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放鳥銃定限記碑

更新日:2017年2月9日

指定区分

堺市指定有形文化財

説明

 日本にはじめて鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543)のことです。泉州堺の橘屋又三郎は、いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と砲術を習得して堺に帰り、安土桃山時代には堺は日本でも有数の鉄砲生産地となりました。
 江戸時代に入っても堺の鉄砲鍛冶たちは、全国の諸大名に鉄砲を供給し、多くの鉄砲鍛冶や関連する職人たちが現在の北旅籠(はたご)町周辺に集住していました。それとともに、堺七道浜(しちどうはま)には鉄砲の試射場が作られ、昭和の初めまで「鉄砲塚」としてその面影を残していました。大正3年(1914)頃、大和川畔の東西水路開削工事の際に「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題した碑が発見されました。この碑の文は、寛文4年(1664)に砲術家 川名金右衛門忠重によって書かれたもので、恩師 小濱民部丞(みんぶのじょう)嘉隆への賛辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
 開削工事の発起人であった堺の実業家 柳原吉兵衛は、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な石碑を顕彰するために、昭和3年(1928)自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立しました。その後石碑は、昭和19年(1944)に堺市に寄贈され、長くザビエル公園に保存されてきましたが、平成2年(1990)に発見場所に近い七道駅前に移設されました。
 放鳥銃定限記碑は、堺の鉄砲史の一側面を物語り、江戸前期の鉄砲の教習や試射に関する情報を伝える資料として大変貴重なものです。また、石碑が発見されて以来の歴史的経過を鑑み、昭和19年(1944)に堺市に一括して寄贈された柳原吉兵衛による石碑顕彰資料を附(つけたり)指定としています。

放鳥銃定限記碑 現状全景放鳥銃定限記碑 現状全景

所在地

堺市堺区鉄砲町1-5

所有者

堺市

法量

  • 自然石部分 高さ273.5センチメートル、幅169.0センチメートル、奥行44.0センチメートル
  • 石板部分   高さ112.0センチメートル、幅39.0センチメートル、奥行22.0センチメートル

時代

江戸時代 寛文4年(1664)

指定年月日

平成29年2月6日指定

このページの作成担当

文化観光局 歴史遺産活用部 文化財課

電話番号:072-228-7198

ファクス:072-228-7228

〒590-0078 堺市堺区南瓦町3番1号 堺市役所高層館5階
(文化財課分室)〒590-0156 堺市南区稲葉1丁3142

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