西南方より現れ、北は中日橋筋、南は花田口筋北裏側、東は阿倍野鳳線府道西裏側、西は土居川沿岸約半丁手前の狭い範囲に焼夷弾が投下され、猛炎、黒煙がうずまきました。攻撃はこの後第3次第4次と相次ぎ、約200戸が全半焼し、4人が死亡しました。
26日 米軍が慶良間諸島に上陸
米軍は沖縄本島上陸作戦の補給基地として慶良間諸島の制圧を開始しました。数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、26 日には座間味の島々へ、27 日には渡嘉敷島にもに上陸し、沖縄での地上戦が始まりました。
4月の出来事
1日 米軍が沖縄本島に上陸
米軍が、1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって、読谷・北谷海岸から沖縄本島に上陸を開始しました。その日のうちに、陸軍北(読谷)飛行場、陸軍中(北谷)飛行場を占領しました。ここから約 3~5カ月にわたる沖縄戦が始まりました。
7日 沖縄戦特攻作戦・戦艦大和が沈没
圧倒的な物的戦闘力に勝る米軍の沖縄進攻を阻止するため、日本軍は「特別攻撃隊」(通称「神風」)による作戦を発令しました。この沖縄での特攻作戦では陸海軍合わせて約1,600機が出撃し、約3,000人が亡くなりました。また、戦艦大和が沖縄に突入する特攻作戦を行い、7日鹿児島県の坊ノ岬沖合でアメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受け3,000人を超える命と共に海に沈みました。
20日 ベルリン攻防戦
ヨーロッパでは、西部戦線で連合国軍が、東部戦線でソ連軍がドイツへの攻勢を強めていました。ついに20日には、ソ連軍は重砲をドイツ首都ベルリン北郊へ撃ち込み始めました。21日には、ベルリン全周をほぼ取り囲み砲撃が激しくなりました。ベルリン市民は地下室や防空壕に避難し、すし詰め状態に密集していました。
30日 ドイツ総統ヒトラー自殺
30日夜明け、ソ連軍はドイツ国会議事堂を攻撃し、首都ベルリン占領の象徴としてソ連国旗を議事堂に掲げました。その日午後、ドイツ総統ヒトラーは、妻エーファ・ブラウンとともに、総統地下壕で自殺しました。
5月の出来事
7日 ドイツが降伏文書に調印
ドイツ国防軍最高司令部の幹部であるアルフレート・ヨードルが、フランスのランスで全面降伏文書に調印しました。ナチス・ドイツの無条件降伏により、ヨーロッパで数千万人の犠牲者を出した6年間の紛争に終止符が打たれました。
14日 名古屋空襲
524機のB29爆撃機による初めての大都市への白昼焼夷弾爆撃が行われました。防空総本部の発表によると、名古屋市部合計では、死者326人、罹災者57,208人でした。千種区、東区のそれぞれ北部、北区、西区など北部一帯が攻撃の目標となり、名古屋城天守閣も焼失しました。
17日 名古屋空襲
457機のB29爆撃機による焼夷弾爆撃により、死者505人、被害戸数23,695戸の被害が発生しました。5月14日の空襲で焼け残った市南部の住宅密集地、ドック、工場群を目標にした攻撃でした。
22日 沖縄戦 日本軍南部撤退
日本軍の第32軍は首里城の地下に造った司令部を放棄し、沖縄本島南部に撤退することを決定しました。南部一帯は敗走する日本軍と避難民が入り乱れる戦場と化しました。5月下旬には、米軍が首里を占領しました。
24日 東京空襲
米軍の約520機のB29爆撃機が3,646トンの焼夷弾を投下し、荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が標的となりました。罹災家屋は約64万戸、罹災者約22万人にのぼり、死者は警視庁の調べで762人の方が亡くなりました。
25日 東京空襲
25日から26日にかけて、米軍は東京の都心地域と西部住宅地に対して、464機のB29爆撃機が波状爆撃を行いました。この空襲で宮城(現・皇居)内の宮殿も消失しました。罹災家屋は約16万戸、罹災者は約56万人、死者は警視庁の調べで3,242人の方が亡くなりました。
29日 横浜空襲
B29編隊517機が、約1時間の内に総数約43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を投下しました。市街地は猛火に包まれ、中区、南区、西区、神奈川区を中心に甚大な被害が発生しました。直後の公式発表によると、犠牲者は3,650人、重軽傷者は10,198人、行方不明者は309人、罹災者は311,218人に上りました。
【参照させていただいた文献】
内閣府ホームページ、国立公文書図書館ホームページ、東京大空襲戦災資料センターホームページ、渡嘉敷村ホームページ、沖縄県公文書館資料、知覧特攻平和館ホームページ、『堺市史』、『第二次世界大戦1939-45下 』アントニー・ビーヴァー 白水社、在日フランス大使館ホームページ、ナショナル ジオグラフィックホームページ、『新修名古屋市史』、読売新聞ホームページ、沖縄平和記念資料館ホームページ、横浜市ホームページ
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