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受賞者挨拶 奨励賞 吉岡 秀人

更新日:2012年12月19日

 皆様今日は、本当にありがとうございました。堺市の皆様ありがとうございました。選考委員の皆様ありがとうございました。

 私が、どうしてミャンマーに関わったというところからお話しなければいけないかなと今日は思っております。私がミャンマーに行きましたのは、1995年です。その年は、戦後50年ちょうどの年でした。ミャンマーといいますのは、昔ビルマといいまして第二次世界大戦のときに日本人が20万人近く亡くなっております。高齢の方、ある年齢以上の方はご存知だと思いますけどインパール作戦というもので、日本人が10万人以上玉砕いたしました。その逃げてくる街道は、白骨街道と言いまして未だに10万体以上の遺骨が還らないまま彼の地に眠っております。その遺族の方々が是非ミャンマーに、自分の身内が亡くなったミャンマーで医療活動をしてくれないかということで、はじめに依頼がありまして、それで私が赴くことになりました。例えばある兵士の方は、僕にこういうふうに言いました。70歳を超えた方だったんですが、自分が足を撃ちぬかれ、歩けなくなったんですが、ミャンマーの農夫が自分を担いで3時間、4時間と歩き続けてくれた。私がこうして日本にいて、こうして生きていられるのは、あの名も知らない農夫が私を見捨てないで運んでくれたからなんだと、本当にあの人たちのために何かしてあげてほしいと彼は言いました。僕は、50年目にちょうど行ったときにたくさんの戦争の残骸がありました。それは時には、壁に撃ち抜かれた弾丸の跡であり、まだ取り残された戦車の残骸であり、そして多くは、まだミャンマー人の生きていたお年寄りたちの話の中にたくさんありました。戦後、激戦のあったある町で僕は2年間ほど医療活動をしましたが、たくさんのお年寄りが、初めての日本人ということで、たくさん私のもとに訪れまして、その時、日本人たちがどのようにして亡くなっていったのか、どういうふうに戦い、何を考え、そして死んでいったのか、日本へ帰っていったのかをいろいろなお年寄りたちが僕のところに来て順番に話をしてくれました。その時にああ私は日本の歴史とつながったと初めて自覚しました。その後、僕の周りにはいろいろなことが起こりますが、イギリスに追われてインドの国境から逃げ帰った日本人たちが、ビルマ人たちに匿われます。そして数万人単位の日本人が生き延びて帰ってくることができました。ああ日本人は、この国の名もない農民の人たちに本当に助けられたんだな、恩があるんだなと思いました。幸い僕の身内は、ビルマ戦線には誰も行っておりませんが、一人の日本人として、今は貧しくなって非常に社会情勢の厳しいこの国の人たちのために何かしてあげることができる今の日本が、日本の代表として僕が何かやらなきゃならないんだという自覚のもとに彼の地に留まることにしまして、そして未だに医療活動をしております。

 幸いに僕のところには、たくさんの日本人の医療者がやって来まして、年間150人から200人の若い医者や看護師がやって来まして日本に帰っていきます。その方たちがあの国のために働き、精神的にも技術的にもレベルを上げて、日本社会のために働いてくれている。それが私の今の喜びです。そして今後は、僕はミャンマー、ビルマという土地に縁がありまして、活動を続けておりますが、どうぞみなさん好きなところへ行って、日本社会のために働きたい人は、日本社会のために、そしてまた、困っているほかの国で働きたい人は、ほかの国に行ってください。そして、少しずつ輪が広がりまして今いろいろな国に出れるようになってきました。それをサポートするのが今後僕の役目だと思っています。

 最後に一つ、いつも感じることをお話したいと思います。1945年、広島、長崎に原爆が落ちまして、数十万人が一瞬にして亡くなりました。僕は、ビルマから帰っていろいろ戦争のことを考えるようになりました。こんなひどい殺され方があるのか、こんなことが許されていいのかとずっと思っていたんですね。あの人たちは無駄死にじゃないかとずっと考えていたんですね。ところが少し最近考え方が変わってきました。それは何かと言うとですね、第二次世界大戦の後、朝鮮半島で朝鮮戦争が起こります。アメリカを中心とする連合軍は、押し戻されて済州島まで来ます。その時に押し返していったときに連合軍の司令官だったマッカーサーが中国の黒龍江省の向こうに原爆を落とそうとするんですね。それを咎められまして、結局、アメリカに帰っていくんですね。それから又何年か経ちまして、キューバ危機が起こります。キューバ危機の時には、ソ連が武器を置くかということになりまして、最後アメリカと一線、ソ連のフルシチョフとアメリカのケネディのどちらが最初に原爆のスイッチを押すのかという我慢比べをします。最後にフルシチョフが折れます。そしてキューバ危機は収まって、世界は核戦争の危機から逃れます。僕は考えたんですね。なぜフルシチョフが折れてしまったか、なぜマッカーサーはアメリカに帰らなければならなかったのか、それは、やはり広島、長崎の原爆のせいなんだということがわかりました。あれで初めて人体に使われたときにどんな影響があるのか、そしてどういうような悲惨なことが起こるのか、そういうことをアメリカもソ連もわかっていたんですね。だから押せなかった。だからフルシチョフは折れた、マッカーサーは帰っていったんだということがわかりました。僕が言いたいのは、本当にかわいそうだと思ったこの人たちの死が、それから何年か経って数億人の命を助けたと。今まで無駄死にだと思っていたのが、意義のある死に変わったんだと、そのとき初めて彼らの死の意味が変わったんだとあるところで話をしました。長崎とか広島の方は、本当に喜んでくれましたが、そういう話をしました。そのときにある宗教学者の人が僕にこう言ったんですね。「死者はその後生きる人のために二度死ぬことがある」と言いました。その後生きる僕らがどう生きるか、それが死んでいった人の意義を変えるのだと、そのこと自体の根本的な本質も変えてしまうということを今実は僕はミャンマーで感じています。僕が少しでもミャンマーの人たちのために尽くし、アジアの人たちのために働き、そしてたくさんの日本人たちがそれでしっかり平和とか命というものについて考え、そして世界に散っていく、あのたくさんの日本人が亡くなったあの土地で、彼らは、遺骨も還ってきません、ですけど、その土地であのなくなっていかれた方々の思いを受け取り、命を受け取って、そして今ある歴史の最下流にいる僕らが、これから世の中のために何ができるのか、この何ができるのかということで、これからその人たちの生の意味や死の意味も全部変わっていきます。だからその自覚のもとに、僕はいつもそのことを話します。だから8月15日になれば必ず全員揃って、慰霊碑のある現地に参っています。そういうことでまず歴史とつながり、日本の歴史を自覚して、そして世界のために何ができるか、日本のために何ができるかを考えていこうよということでいつも話をしています。これからたくさん優秀な日本人を日本へ世界に向かって送っていきたいと思います。

 本日はありがとうございました。

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