地域資料デジタルアーカイブより
更新日:2021年9月10日
堺市立図書館では、本だけでなく堺市に関係するさまざまな資料を収集・保存しています。
ここではそれらの資料を紹介していきます。
【絵はがき】(堺名勝)大濱潮湯及び家族湯
かつて大浜にあった、大濱潮湯・家族湯の絵葉書です。当時の阪堺電気軌道株式会社が当地への観光客誘致のため、大正2(1913)年に開設しました。沖合から鉄管で汲み上げた海水を沸かした潮湯は、健康増進によいとされていました。お風呂の他にも食堂や家族専用の有料休憩室がありました。
堺市立図書館のホームページでは、他にもさまざまな地域資料を公開しています。
【絵図】堺市全図及商工業独案内
明治24年(1891)に印刷された絵図で、真ん中に堺の地図があり、周りに現在の名刺広告のように商工業者の名前や住所が載っています。
堺はかつて酒造業が繁栄していましたが、酒樽の絵の多さにそのことがうかがえます。アサヒビールの創始者である鳥井駒吉や与謝野晶子の生家・駿河屋の名前も掲載されています。
地図の中央には明治21年(1888)に開通した阪堺鉄道(現在の南海本線)の蒸気機関車が走っており、リゾート地であった大浜公園にある料亭は、建物のイラスト入りで紹介されています。
平成30年度に複製の作業を進める中で、裏面にも文字が書かれているのが発見されました。この絵図を持ってひとりで旅ができるように、堺市の観光地や物産品、開通したばかりの阪堺鉄道(難波~堺)の時刻表が書かれていたのです。裏面についても今後見ていただけるよう準備を進めているところです。
【絵図】大仙陵絵図[大正14写]
江戸時代初期の享保年間(1716~1736)に描かれたものを、『堺市史』編纂のため大正14年(1925)に写したものです。
後円部の墳頂が仁徳天皇の御廟(墓所)として立ち入りできないよう竹垣が設置されていました。
【絵図】堺市第一次疎開地区記録
第二次世界大戦の戦況が悪化し、日本本土への攻撃が必至になる状況のなか、堺市は昭和19年より建物疎開を始めました。防空のため町並みを撤去することになります。
この『堺市第一次疎開地区記録』は、疎開前の市内の風景を記録にとどめるため、堺市が「堺芸術報国連盟」という芸術団体にその事業を委嘱し、岸谷勢蔵によって描かれました。
【絵はがき】南海鉄道大和川上り電車
大和川鉄橋をわたる南海鉄道の電車を撮った戦前の絵葉書。
明治21年(1888)5月15日、大和川を渡って堺にはじめて汽車がやってきた。南海鉄道の前身である阪堺鉄道の蒸気機関車である。阪堺鉄道は和歌山まで開通後、南海鉄道と改称。明治40年(1907)8月に難波~浜寺公園間の電化が完成し、蒸気鉄道から電気鉄道への転換がなされた。
【絵図】堺妙国寺十一烈士銘々図傳
「堺事件」の顛末と切腹した土佐藩士11人の絵姿、辞世などが記され、その後ろに、第六小隊を率いた箕浦猪之吉の「割腹之図」と、切腹を免れた9人の氏名が続く。巻末の署名から、その生き残りである土居八之助によるものと分かる。
【引札】日本元祖 丹製造所 鉛市兵衛
「丹」とは鉛丹のことで、絵画の顔料や陶磁器の釉薬として用いられていました。室町期に鉛屋市兵衛が明人から製法を学び、江戸期には幕府の許可を得て製造していました。
【引札】和洋小間物并ニ袋物品々 松田藤吉(巨泉)
和洋小間物を扱っていた店の引札です。「鼈甲細工御好に応ず」とあり、宣伝文が入っているのが特徴です。浮世絵の技法をもつ川崎巨泉(明治10年、堺の神明町に生まれる)によって描かれました。
【引札】湯熨斗 洗張 すま屋
湯熨斗・洗張(ゆのし・あらいはり)とは、今でいうクリーニング業にあたります。
引札の背景には日露戦争のさまざまな場面をすごろくにしたものが描かれており、明治後期の世情がうかがえる作品です。
【引札】猟銃製造 火薬類 諸国物 打刃物 販売處 井上関右衛門(タカ)
井上家は元禄の堺大絵図に名前が確認できる鉄砲鍛冶の家です。今でもその家屋は堺区北旅籠町に「鉄砲鍛冶屋敷」として残されており、堺市の指定有形文化財になっています。
【引札】桶木 樽丸 材木 売買 委託販売 荷為換 堺樽丸商会
堺は醸造業が盛んだったため、酒や醤油を入れる桶や樽の製造所も多くありました。
この引札は堺樽丸商会の店構えを描いたと思われます。引札は一般的に見本帳から好きな図像を選び商店名を加えて作成しますので、このような独自のデザインは珍しいものです。川崎巨泉の作品です。
【絵図】大日本物産図会 泉州堺打物見世之図
『大日本物産図会』は、明治10年の第1回内国勧業博覧会にあわせて陳列、販売された錦絵です。三代広重の作で、東京日本橋の錦絵問屋大倉孫兵衛が出版しました。各地の産業・特産物が描かれており、当館では包丁販売の様子を描いたこの図のほか、和泉国堺浦の魚市や、河内木綿織機の図を所蔵しています。
【引札】正札 履物商 小泉商店
右に恵比寿天、中央には大黒天が描かれたおめでたい意匠です。背後には鏡餅も見えており、新年挨拶用と思われます。左の店名の上にある商標は間違えて摺られたようで貼紙訂正があり、後光のラインが曲がっています。
【引札】各国煙草商 戸田商店
引札は現代のチラシや広告にあたります。中でも年末年始に商店から顧客に直接配られた正月用引札は明治時代に大流行しました。
明治5(1872)年、暦が太陰暦に代わりました。暦の変更は人々の暮らしに大きな影響を与えたため、暦が掲載された引札は特に喜ばれました。
【絵図】文久改正堺大絵図
堺の町は、元和元年(1615年)大坂夏の陣で豊臣方によって焼き尽くされ、その後、徳川幕府のもとで風間六右衛門によって町づくりが行われました。この「元和の町割り」により、北・東・南の三方を環濠、西を海で囲まれた堺の町は、東西に横断する大小路と、それに直角に交差し、南北に縦断する大道(紀州街道)、そして、この二つの道に並行する基盤の目状の通りによって整然とした町なみとなりました。
文久三年(1863年)改正の『堺大絵図』は、元和の町割りから250年程たっていますが、町の基本構造は変わっておらず、近世の堺の姿をよく伝えるとされています。
【絵図】泉州堺湊新地繁栄之図 天保年間(1830~1844)
堺の港は、1704 年(宝永元年)の大和川のつけかえによって、大量の土砂が運ばれてくるようになり、だんだん浅くなっていきました。そのため、しばしば砂持(砂運び)が行われ、港が修築されました。また、川口にできた洲をひらいて新田がつくられました。
1834 年(天保5 年)には旭川が開削され、新地への橋である栄橋・勇橋などが架設されました。この図は、修築が成ったころの堺港の繋栄のようすを詳細にあらわしています。引札(宣伝用チラシ)として作られたもので、湯屋町大道大小路角の旅館の広告が左下に載せられています。
【引札】醸造元 春駒印日本酒 特約大販売元 鳥井合名会社(アサヒビール)
同じく鳥居合名会社の引札です。引札中の女性は清酒「春駒」を表す花と将棋の駒の模様の着物を着ています。「春駒」の樽の横には誕生まもないアサヒビールの瓶が描かれていることで有名な引札です。ラベルのデザインは中井芳瀧によります。
【引札】春駒印日本酒 醸造発売元 鳥井合名会社
鳥井駒吉は明治26年、個人経営の店を鳥井合名会社として会社化しました。その会社名義の引札です。清酒「春駒」と美しい女性が描かれたこの引札は、郷土玩具を描いたことで知られる川崎巨泉の手によるものです。
【引札】御菓子商 駿河屋
こちらの引札は、同じく駿河屋の引札です。弁天とその使いである白蛇が描かれたデザインです。引札は見本帳があり、そこからデザインを選んで作成するため、違う店で同じデザインを用いている引札も少なくありません。こちらも違う店で同じデザインの引札が確認されています。
【引札】菓子商 駿河屋
引札とは現代の広告ちらしにあたるもので、幕末から明治・大正時代にかけて全国で店や商品の宣伝などのために配られました。図柄には縁起物などが描かれ、色鮮やかなデザインが特徴です。
こちらの引札は歌人、与謝野晶子の生家として有名な菓子店駿河屋の引札です。晶子はここに23才まで住んでいました。現在、大道筋の駿河屋跡付近には
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」
の歌碑が立てられています。
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