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堺環濠都市遺跡

更新日:2022年1月27日

堺環濠都市遺跡の写真南の空から見た堺環濠都市遺跡(堺市博物館提供)

堺環濠都市遺跡とは

 室町時代後半から江戸時代初期にかけて、黄金の日々を謳歌(おうか)した「堺」。貿易都市として、自治都市として繁栄したその町は、400年以上の時間を超えて、現代の町並みの地下に眠っています。

 堺環濠都市遺跡は南北約3キロメートル、東西約1キロメートルに及ぶ広大な遺跡で、その範囲は東を阪神高速道路堺線、西を内川、南を土居川(どいがわ)に囲まれた内側にあたります。ただし、この範囲は慶長20(1615)年の大坂夏の陣による大火災の後に江戸幕府によって行われた町割りの範囲であり、それ以前の自治都市として繁栄した町の範囲は、一回り狭いものであることが発掘調査によってわかってきました。

 現在の地面を掘り下げると、幾層にも重なった真っ赤な焼土層(しょうどそう)を見つけることが出来ます。これが堺を何度も襲った大火災の痕跡です。かつての地面はこの焼土層に覆われることにより、当時の町並みや屋敷割りを現代に伝えています。そこからは、文献資料ではわからなかった堺のかつての繁栄を、如実に示してくれる多量の遺構・遺物が発掘されているのです。会合衆(かいごうしゅう・えごうしゅう)や納屋衆(なやしゅう)と呼ばれた豪商たちが活躍した「堺」。その実態が明らかになってきました。

豪商の屋敷

 堺の繁栄に貢献した豪商たちは、広大な屋敷を町中に構えました。表通りに面したこれらの屋敷には、広いものでは330平方メートル(100坪)以上に及ぶものもあり、彼らの財力の大きさもうかがわせます。

 屋敷内には、表に礎石(そせき)建物による主屋(おもや)を、裏にせん列建物による蔵を配置します。その間に中庭を造ったり、表から裏へ抜ける通り庭を設けるものがあることもわかってきました。また大きな屋敷では何棟もの蔵を並べたり、千利休などの茶人を輩出した堺らしく、茶室や茶道具蔵を伴う屋敷があったこともわかっています。賑わいをみせる都市のなかで、堺の人々はこれらの茶室などを「市中(しちゅう)の山居(さんきょ)」と呼んで茶の湯をたしなんでいたのでしょう。

 また、一般商人や職人の住居と考えられる屋敷も見つかっています。それは、間口が約2メートルと狭いものですが、奥行きが非常に深いもので、現在の京都にみられるような町並みを形づくっていたものと思われます。当時の堺は家屋が密集した大都市であったようです。

豪商の蔵

 堺を発掘すると、建物の基礎部分の外部にせんと呼ばれる板状の瓦を貼り付けた建物が見つかります。この建物をせん列建物と呼びますが、これが堺商人の富を象徴した蔵なのです。

 せん列建物は基礎が念入りに作られるうえ、瓦葺きの場合が多く、壁も土壁で厚く作られることから、蔵としては最適の構造でした。現代に伝わる屏風絵によると、これらの蔵の中には3階建てのものがあったことがわかっており、都市のなかでひときわ目立つ存在であったと思われます。

 蔵に何が納められていたかは、発掘調査でもわからない場合が多いのですが、堺を経由して全国へ送られた大量の物資が納められていたのでしょう。

 また、貴重品として扱われた陶磁器などの茶道具を納めた蔵もあったようで、右の写真のように多量の陶磁器が出土する蔵があります。茶の湯の流行を物語る資料でもあります。

環濠の発掘

 遺跡の名称の由来になっている環濠は、かつての町の北・東・南の三方を取り囲んでいたものです。慶長20(1615)年以前の環濠は、江戸時代の環濠よりも一回り内側を巡っていたことが発掘調査の結果明らかになりました。

 町を囲う環濠は幅が10メートルを超えるもので、二重に巡るところもありました。織田信長が堺へ圧力をかけたときに、住人が濠の深さを深くしたという記録があることから、おもに防御の機能を持っていたものと考えられます。この環濠は豊臣秀吉によって天正14(1586)年に埋め戻しの命令が出され、徐々に埋められていったようです。その後、大坂夏の陣の終結の後に完全に埋められ、江戸幕府により新たな環濠が掘られました。

 濠は環濠以外にも町中を巡っていたようです。右の写真はその濠のひとつで、石垣により護岸されていました。運河のように物資を運ぶために使われたのでしょうか。

都市のようす

 建物や濠の他にも、発掘調査によって都市のようすがわかってきました。その一部をみてみましょう。

 道路は、細かい単位で土を何層にも突き固める方法で造られており、町中を縦横に巡っていました。道路には幅4から6メートルの表通りから狭い路地(ろじ)まであり、交差点になる四つ辻も見つかっています。道路の脇には側溝(そっこう)が掘られており、雨水の排水を考慮したものになっています。

 井戸は、下の写真にみるように専用の瓦を内面に貼り付けて造る独特なものです。このような井戸は16世紀に入ってから造られますが、それ以前は焼き物で作った井戸枠を使用していました。砂浜の上に町があるという地形上、素掘りのままでは井戸が崩れやすいため、それを防ぐために考え出されたものです。

 便所は、通りに面する位置に造られます。肥料として回収しやすいようにしていたようです。便槽(べんそう)には素焼きの甕を用いるものが多く、下の写真のように地面に埋めて、口の部分だけを出した状態で用いられました。

華やかな出土遺物

 発掘調査で見つかるのは、町並みの遺構だけではありません。堺に住んでいた人々が使っていた様々な遺物が、大量に出土します。

 主な遺物には陶磁器があります。堺には、中国や朝鮮半島、遠くは東南アジアから大量の陶磁器が運ばれてきました。また、国内産では、備前焼・丹波焼・瀬戸美濃焼・唐津焼などの陶器が出土します。これらの陶磁器は茶の湯に用いられるほか、日常品としても大量に消費されていました。陶磁器以外では、釜や鍋などの鉄製品、銭・鏡や分銅(ふんどう)などの銅製品、箸や桶などの木製品も出土します。いずれも堺における人々の生活を伝えてくれる重要な資料です。

 右の写真は、蔵からまとまって出土した遺物です。数多くの豪華な陶磁器などが、堺の豪商たちの暮らしぶりを現代に伝えています。

中世都市・堺

 「堺」が歴史上に華々しく登場することになったきっかけの一つに、文明元(1469)年に遣明船の到着港となったことがあげられます。瀬戸内・太平洋航路の発着点であり、多くの街道を控えた陸路の要衝(ようしょう)であったことが、貿易都市としての繁栄を堺に導きました。また、これらの経済力を背景とした豪商たちによる自治が進んだことも見逃せません。堺は貿易都市・自治都市として京都・博多に並ぶ大都市となったのです。

 その後、16世紀後半に織田信長・豊臣秀吉が堺に圧力をかけ、堺の自治は失われたかに見えます。また、秀吉が行った大坂城下町の建設により、堺は衰退していったと考えられてきました。しかし、堺は衰退の道をたどることはなかったようです。発掘調査の結果、秀吉の干渉以降も建物の密度はますます濃くなり、陶磁器などの遺物も種類と量が豊富になっていることがわかってきました。

 堺が本当に壊滅的な打撃を受けたのは、大坂夏の陣の前哨戦として豊臣方の焼き討ちにあった慶長20(1615)年のことであったようです。この後、堺は明治時代を迎えるまで江戸幕府の直轄地となるのです。

 「堺」の研究や発掘調査は、日々、行われています。遺構や遺物から中世の「堺」の様子を復原していく作業は今日も続けられています。

自治都市 堺の年表

1392 元中 9 大内義弘、和泉国の守護になる
1399 応永 6 応永の乱により一万戸焼失
1432 永享 4 一休宗純、初めて堺に来る
1469 文明 1 遣明船が初めて堺に帰着
1476 文明 8 遣明船が初めて堺から出発
1484 文明16 会合衆が初めて文献に現れる
1494 明応 3 南荘全域?焼失
1508 永正 5 南荘千余戸焼失
1526 大永 6 二千七百戸焼失
1532 享禄 5 一向一揆が三好元長を堺に攻め、元長、顕本寺で自刃
1532 天文 1 北荘全域、南荘三分の一、四千戸焼失
1546 天文15 三好長慶が堺へ入るが、撤退
1550 天文19 宣教師ザビエル堺に来る
1553 天文22 全域の三分の二程焼失
1553 天文22 前回の残りを焼失
1561 永禄 4 宣教師ビレラ、堺に来る
1564 永禄 7 千戸焼失
1568 永禄11 織田信長が二万貫の失銭(軍用金)を要求する
1570 元亀 1 信長の直轄領になる
1575 天正 3 大火事
1586 天正14 小西隆佐・石田三成が堺の代官になる
豊臣秀吉が環濠の埋め戻しを命令する
1591 天正19 千利休、秀吉の命令で自刃
1596 文禄 5 伏見の大地震で被災
1615 慶長20 大坂夏の陣の余波で二万戸焼失
この後、幕府直轄地になる

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