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その他の先人達

更新日:2023年11月22日

武野紹鴎(たけのじょうおう) 文亀2年(1502年)から弘治元年(1555年)

大和出身の茶人・豪商で、後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては、茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として、今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう) 天正17年(1591年)没

堺の茶人・豪商。堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には、多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう) 永正17年(1520年)から文禄2年(1593年)

大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鴎に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄の代官職、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え、茶の三大宗匠といわれました。

納屋助左衛門(なやすけざえもん) 生没年不詳

室町末期の堺の貿易商人。呂宋(るそん)助左衛門の名で知られています。文禄2年(1593年)、ルソン(フィリピン)に渡り、輸入したルソン壺が茶器として珍重され、多くの財を得ました。のちに贅沢な生活が秀吉の怒りにふれ、カンボジアに逃避しました。

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小西行長(こにしゆきなが) 慶長5年(1600年)没

堺の薬種商で秀吉の御用商人であった小西立佐(隆佐)の子息。秀吉にとりたてられ、肥後国宇土二十四万石の領主となりました。関ケ原の戦いでは、石田三成らと共に西軍で戦いましたが、敗れて六条河原で処刑されました。熱心なキリスト教徒としても知られており、一族を挙げて社会事業に尽くしました。

芝辻理右衛門(しばつじりえもん) 寛永11年(1634年)没

堺の鉄砲鍛冶。芝辻の家に生まれ、鉄砲製造の技術に長じていました。慶長16年(1611年)、徳川家康の命により、口径一寸三尺、長さ一丈、砲丸重量一貫五百匁の大筒を製作して献上しました。

榎並屋勘左衛門(えなみやかんざえもん) 寛永20年(1643年)没

堺の鉄砲鍛冶。徳川家康が江戸幕府を開いた時、御用鉄砲鍛冶として重用され、鉄砲年寄も務めました。江戸道三河岸に邸を与えられ、御用鉄砲鍛冶として尽くしました。

河井醉茗(かわいすいめい) 明治7年(1874年)から昭和40年(1965年)

堺の北旅籠町大道筋呉服商・河文に生まれました。22歳の時上京して作詩活動を開始。関西に戻ってからは関西青年文学会の機関誌「よしあし草」の刊行に協力しました。明治34年(1901年)、処女詩集「無限弓」で世に認められました。浪漫的な七五調の定型詩が中心でしたが、明治43年(1910年)には口語自由詩の型をとった「霧」を刊行しました。大正期以降の活動として、女流詩人育成の面での功績が注目されます。

曽我廼家五郎(そがのやごろう) 明治10年(1877年)から昭和23年(1948年)

堺に生まれた日本の喜劇王。本名は和田久一。16歳のころ、中村珊瑚郎に弟子入りをし、珊之助と名乗りましたが、門閥や家柄に恵まれず、このままではおぼつかないと一念発起、旅まわり役者として転々とするうちに芸を磨き、「大阪にわか」の系統を引く新喜劇「五郎劇」を創始しました。庶民的な喜劇を自ら執筆、上演し、大衆の好評を得て、一躍人気者となりました。その自作自演は1000作を超え、長く「喜劇王」の名をほしいままにしました。
晩年、喉頭ガンのため声を失いましたが、それでも舞台を務めた執念の人でした。「五郎劇」の伝統は、現在の松竹新喜劇に受け継がれています。

河内鋳物師(かわちいもじ)

河内鋳物師は、平安時代末期から室町時代初めにかけて、河内国丹南郡(現在の美原区とその周辺地域)を、本拠地または居住地として活躍した鋳造技術者集団のことをいいます。
彼らは、12世紀から13世紀にかけて鋳造された現存する梵鐘81口のうち、62%にあたる50口を鋳造しています。さらに、河内国から移り住んで、その地で鋳造したものを含めると80%におよぶといわれています。
また、彼らは、朝廷に鉄灯燈を献上するなど一定の諸役を務めることによって、課役免除や通行自由の特権を得て、鍋・釜などの炊飯用具や、さまざまな鉄鋳物製品を供給しました。その中に、当時の有力者が競って求めたと言う「河内鍋」が含まれます。
14世紀になると、彼らは、日本各地からの鋳物製品に対する需用に応えるために、鋳物工房を製品の供給地や交易に便利な港(堺や兵庫津など)付近に移していくようになり、やがて、かつての本拠地には、河内鋳物師の姿がほとんど見られなくなりました。
各地に移り住んだ河内鋳物師の末裔たちは、鋳物業の独占を図るために、かつての自分たちの先祖が誇った技術力を鋳物製品に反映させるとともに、他者の鋳物業への参入を防ごうとしました。また、各地の鋳物師を自己の支配下に編成しようとした真継家の思惑もありました。これらのことが、各地に河内丹南が鋳物師発祥の地とする伝承が残るもとになったと思われます。

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