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百舌烏古墳群の時代~古代における女性~

更新日:2012年12月19日

対談
佐古 和枝(さこ かずえ)
(関西外国語大学教授)
白石 太一郎(しらいし たいちろう)
(大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)

百舌鳥古墳群は、堺市内の東西約4キロメートル、南北約4キロメートルの範囲に広がる国内有数の古墳群です。この一帯には100基を超える古墳が造られましたが、都市化の進展などによってその多くが失われ、現在は4世紀後半から5世紀後半に造られた47基の古墳が残っています。その中には、世界最大級の墳墓・仁徳陵古墳をはじめとする巨大前方後円墳などが含まれており、貴重な資源として今、世界遺産登録をめざしています。

男性中心社会と思われる古墳時代において、王権の中で女性が大きな役割を担っていたことも、考古学の中で実証されつつあります。果たして、女性たちはどのような生活や役割をしてきたのか。そのルーツを探りました。

はじめに

司会者

 百舌烏古墳群は、古墳時代中頃(5世紀)から、古墳時代後期(6世紀)にかけて、日本最大の前方後円墳である仁徳陵古墳を初め、100基を超える古墳がつくられました。しかし、都市化の進展により多くの古墳が失われ、現在、47基の古墳が残っています。堺市では、大阪府、藤井寺市、羽曳野市と共同で百舌烏・古市古墳群の世界遺産登録をめざしており、2007年に世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書を文化庁へ提出し、昨年、世界遺産暫定一覧表への記載が適当と評価されました。この分科会では、百舌烏古墳群が営まれた古墳時代、すなわち古代国家の揺籃期における女性の問題を考えます。

考古学から見た古代の女性

佐古 和枝

 佐古でございます。私、考古学をやっておりますが、考古学の世界は圧倒的に男性が多く、自分が女であることをいろんな場面で思い知らされます。そこで古代の女性はどうだったんだろうなという疑問がわいてきます。

 さらに、ぐっと女性史に引きつけられたきっかけは、中山千夏さんです。出会って間もないころに「サコちゃん、『古事記』の登場人物を全部女だと思って読んでごらん、おもしろいから」と言われて、とくに男性だと書いてない人でも、何となく男性だろうと思って読んでいることに気がつきました。『古事記』・『日本書紀』(以下、「記紀」と略す)には、私たちが勝手に男だと思っている女性たちが埋もれているかもしれない。だったら、ちゃんと見つけてあげなきゃと思いました。

 同時にそのときに千夏さんに「古墳の主も本当に男なの?」と言われました。古墳被葬者で確実に男女の区別ができるのは骨が残っているときです。しかし、日本は火山が多く、酸性土壌なのであんまり骨が残らない。骨は残っていないけど武器が多かったら男だろう、武器が少なくて装身具が多ければ女性だろうと、何となく思っています。でも、本当にそれでいいのかなと、もう1回整理しなければいけないなと思いました。

 大体、記録や文章を書く人やその登場人物は男性が多く、それを研究する文献史学も研究者も男性が多い。でも、人間社会には男も女もいるので、男性の視点と同時に女性の視点が必要ですよね。

 例えば、3世紀末に完成した『魏志』倭人伝の中に、倭人の有力者は4から5人の妻がいる、下級の人たちも2から3人の妻がいると書いてあり、それをもって一夫多妻制だったと言われています。でも、女性たちが1人の夫しかいなかったとはどこにも書いていない。多夫多妻だったかもしれないですよね。男性の視点でしか書いてないのです。それを真に受けると、古くから一夫多妻制が続いていたように錯覚します。実際はどうだったのか。考古学は骨でしか男女を語れないので、生前の夫婦のあり方というのは考古学ではよくわからないのですが、女性たちに焦点を当てて「記紀」や『万葉集』を見直したら、逞しい女性がいっぱい出てきます。

 古代のヨーロッパや中国では、女は男の財産、子どもを産む道具でした。しかし、古代の日本は、女性の社会的な地位や経済的な権利は高かったのです。女王卑弥呼の時代から、女でも社会のトップに立っていいという認識がありました。ヤマト王権の女王、女帝は、6世紀末の推古さんから8世紀後半の称徳さんまで6人、8代います。それから中央のトップクラスだけではなくて、風土記などを見ても各地で女ボスたちがいます。しかも地域をまとめたリーダーというだけではなく、軍を率いてヤマト王権と闘う女性リーダーたちもいました。

 「記紀」の伝承によると、古代のヤマト王権の大王(天皇)とその妃(皇后)は別々な場所にお墓を造ることが一般的です。たとえば仁徳さんの皇后、磐之媛命は奈良県で、大阪と奈良に分かれてお墓を造っています。天皇・皇后のカップルとして合葬されたのは、8世紀の初め、天武陵に持統が追葬されたのが最初です。若い女性が大王の求婚を断っても罪に問われることもなかったし、独身でも財産をなした引田部赤猪子のような女性もいました。

 古代の女性の自立性が高かったのはなぜか。それは女性の霊力があって、男性よりちょっと神様に近い存在なので、神祀りをおこなうという社会的な地位が与えられたり、敬意が払われたりしたのだという解釈が行われていましたが、それは明治時代に創られた虚像であるという指摘も出ています。私たちが何となく古代からずっと続く伝統だと思っていたことが、実は明治時代にうんと誇張されていることが案外多いのです。女性の霊力を強調するのも、明治・大正時代の研究者の研究に引きずられていた部分が、かなりあるようです。

 では、なぜ古代の女性が強かったのか。やはり、人間の自立は経済的な自立からということです。生業に男女の役割分担があって、それで社会が成り立っていた。女性の仕事は、たとえば田植えとか脱穀、食料採取、調理はもちろん、酒づくり、土器づくり、それから機織りも女の仕事でした。お酒は神祀りに欠かせないし、お米と布は律令体制の大事な税の品です。そういう品の生産に女性が重要な役割を担っていたのです。しかも、女性にも財産権、所有権が認められていて、万葉集でも、お母さんが桑畑を所有していることなどがわかります。そのあたりが、同じ中国の律令体制とちがうところです。平安時代から江戸時代まで夫婦は別財産で、男性上位が強まった江戸時代でも結婚のときに妻がもってきた財産を夫が勝手に売り飛ばしたら、妻の側からの離婚請求が成立した。江戸幕府は、夫が一方的に妻を離別できないよう、離婚の際には妻の持参金を全額返却せねばならないとしたし、酒乱の夫、ドメスティック・バイオレンスの夫から妻を守ってくれました。明治になって、妻には財産権がなくなります。江戸時代に建前でしかなかった決め事が民法になる。離婚率はどっと増え、再婚率は激減します。古代には高かった日本の女性の社会的地位や経済的権利は、天皇制の成立、武士社会の到来などを契機に徐々に低下していきますが、どん底まで突き落としたのは明治時代です。江戸幕府の方が、まだましでした。

 このように、女性に注目して歴史を見てみると、いままでとちがったこの国の姿がみえてきます。まだまだ埋もれているだろう過去の女性たちの奮闘ぶりを皆さんも一緒になって見つけていってください。

百舌烏古墳群の時代~古代における女性~の写真2

古代王権における女性の役割

白石 太一郎

 私は、「古代王権における女性の役割」ということで、(1)考古学から見たヒメ・ヒコ制、(2)女性が王権継承に果たした役割の2点についてお話ししたいと思います。

 まず(1)ヒメ・ヒコ制についてですが、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の女王であり倭国王でもあった卑弥呼には弟がいて、どうもこれが実際の政治を担当していたらしい。こういう制度は古代社会においては時々みられまして、女性が巫女として神の意志を聞き、それに基づいて男の兄弟が実際の政治を行う。これをヒメ・ヒコ制と言っています。

 奈良県川西町に島の山古墳という墳丘の長さが200メートルぐらいの大きな前方後円墳があり、葛城地域の初期の有力な首長のお墓と考えられています。時期は古墳時代の中期の初めぐらい(4世紀後半)で、後円部に立派な竪穴式石室があり、墓主の埋葬施設と考えられています。ただこの後円部の石室は残念ながら現在残っておらず、その副葬品も知られていません。

 一方この古墳の前方部先端の墳頂部を発掘したところ、そこで粘土槨という埋葬施設が見つかりました。これは木棺を粘土で覆った簡単な埋葬施設ですが、木棺を被覆した粘土の上に大量の腕輪形石製品が置かれていました。

 腕輪形石製品というのはいずれも弥生時代に南海産の貝で作られた腕輪を古墳時代に石で模造したもので、鍬形石、石釧、車輪石という三つの種類があります。そのうち鍬形石の祖形は、ゴホウラという大きな巻き貝を縦切りにした貝輪で、弥生時代には男性が腕につけていた石釧の祖形はイモガイという巻貝を輪切りにした貝輪で、女性がつけていたものです。それらは神を祀る司祭者がつけていた貝輪を石で模したものであり、神を祀る役割を担った人の象徴的な持ち物と考えられています。その腕輪形石製品が、島の山古墳の前方部の粘土では、全部で140点近く見つかりました。ですからこの前方部の被葬者は、恐らく神を祀る役割を担った人であろうと思われます。

 古墳の被葬者の性別を副葬品から決めるのは非常に難しいのですが、粘土槨の棺の中に埋葬されていた人物は手玉、手に玉飾りをしていました。のちの人物埴輪で手玉をつけているのはすべて女性です。この棺内では、鏡が3面みつかっていますが、武器、武具は全く出ていません。そういうことから、この前方部の粘土槨に葬られた人は恐らく女性であろうと想定されます。

 島の山古墳の後円部に埋葬されていた被葬者は全くわかりませんが、恐らく男性の政治的、軍事的な首長で、それに対して前方部には、女性の宗教的・呪術的な役割を担っていた首長が葬られていたということがわかります。恐らくこの両者がペアになって一代の首長権を構成していたと考えられます。そういう例はほかにも幾つかありまして、やはり4世紀後半の三重県伊賀上野の石山古墳や岐阜県大垣市の長塚古墳などもそうです。

 それに対して奈良県天理市の東大寺山古墳、これは後漢の「中平」という年号銘をもった刀を出した古墳として有名で、やはり4世紀後半の古墳です。長さ130メートルの前方後円墳で、後円部の中央に一つ大きな粘土槨があり、ここでも全部で55点もの腕輪形石製品が出ていますが、それとともに大量の刀や剣、矢じり、よろいかぶとが出ています。ですから、この場合は、島の山古墳の前方部の粘土槨などとはちがって大量の腕輪形石製品とともに大量の武器、武具をもっている。ですから、東大寺山古墳の被葬者は恐らく男性で、軍事的・政治的な役割も担うし、宗教的・呪術的・役割も担っていたらしい。

 したがってこの時代、すべて聖俗の首長の組合わせで一代の首長権なり王権が構成されていたわけではありませんが島の山古墳に見られるように、2人の首長が聖俗の首長権を分担して担当していたと考える例も決して少なくありません。そのことから、卑弥呼のいた3世紀の中ごろから4世紀代には、ヒメ・ヒコ制は決して特殊な制度ではなかったと考えていいのではないかと思います。

 次に(2)の女性が王権継承に果たした役割について述べます。『古事記』『日本書紀』には、神武以来日本の王権は男系世襲制が最初から確立していたことになっていて、万世一系の系譜が伝えられている。ところが継体天皇は、『古事記』『日本書紀』では応神天皇の5世の孫ということですが、そもそも5世というのが疑わしいわけです。天皇の子孫は5世までがぎりぎり皇族の範囲です。ですから、継体が応神5世の孫とされるのは甚だ疑わしい。文献史学、考古学を含めて多くの研究者は、ここで全く新しい勢力が王権を掌握したと考えています。

 継体は『日本書紀』によりますと、即位しても20年間大和に入れなかったことになっています。これは継体が王位継承を主張してもそれを認めない勢力が大和や日本列島各地にいたからだと思います。それが20年目にようやく大和に入ることができたのは継体が仁賢天皇の娘さんの手白香皇女と結婚して、入り婿の形でヤマトの王統につながったからだと思います。この手白香との結婚が継体の大王位継承を各地の首長たちに認めてもらう上で決定的に重要であったと考えています。

 『延喜式』によると、継体天皇の妃の手白香皇女のお墓は、奈良盆地の東南部の、恐らく卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳に始まる、初期(3から4世紀)の倭国王墓が累々と営まれているオオヤマト古墳群中にあったと考えられます。その理由はよくわかりませんが、私は、継体の王位継承にとって手白香との婚姻が決定的に重要であったと思います。手白香の存在こそが継体の王位継承を担保するわけで彼女がヤマトの王権の血を受け継ぐ人物であることを示すには、その墓の初期の大王墓が営まれた地につくるのが効果的であったからだと思います。

 実は古墳時代の倭人社会では、基本的には夫婦は合葬しません。継体は何人かお妃がいますが、継体を支えた尾張の豪族の娘さんの目子媛との間に産まれたのが継体の後を継いだ安閑と宣化。しかしお父さんが継体で、お母さんが尾張の豪族の娘ですから、この2人もそれ以前のヤマト王権の王統の血を受け継いでいません。だから継体に王位継承上の問題があったとすると、安閑と宣化にも同じ問題がある。それをカバーするために、安閑は春日山田皇女、宣化は橘仲皇女、いずれもそれぞれ仁賢の娘さんと婚姻関係を結んでいます。ここでもまた入り婿の形で王統を受け継いでいるわけです。私が注意したいのは、安閑は春日山田皇女と、宣化は橘仲皇女と合葬されたことが『日本書紀』に書かれていることです。当時の倭人の間では夫婦合葬の風習はないにもかかわらずこの2代は夫婦合葬をしています。これは安閑、宣化がヤマト王権の王統の血を受け継いでいないことと関係があって、むしろ当時の人々の意識から言えば春日山田皇女のお墓に安関が、橘仲皇女のお墓に宣化が合葬されたというのが正しいのではではないかと思います。

古代の女性が果たした役割

司会者

 それでは対談を行いたいと思います。白石先生からは男性が軍事的、女性が祭祀的な役割を担いながら共同統治を行っていたというお話を伺いしました。佐古先生からは祭祀にとどまらず様々な面で活躍する女性のお話を伺いました。古代の女性が果たした役割について受けるイメージがちがいますが、もう少し説明をお願いします。

佐古 和枝

 女性の霊力を強調したのは、柳田國男や折口信夫の影響が強いと思います。女性が非常につらい条件の中で生きねばならない明治・大正時代に、女性にもそういう役割があった、女性も評価されていたという主張をしてくれたことは、当時の女性たちにとって、救いであり、希望であっただろうと思います。

 でも、改めて検証してみると、男性より女性の方が神がかりしやすいなど、主観的な理由でしかないのです。確かに女性が神祀りの場で重要な役割を果たすということはありますが、それは霊力の強さではなく、神祀りに必要な米づくり、酒づくりを女性が仕切っていたためだという見方が最近だされています。

司会者

 古墳からたくさん腕輪などが出てくると、その被葬者は女性だと考えられるというお話でしたが、その点についてもう少し説明をお願いします。

白石 太一郎

 副葬品から被葬者の性別がわかれば、これは大いに研究に役立ちますが、現在の段階でも、副葬品の組み合わせから性別を決定することはやはりできないと思います。したがって、腕輪形石製品のあり方から、古代の王権なり首長権が、聖なる王権と俗なる王権との組み合わせで成立していた例が多かったことは間違いないのですが、それを男女と考えていいかどうかは難しい問題です。ただし、例に挙げました島の山古墳の場合は、棺内の副葬品のあり方から女性である蓋然性は極めて高い、これは女性と考えていいのではないか。それから大垣市に長塚古墳がありますが、やはり女性の宗教的・呪術的な首長と、男性の軍事的・政治的な首長が合葬されたと考えられます。

 『魏志倭人伝』には、卑弥呼と後継者の台与が出てきますが、台与も年13の未婚の女性を王につけたわけで、これも恐らく男性の兄弟が助けていたと思われます。考古学的な方法で性別を決めることは極めて難しいけれども、やはり政治的・軍事的な役割の男性に対して、宗教的・呪術的な役割を果たしたのは女性の場合が多かったと考えてよいのではないか。もちろん逆の場合もあったことは否定しませんが、やはり古代日本においては、女性がそういう役割を果たす例が多かったことは認めてよいと思います。

女性と武力とのかかわり

司会者

 祭祀と反対に、女性と武力のかかわりについてはいかがでしょうか。

佐古 和枝

 『古事記』、『日本書紀』、『風土記』の中では、戦う勇ましい女性たちがたくさんいます。お話としては出てきますが、はっきりと人骨から女性であるとわかっている古墳では甲胃や馬具は出土していません。盾も確実な例ではないです。南九州では女性も矢を副葬しますが、それ以外の地域ではありません。武器は戦う象徴だけではなく、武力でもって悪霊をはらう効果が期待されていますので、刀や剣は副葬されますが、集団戦・騎馬戦で使うような馬具や弓矢などはない。それはなぜか。もしかしたら生前の生活とお墓に入れる品はちがうんじゃないかという考え方が一つあります。もう一つには、甲冑を副葬している女性人骨がないだけで、甲冑の副葬の数が少ないものは、ひょっとしたら女性でもいいのではないかという見方もあります。

 いずれにしても、はっきりと人骨で男女と言えるデータが余りにも少ないので難しいですけども、やはり甲胃はどうも女性の古墳にはないという感じです。白石先生いかがでしょうか。

白石 太一郎

 そのとおりですね。残念ながら今の考古学では、副葬品の組み合わせから被葬者の性別を明らかにするのは極めて難しい。恐らく女性ではないかと考えられる例は幾つかありますが、この問題は今後の大きな課題です。

佐古 和枝

 私は、最初から何となく男だと思うことに気をつけるとともに、これは何となく女じゃないかという感覚も大事だと思います。だから、男か女か、決定的な証拠がない限り、どちらかわからないと思って見ていくのがいいのかなと思います。

百舌烏古墳群の時代~古代における女性~の写真3

百舌鳥古墳群が築かれた時代の女性

司会者

 次に、百舌烏古墳群が築かれた5世紀には、女性はどのような形で史料に現れるのか紹介してください。

佐古 和枝

 女性を中心とする古墳は、数はさほど多くはないですが、各地にあります。5世紀までは西日本の方に多く、6世紀になると東の方にも女の古墳が出てきます。

 せっかく堺でやっているので、大王たちの時代はどうかというと、記紀の伝承でみると、なかなか元気のいい女性や大王の妻たちがたくさんいます。例えば、妃になれと言っても断られている大王たちがいます、仁徳も、雄略も、武烈もそうです。中国とかヨーロッパとか、王様が妃になれというのを断ったら多分殺される。でも、記紀の伝承では、嫌だと言っただけでは別におとがめなしであるという娘たちがいます。大王仁徳も浮気したといって皇后磐之媛に叱られているし、大王允恭も妻にお尻を叩かれて即位を決意しました。なかなか頼もしい妻たちがいっぱいいたと思います。

司会者

 考古学の面からはいかがでしょうか。

白石 太一郎

 ヒメ・ヒコ制は基本的には4世紀代までだと思います。5世紀になると、司祭者を象徴する持ち物を大量に納めた古墳の埋葬施設は少なくなり、あっても余り重要な位置を占めなくなります。5世紀は、倭国が朝鮮半島に軍事的に進出した時代でもあり戦争の時代になりますから、どうしても支配者たちの中での男性の役割が大きくなるのでしょう。

 『日本書紀』を見ると、仁徳天皇のお妃の磐之媛は非常にしっかりした女性であったことがわかります。ただ、古墳時代の前半期には、大王の特定の妃のために独立の古墳をつくることはまずなかったと思います。九州大学の田中良之さんが古墳における合葬のあり方を人類学的方法で分析しておられます。それによると古墳時代の前期から中期は、基本的男性とその男女のキョウダイの合葬が基本であった。ところが5世紀の終わりごろから6世紀になってくると、今度は一人の男性とその子どもたち、次の首長権を継いだ子どもは次代の古墳をつくりますが、そうでない首長権を継がなかった男の子とか、女の子どもたちがお父さんのお墓に埋葬される例が多くなる。それから6世紀でも新しくなってくると、今度はそれにお母さんも加わり、夫婦とその子どもという形になってくると言う。私はそれは基本的に正しいと考えています。ただし、夫婦合葬は朝鮮半島から渡来人が持ち込んだ風習であり、基本的には倭人たちの間では夫婦は合葬されなかった。

 妃のために大きな古墳をつくった最初の例は、6世紀の継体妃の手白香皇女のお墓だと思います。継体の王位継承を担保するために妃の手白香の存在が無視できなかった。手白香がヤマトの王統を正統に受け継いでいることを示すために、そのお墓を初期の大王たちの眠るオオヤマト古墳群に営んだわけです。このころから特定の妃の古墳がつくられるようになったのだと思います。

 そういうことで、百舌烏古墳群の時代は、やはり大きな古墳の中心的な被葬者はほとんど男性であったと考えざるを得ないのではないか。その中で女性がどういう役割を果たしたかは、今後の大きな研究課題だと思います。

歴史的変遷も含めた古代における女性

司会者

 最後に、歴史的な変遷も含め、古代における女性についてまとめていただきたいと思います。

佐古 和枝

 変遷という点で重要なことは、古代には高かった社会的な地位、経済的な権利がだんだん下がっていった時期と原因です。

 まず、西日本では6世紀になると女一人を葬る古墳がなくなります。5世紀に組織的な武力活動が行われるようになって、女性の地位が下がったのだろうと考えられます。

 その後は9世紀です。完全に男性上位の社会ができ上がっている中国の律令制度を取り入れて、日本も律令体制をとり、その中核に据えたのが天皇制です。天皇=神ですから、清らかさが重視され、穢れへの忌避が広まっていく。その中で女性が、血の穢れということで排除される。それから初期の仏教です。女性は成仏できない存在とされました。そういう通念が社会に浸透していくのが大体9世紀頃。それでもまだ政治の世界で活躍する女性たちがいましたが、それも薬子の変以降、表舞台に立たなくなり、女性が天皇の位につくことも途絶え、奥に引っ込んでしまいました。

 平安時代には、土地の所有権はあったので、女荘園領主がいました。親の財産権、財産相続は男女均等で、子どもの中で一番発言権が大きいのは男であれ、女であれ、一番上の子でした。

 鎌倉時代以降、武家政権になって女性の地位がまた下がります。特に14世紀の戦国時代に、神も仏もないという混乱の時代になると、聖なるものの権威が落ちることと一緒に女性も落ちていきます。そのころから祀りの場から徐々に女性が排除されていく。江戸時代には、儒教的道徳観が浸透し、「貞女二夫にまみえず」とか「女は三界に家なし」とか律令制の中にもあるけれども形でしかなかった文言が、女子の道徳教育の本「女大学」などがいっぱい出てきます。しかし、実際には浮気や駆け落ちもけっこうあったようだし、再婚率も50%を超えています。だから、ああいう道徳教育も、上流の武士階級に限られてたのかなと思います。

 近代化をめざした明治時代に女性の地位がどん底に落ちるのは、明治政府が天皇を中心とする国家造りのなかで天皇の聖性を強調したことと、天皇を父とする家族国家をめざしたことの影響だと思います。その時の印象を私たちはまだ引きずっているのです。

 だから、そういう思い込みで何となく男だとか男性上位だと思ってしまうことを警戒し、古代はもとより江戸時代以前の女性たちはなかなか逞しいのだという視点で見直していくと、もっと楽しいこの国の歴史と明るい未来が見えてくると思います。

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