高倉寺 金堂・御影堂・宝起菩薩堂
更新日:2017年2月9日
指定区分
堺市指定有形文化財
説明
高倉寺 境内
高倉寺は、南区高倉台に所在する真言宗寺院です。『行基年譜』によると、当寺は行基建立の四十九院のひとつで、大修恵院(だいすえいん)と呼ばれ、慶雲2年(705)行基38歳の開創です。また寺伝によると、高倉天皇(1161~1181)がお越しになられ、「大修恵山高倉寺」の称号を賜ったと伝えられています。
天正13年(1585)の根来(ねごろ)攻めによる兵火で伽藍(がらん)を焼失したと伝えられていますが、その後再建され、現在境内には、金堂をはじめ多くの仏堂が小高い丘の上に密集して建ち、江戸時代の濃密な寺院空間を今に伝えています。
金堂
金堂は、桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)三間、一重、切妻造、向拝(こうはい)一間、本瓦葺、四方に錣庇(しころびさし)をまわす仏堂です。
建築年代は寺伝で伝わる、寛永7年(1630)に再建され、その後延宝2年(1674)に大改築されたものと考えられます。外観的には切妻造で錣庇をまわし妻入とする、他に例を見ない姿のものであり、また堂内においては、外陣(げじん)の奥行が浅く、内外陣(ないげじん)に仕切られるなどの中世的な密教仏堂平面であることなど、建築史的にも重要な建造物です。
高倉寺 金堂
御影堂
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、向拝一間、本瓦葺の方三間堂です。背面の下屋(げや)は、後に増築されたものです。江戸時代、河州6組の大工組のひとつ石川新堂村大工と、地元の上神谷(にわだに)豊田村大工によって、明和3年(1766)に建築されたことが棟札(むなふだ)から知られます。向拝には江戸後期の華やかな彫刻が見られますが、正面の蔀戸(しとみど)や面取の大きな角柱は古式な姿を今に伝えています。
堂内の宮殿形厨子(くうでんがたずし)は正面を二間とし、中柱上に軒唐破風(のきからはふ)を設ける異例の形式です。内部には弘法大師(こうぼうだいし)、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)を祀ります。
建築年代が棟札により明確に知ることが出来、また境内伽藍(がらん)を構成する上でも貴重な建物です。
高倉寺 御影堂
宝起菩薩堂
桁行五間、梁間三間、一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺の建物で、周囲には高欄付(こうらんつき)の縁をまわしています。
堂内は、正面と側面側に仏壇を設け、正面仏壇には厨子を、側面側には不動明王(ふどうみょうおう)、役行者(えんのぎょうじゃ)等を祀ります。
建立年代は棟札により明治14年(1881)であり、向拝の彫刻などの様式もこの時代のものです。建築年代は明治時代に下るものの、この外観意匠は江戸時代に見られない明治の新しい建築意匠を試みた建物であるものと考えられ、また境内伽藍を構成する上でも貴重な建物です。
※建造物の指定名称は「宝起菩薩堂」ですが、絵画の指定名称は宝永5年(1708)の修理銘により「法起菩薩曼荼羅図」としています。
高倉寺 宝起菩薩堂
所在地
堺市南区高倉台2-9-15
所有者
宗教法人 高倉寺
建物の構造と年代
- 金堂: 桁行五間 梁間三間 一重 切妻造 向拝一間 本瓦葺 四方錣庇
江戸時代 寛永7年(1630)建築・延宝2年(1674)大改修
- 御影堂: 桁行三間 梁間三間 一重 宝形造 向拝一間 本瓦葺
江戸時代 明和3年(1766)
- 宝起菩薩堂: 桁行五間 梁間三間 一重 入母屋造 向拝一間 本瓦葺
明治時代 明治14年(1881)
指定年月日
平成29年2月6日
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