地名の由来が知りたいんだけど?
更新日:2012年12月19日
この文章は、1999年10月号から2000年4月号まで「広報さかい」に毎月シリーズ連載したものに、若干の加筆・修正をしたものです。
堺区編
古代に仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が築造されるとともに、中世に海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれるなど、歴史的に名高い地域です。また、環濠都市の名残をとどめる、土居川や内川、社寺など豊富な文化的遺産を有しています。
北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)
旧市の南北端に位置する両町は、「元和の町割り」の際に、縦幅が他の町と比べ小さくなったことに由来するといわれています。
北旅籠町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)
堺の町の南北の入り口にあたる当地に、旅人宿、旅籠(はたご)があったことに由来するといわれています。
桜之町(さくらのちょう)
戦国期から見える町名で、桜の木がたくさん植わっていたことに由来するといわれています。
綾之町(あやのちょう)・錦之町(にしきのちょう)
応仁の乱の兵火を逃れて、京都から優れた技術を持った織物師達が堺に移り住み、この地で「綾織り」、「錦織り」を始めたことに由来するといわれています。
柳之町(やなぎのちょう)
昔から堺を代表する木である、柳がたくさん植わっていました。
九間町(くけんちょう)
奈良時代、弘法大師が唐より帰国し、この地に九間四面の堂、今の「九間堂」を建立し布教したことに由来するといわれています。
神明町(しんめいちょう)
奈良時代初め創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったことに由来するといわれています。
宿屋町(しゅくやちょう)
旅人の宿場町で、宿屋が多かったことに由来するといわれています。
材木町(ざいもくちょう)
戦国期から見える町名で、材木商の集住地であったことに由来するといわれています。
車之町(くるまのちょう)
戦国期から見える町名で、「車屋本」で知られる有名な能楽者、車屋道晰(どうせき)がこの地に住んでいたことに由来するといわれています。
櫛屋町(くしやちょう)
堺名物、和泉櫛を扱う櫛問屋が多かったことに由来するといわれています。
戎之町(えびすのちょう)
戦国期から見える町名で、当地にあった戎神社に由来するといわれています。
熊野町(くまのちょう)
もとは湯屋町(ゆやちょう)といい、湯屋(風呂屋)が多く並んでいたことに由来するといわれています。また一説に、菅原天神の境内で塩風呂を炊きだし、一般の人達に施したことに由来するともいわれています。明治5年に当地にあった、熊野神社にちなみ「熊野」に改字し、読みも次第に「くまの」に変わりましたが、小学校などに「ゆや」の読みが残っています。
市之町(いちのちょう)
戦国期から見える町名で、摂津と和泉の国境であった大小路筋に面する当地は、堺の町の中心地で、いろいろな「市」が開かれたことに由来するといわれています。
甲斐町(かいのちょう)
戦国期から見える町名で、神功皇后がこの地に「甲(かぶと)」を納めまつったことに由来するといわれています。
大町(おおちょう)
富裕者が多く住み、身代の「大なる町」というところから名づけられたといわれています。
宿院町(しゅくいんちょう)
室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれています。また一説に、昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれています。
中之町(なかのちょう)
戦国期から見える町名で、昔の堺の町は、大小路筋を境に北荘と南荘に行政区域が分かれていて、当地は南荘の中央に位置したことに由来するといわれています。
少林寺町(しょうりんじちょう)・寺地町(てらじちょう)
少林寺があること、また、寺地町はかつて少林寺の寺地(境内地)であったことに由来するといわれています。
新在家町(しんざいけちょう)
南荘にあった本在家町に対し、ニュータウンという意味で名づけられたといわれています。
中区編
泉北高速鉄道深井駅を中心とした中支所区域は、奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)にゆかりのある地名が数多くあります。行基は堺の家原寺(えばらじ)で生まれました。15才で出家し、一生を民間布教と社会事業にささげました。
八田(はんだ)
行基の母は、蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)といいました。この蜂田首(はちたのおびと)という一族が、この辺りに住んでいたといわれています。蜂田氏の祖先をまつっているのが、「お鈴の宮」と呼ばれている八田寺(はんだいじ)町の「蜂田神社」です。行基が建てたといわれる蜂田寺(華林寺)も、鈴の宮の近くにあります。蜂田がなまって八田と呼ばれるようになったといわれています。
深井(ふかい)
行基がこの地に深い井戸を掘ったことにより、人々の生活が豊かになったといわれています。そのことから地名は深井と呼ばれるようになったといわれています。行基の掘った井戸は、単に飲む水だけでなく、どんな病気にもよく効くといわれ人々から大変ありがたがられました。その井戸は、善福寺(深井清水町)の裏の井戸であるとも、深井中町の外山家の井戸であるともいわれています。現在では、残念ながら両方とも埋められています。
土塔(どとう)
行基は一生の間に49のお寺を建てたといわれています。その一つに土塔町の大野寺があり、国の史跡になっている仏塔(土塔)があります。塔といえば、五重の塔などをすぐ思い浮かべますが、塔はもともと仏教を広めた釈迦(しゃか)の骨を埋めたお墓(ストゥーパ)です。仏教が中国に伝わったとき、このインドのストゥーパを漢字で卒塔婆(そとうば)と訳しました。これが「塔婆」となり「塔」とだんだん簡単に呼ばれるようになりました。
さて、大野寺跡の土塔は、土のブロックを13層に積み上げた、ピラミッド形の大変珍しいもので、少なくとも国内では例がないといいます。この珍しい土塔が地名になりました。
東区編
古墳時代から須恵器の生産が行われ、中世は、その技術を生かした「河内鋳物師」として知られる金工地帯として栄えました。近世以降は河内木綿の栽培や緞通の生産と、常に時代のニーズに合わせた特色ある産業・文化を育んできました。
昭和に入り、南海高野線沿いのベッドタウンとして大きく変貌しましたが、かつては狭山池の利水による、「条里制」、「荘園」の名残をとどめる美しい田園地帯が続いていました。
日置荘(ひきしょう)
日置荘北町の東池、西池などに古代条里制の「地割」の形状が残っています。
日置荘の地名は、古代、太陽神の祭祀をもって大和政権に奉仕していたといわれる、「日置部(ひきべ)」集団の居住地であり、また、中世には興福寺の荘園であった「日置荘」がおかれたことに由来するといわれています。
明治時代に萩原天神に合祀されましたが、日置荘西町に日の神をまつってきたといわれる「日高宮(日高神社)」がありました。西村(現在の日置荘西町)の庄屋、日置家19代目、日置正美が村人とともに日高宮に献灯した、「日置里常夜灯」がわずかに残り、往時の面影をしのばせます。
野田(のだ)
北野田に「二の坪、三の坪」など古代条里制の名残の小字地名が見られます。
野田の地名は、古事記に見える「多遅比野(たじひの)=堺市東部から美原町、羽曳野市にまたがる広い地域」の原野の意味である、「野」に由来すると考えられています。
北野田駅南側に、「野田城址」があります。野田城は、南北朝時代、野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が築いた城で、南朝方の楠正成に従って、幕府軍とよく対峙しましたが、三代目正康のとき、この地で敗れ戦死し、多くの村人も犠牲になったといわれています。これらの人々を弔うために建てられた、「大悲庵(大悲寺)」が南野田にあります。
西区編
古くは四ツ池遺跡に見られるように縄文時代から弥生時代に集落が形成され、近代では石津川流域で、伝統産業である和晒(わざらし)の製造が行われるとともに、白砂青松の自然海岸を有していた浜寺地区などは、関西一円からの人々で賑わいました。
伝統行事として、大鳥神社の「花摘祭」、家原寺の「大とんど」などが知られています。
鳳(おおとり)
むかしは「大鳥」と書きました。「日本書紀」にも見える古い地名で、古代から近代まで西支所区域はもとより、現在の堺市域のほとんどは、和泉国大鳥郡が占めていました。長く「大鳥」の字を使っていましたが、明治中期に大鳥村は「鳳」村に、その後大鳥郡も泉北郡に変わり、現在の鳳各町に引きつがれています。地名は、大鳥連(むらじ)という豪族がこの地に住んでいたことに由来すると考えられています。
地域の中心に、和泉一の宮といわれる大鳥神社(鳳北町1丁)があり、大鳥氏の祖先をまつってきたといわれています。広い境内にはたくさんの樹々が生い茂り、古くから「千種(ちぐさ)の森」と呼ばれ親しまれてきました。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、伊勢で病没した後、白鳥となってこの地に舞い降りたので、社を建ててまつったとの伝説も残っています。
浜寺(はまでら)
「音にきく 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)
これは百人一首の中の歌ですが、むかしは堺の浜寺から高石までの海岸を、高師の浜と呼び、「万葉集」にもよまれた、松林の美しい海岸線が続いていました。
南北朝時代に、この地に三光国師が、大雄寺(だいゆうじ)という七堂伽藍の大寺院を建てました。この寺は、「高師の浜の寺」と呼ばれていましたが、「浜の寺」、「浜寺」と簡略化され、地名になりました。大雄寺は中世の戦乱のため焼失しましたが、南海電車の伽羅橋(きゃらばし)駅周辺にあったと考えられています。
南区編
泉北ニュータウンを中心とする市街地と、その周辺の農業振興地域及び森林地帯からなっています。
泉北ニュータウン造成のとき、500以上もの窯跡(かまあと)や、おびただしい数の須恵器(すえき)が発見されました。須恵器は瀬戸、信楽、備前など、よく知られた陶器の源流ですが、泉北丘陵はわが国の須恵器発祥の地として知られています。
5世紀に、朝鮮半島からの渡来人によって、それまでの赤茶色のもろい土器とは違い、ロクロを使い、窯で高温に焼く、灰色で硬い土器、須恵器を作る技術が伝えられました。日本で須恵器が作られ始めた頃の窯跡は、西日本各地でも見つかっていますが、400年以上にもわたり焼き続けられたのは、堺の泉北地域だけです。
『日本書紀』に見えるこのあたりの地名である「陶邑(すえむら)」から陶邑窯跡群と名づけられたこの遺跡は、800基近くの窯跡がある、日本最大級の須恵器生産の遺跡です。付近には、「陶器」の地名もありますが、この地には須恵器生産にまつわる地名が数多く残っています。
片蔵(かたくら)・富蔵(とみくら)・高蔵寺(たかくらじ)
石津川の上流に位置するこのあたりは、陶邑窯跡群の中心にあたり、須恵器製品や資材・燃料の運搬に最適の立地でした。この付近に建てられたと考えられる、須恵器製品の貯蔵のための倉庫群、「くら」が地名の由来になったといわれています。一説によると、日本書紀に見える「桜井屯倉(みやけ=大和朝廷直轄の倉庫)」は、片蔵の桜井神社の付近ではないかと考えられています。また、高倉寺(高倉台2丁)はもともと「大修恵院(だいすえいん)」、「陶(すえ)の寺」といい、須恵器との深い関わりがうかがえます。
※高蔵寺(町名)は大部分が高倉台に変わりました。
釜室(かまむろ)・岩室(いわむろ)
「室(むろ)」というのは、山の岩間の洞穴のことで、「蔵」の意味もあります。須恵器製品などを、室に保管したのではないかと思われます。また、釜室の「釜」の字は「窯」の意味ももっており、内部が室になった須恵器窯そのものを示す地名とも考えられます。
北区編
日本最古の国道といわれる、竹内街道沿いに集落が形成されるとともに、ニサンザイ古墳をはじめとした数多くの古墳や重要文化財に指定された民家など、歴史的文化的遺産も豊富です。また、伝統行事の百舌鳥八幡宮のふとん太鼓は広く知られています。
百舌鳥(もず)
百舌鳥の地名は「百舌鳥古墳群」の名で、全国的によく知られています。
日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません。
「もず」の字は「万代、毛受、毛須、裳伏、藻伏」とも書かれてきました。
金岡(かなおか)
昔、このあたりに、河内画師(えし)と呼ばれる、宮廷画家集団が住んでいて、奈良の大仏殿に絵をかいたり、彩色をしたりして活躍していました。
その中から、当時唐風(中国風)一辺倒だった絵画界に、独創的な画風で新風を吹きこんで、後の「やまと絵」成立のさきがけとなった人物、巨勢金岡(こせのかなおか)が生まれたといわれています。
金岡の地名は、この平安時代の画家、巨勢金岡の偉大な業績をたたえ、彼の没後、金田三所宮に祭神として加え、神社名も金岡神社と改称したことに由来するといわれています。
また一説に、昔、このあたりは、鋳造や鍛治を業とする「金屋」集団の居住地であり、多くの鋳物かすが田んぼからでてきて、金田(かなた)と呼ばれていたものが金岡になったともいわれています。
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