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地名のあれこれ

更新日:2012年12月19日

 地名には、それぞれ名づけられたわけがあり、それによって、その土地の歴史や文化を知ることができます。昔、堺は、和泉、河内、摂津の境にあったことから、「さかい」と名づけられました。
 西区内の地名の由来を一部ですがご紹介します。
(堺商工会議所発行 "地名あれこれ"等より抜粋)

石津(イシヅ)

紀州街道に、石津太神社があり、この神社の祭神で一般に戎神といわれる蛭子命が、三歳の時、葺船に乗せられ流され漂着したのが、この浜で、その時命が固く手に握っていた五色の石から、石の着いた津(津とは一般に港など船着場と言われています。)という事で、石津という地名になったといわれています。また、もう一つの説に、古代讃岐の国から石を運んでこの地に陸揚げしたので、石の津になったという説もあります。

鳳(オオトリ)

大鳥神社から推察されますが、大鳥と書かず鳳の字が使われているのは、奈良時代の名僧行基がここに神鳳寺というお寺を建てたので、その中の鳳の字を使うようになったものです。

浜寺(ハマデラ)

南北朝時代に臨済宗の僧「孤峯覚明」(のちに後村上天皇から三光国師の号を授かる)が、この地に大雄寺を建てました。当時吉野の日雄寺を「山寺」と呼ぶのに対し、大雄寺を「浜の寺」と呼び、それが浜寺になったのです。

家原寺(エバラジ)

奈良時代の名僧行基がここに建てた家原寺の寺名をとってつけられたのですが、家原寺の寺名についても、行基が自分の家を原(もと)に建てたから家原寺とつけられたという説や、この地方に家原姓を名のる者が多かったからだという説、更に原というのは、この地域の当時の呼び名で、自分の家と地名の原をあわせて家原寺とつけられたという説等、諸説があります。

津久野(ツクノ)

むかしは、「踞尾」と書かれていました。読みにくいということから「津久野」の文字が使われました。地名の起源は、大昔この付近まで海で、「塩つく野原」であったことから「つくの」と呼ばれるようになったという説、神功皇后が朝鮮から帰還された時、この地に上陸したことから「つく(着く)王」になった説、皇后がこの地でつくばわれたので「踞尾」になったという説、また、仁徳陵、履中陵、反正陵などの造営に際し朝夕礼拝するのに蹲踞の礼をもってしたので「踞尾」となった、すなわち「つくばい」が転じて「つくの」になったという諸説があります。

浜寺昭和(ハマデラショウワ)

昭和時代に入り、交通の発達などから住宅化が進み、浜寺に新しく昭和町が誕生しました。堺市に合併後の昭和18年に、浜寺町大字船尾から浜寺昭和町1丁がうまれ、浜寺町大字下から浜寺昭和町5丁までの町名が誕生しました。

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