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町なみ再生協議会設立総会・第5回歴史的なまちなみ勉強会 (平成26年5月11日(日曜))

更新日:2014年5月23日

 平成26年5月11日(日曜)、堺市立町家歴史館山口家住宅で、町なみ再生協議会設立総会・第5回歴史的なまちなみ勉強会を行いました(参加者34人)。 

町なみ再生協議会 設立総会

町なみ再生協議会設立総会町なみ再生協議会設立総会

 第3回勉強会の後、地域の皆さんによる協議会設立に向けた準備会をつくり、その後、定期的に協議会の設立に向けた話し合いを重ね、今回、設立総会を開催することとなりました。

議案説明等

 まず、準備会より「堺環濠都市北部地区の歴史・文化資源を活かして歴史的な町なみを再生し、地域の魅力とにぎわいを創出する」という設立目的が述べられ、(1)協議会規約、(2)役員、(3)会計監査、(4)事業計画(案)・予算(案)の各議案について説明が行われました。

質疑応答

【質問1】「町なみ再生」の「町」は、「街」の方がふさわしいのでは?
【回答1】堺環濠都市は、「町」が集まって形成されていることから、「町」を使用した。

【質問2】既に、事業計画(案)で示された活動に着手して、予算を使っているということか?
【回答2】これから協議会を設立し、活動を行っていこうとしている。

議案の承認

 すべての議案が総会で承認され、町なみ再生協議会が設立されました。

第5回歴史的なまちなみ勉強会

第5回歴史的なまちなみ勉強会第5回歴史的なまちなみ勉強会

講演:江戸時代の堺再発見~都市の魅力を考える~

(講師 堺市博物館学芸員 矢内 一磨)

  • 堺の中世、近世、近代を専門として研究している。
  • 堺には、古代のロマン「大王墓」、中世の自治と自由「世界に雄飛した貿易都市」・「茶聖・千利休の故郷」、近代の進取の精神「情熱の歌人・与謝野晶子」・「仏典の探求・河口慧海」など、歴史的なテーマ・事象がある。旧市街が戦災で焼けたとはいえ、通史的にこれだけの歴史遺産が揃っている都市は、そうないであろう。あまり広く知られていないが、堺は、江戸時代にも豊かな歴史がある。それを学ぶことは、これからの町なみ再生にとって、とても重要なことである。
  • これからは観光の時代と言われ、まちづくりにおいて歴史資源を活用することが求められるが、きちんと歴史を踏まえる必要がある。
  • 歴史的なまちに住んでいるという自覚と誇りを持ち、歴史をしっかりと知っておく必要がある。
  • 六間(ろっけん)筋は、「道幅六間の道」とよく勘違いされるが、道に面した両側町の奥行が六間ということである。
  • 山之口(やまのくち)筋は、山口家住宅に向かう道だと言う人がいるが、そうではない。かつて、住吉大社の御旅所である宿院頓宮に、夏越(なごし)の岡という堺のシンボル的な小山があり、これが「山」の由来である。
  • 道路の名称や町名など、その由来を調べていくと非常に面白いだろう。
  • 堺にあったと思われる千利休の屋敷は、豊臣秀吉に取り潰され、その後、大坂夏の陣の前哨戦で焼けているはずである。江戸時代の人達は、千利休の屋敷と思われる場所(夏越の岡付近)から西に少し離れた場所(水脈が良く名水が湧く場所)を、千利休を偲ぶ場所として定め、その水で茶を点てて千利休の精神に思いを馳せた。その場所が、現在の「千利休屋敷跡」であり、当時の堺の人々の高い精神性を伝える場所と理解できる。
  • 堺の寺町は非常に大きい。元禄の大絵図を見ると、堺環濠都市の面積の約9分の1が寺町である。また、街区や路地は江戸時代の形を残しており、堺の寺町は歴史的に貴重である。
  • また、農人町も非常に貴重である。全国的に見ても、農人町がある町は堺くらいである。
  • 堺環濠都市の北部地区界隈についても、江戸時代の路地の向きや街区が非常によく残っている。このような町は、そうあるものではない。また、近世の町家も多く残っていると、前回の勉強会で講演された大場教授がおっしゃられていたようであり、古地図を手にまち歩きをすれば非常に楽しいエリアである。
  • 中世の堺はものすごく大事だが、近世は「劣った、停滞の時代だ」と言われる。しかし、そうではない。井原西鶴も書いているが、堺は堅実で計画的な都市経済が運営されている都市であり、堺こそが倹約始末の典型であると言っている。江戸時代の堺は、茶の湯が生活に溶け込んだ、安定して成熟した都市と井原西鶴は観察している。
  • 江戸時代の堺の資料はあまりなかったが、兵庫県相生市で、942点もの堺奉行の資料が偶然に発見された。
  • これらの資料を堺に里帰りさせ、昨年の10月から12月にかけて、堺市博物館で展覧会を開催した。こういった資料を、今後より丁寧に調べていくことにより、近世都市「堺」の歴史を書き換えることにもなるであろう。
  • 21世紀は環境の世紀といわれている。江戸時代の堺がおこなった堅実で、計画的な町づくりを学ぶことは重要である。

質疑応答

【質問1】「七まち」とは、いつ頃から呼ばれているのか?
【回答1】江戸時代の文献では、まだ見つけられていない。与謝野晶子や、戦後の郷土画家の岸谷勢蔵が七まちと書いている。七まちとは、北旅籠町、桜之町、綾之町一体の職人町のことだと思われる。

【質問2】富田林の寺内町と比べて、堺の特徴は?
【回答2】富田林の寺内町は、一つの大きな寺を中心にできた町。堺の場合は、幕府が直接統治する天領である。奉行所がある都市であり、公儀による都市計画のなかで、寺町も整備された。

【質問3】江戸時代において、幕府からどのように見られていたか。
【回答3】元禄年間に行政改革があり、堺奉行所を大坂町奉行所と合併した。しかし、6年後に堺奉行所が再設置される。検証は必要であるが、おそらく堺は、地域性など大坂とは別であると認識をされたのではないかと思われる。

【質問4】このような町なみは、堺だけか?
【回答4】碁盤の目の状の町割は、確かに色々とあるが、このようにコンパクトにまとまっており、散歩のしやすい町は珍しいのではないか。

【質問5】会合衆について、「えごうしゅう」「かいごうしゅう」、どちらが正しい読み方か?
【回答5】当時の日本語とポルトガル語の辞書である『日葡辞書』には「かいごうしゅう」と書かれている。戦前の『堺市史』の索引にも、会(かい)合衆と書かれている。戦後になってから宗教や都市の研究をされている豊田武氏が、会(え)合衆と言いはじめた。お寺の集まりを集会と書いて「しゅうえ」と言うが、そこから「えごうしゅう」と言ったのではないか。「かいごうしゅう」とした方が歴史的に間違いない。

【質問6】この町なみを残していこうとする価値はどのくらいあるか?
【回答6】戦後の高度成長の時代では、近代化を進めるため、古い町並みを残すという価値観はダメだったかもしれない。しかし、現在、世界的に見た場合、歴史を持つ町は非常に尊敬されている。1595年、豊臣秀吉の時代にヨーロッパで発行された地図にさえ、SACAYと書かれている。そのような古い町が、歴史的に由緒がある部分を残していく努力をすれば、海外からも非常に尊敬されるだろう。

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