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1.はじめに

更新日:2012年12月19日

 慶長20年(1615年)旧暦4月28日午後4時頃、大坂夏の陣の前哨戦として、豊臣方の大野道犬により放火され堺の町は炎上しました。この日の状況について「此悲しむべき火災の為、二万の家屋は火に嘗められ、其夜大坂に於いては、火の海より多量の火災の天に昇るが如く見えた」とポルトガル人の宣教師は書き残しています。この大火災により中世自治都市として繁栄の頂点にあった堺の町のほぼ全域が焼失しました。これ以後、徳川幕府による整地作業などの復興事業と町の拡充・堀の付け替えなどの都市大改造が行われて、長方形街区(ちょうほうけいがいく)と短冊形地割(たんざくがたちわり)をもつ新しい近世都市として復興する過程で中世の町並みは完全に土中に埋没すると共に人々から忘れ去られました。

 ところが、近年における都市の再開発などに伴う発掘調査により、地表面より約1メートルから4メートル下に建物・道路・堀などの中世期の遺構や瓦・陶磁器などの遺物が検出されています。そこには火災・津波などによる災害の痕跡層とその上に土で整地して建物などを復興した面とが交互に繰り返し見られ、およそ14世紀後半から17世紀初頭にかけての町の災害と復興の歴史が土中にパックされた状態で残っていました。この遺跡(堺環濠都市遺跡・遺跡略号SKT)の約30年に及ぶ発掘調査の成果により、自治都市として繁栄していた当時の町の様子や人々の生活文化が断片的ではあるが、具体的な姿を見せ始めています。

 特に堺は、武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)などに代表される茶人・数寄者(すきしゃ)を多数輩出しており、当時の茶の湯世界を彷彿とさせる茶道具類も多く出土しています。これら出土した茶の湯に使用する陶磁器=茶陶(ちゃとう)は、いわゆる「名物」として長い間に淘汰・伝世されたものとは異なり、出土した地点や遺構から使用した年代や状況が推測可能であるために当時行われた茶の湯を再現する資料として注目されています。

 このWeb展示会では、発掘調査で確認された茶室・数寄屋(すきや)建築関連の遺構から3地点(SKT39、SKT47、SKT263)を選び、そこから出土した茶陶を通じていわゆる桃山時代(16世紀末から17世紀初頭)に堺衆(さかいしゅう)が創造した茶の湯世界を紹介します。
各調査地点で微妙に異なる茶陶の「取り合わせ」は、その所有者・亭主の「好み」の相異を明確に表現していたものと考えられます。出土した茶陶に見られる画一的ではない「多様性」がまさに桃山という時代性を色濃く反映したものと思われます。

堺環濠都市遺跡については下記のページで紹介しています。

このページの作成担当

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