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高齢社会 ~だれと暮らす?どう暮らす~

更新日:2012年12月19日

コーディネーター
春日 キスヨ(かすが きすよ)
(松山大学人文学部教授)
パネリスト
市川 禮子(いちかわ れいこ)
(社会福祉法人きらくえん理事長)
備酒 伸彦(びしゅ のぶひこ)
(神戸学院大学総合リハビリテーション学部准教授)
尹 基(ゆん ぎ)
(ソーシャルワーカー「故郷の家」理事長)

男性介護者が増えてきたとはいえ、まだまだ女性に介護の負担が多くかかる中、介護保険など社会資源をどう活用していくのか、高齢社会に明るい方向性をもたせるには何をしたらよいのかを考えました。高齢社会について考えることは、これからの社会のゆくえを模索することにつながります。その意昧で、国の施策を問題にするだけでなく、企業やNPO、高齢者福祉施設、そして市民一人ひとりがそれぞれの立場で何ができるのか、それをどうつなげていくのかについて考えました。

私を啓き、家族を開き、地域を拓き、そして国の福祉のあり方をひらく

春日 キスヨ

 今日の集いが、ただパネラーの方のお話を聞くだけのものでなく、この会に参加なさった方々が、それぞれの地域で何かやれることからやっていく、そうしたきっかけとなっていく会になればと思っています。

 そのためにこの分科会のスローガンとして、「私を啓き、家族を開き、地域を拓き、そして国の福祉のあり方をひらく」をおきました。

 ところで、時代が変化していく中で、これからの高齢者が覚悟しなければならないのは、かつてのようには高齢者が家族に老後の世話や介護を求められない時代になってしまったという事実です。私たち一人ひとりが、地域での人間関係を耕し、在宅サービスや、施設サービスを利用しながら、ギリギリの時点まで住みなれた地域で自力で暮らしていける方向に、行政のあり方を変え、社会を組み変えていくしかない時代が来ていると思います。

 そのためには私たち一人ひとりが地域での望ましい支援のあり方、施設サービスのあり方を知っておく必要があります。そうした趣旨にたって、この部会ではまだまだ家族がみるべきという規範が強かった時代に家族のみで高齢者がケアされる時代は終わったという視点から、日本でも先駆的に地域での実践、施設での実践を切り拓いてこられた3人の実践者の方たちのお話を聞くかたちでこれからの高齢者介護、高齢者福祉のあり方について考えていきたいと思います。

人権を守ることと民主的運営

市川 禮子

 社会福祉法人きらくえんのご紹介をさせていただきます。

 現在、4つの特別養護老人ホーム、ケアハウス、認知症の方のグループホーム、デイサービス、ショートステイなどさまざまな事業を展開している法人で、職員が630人、そして一つひとつの事業を数えていくと80事業ぐらいの規模です。

 次に、法人の理念とそのとりくみをお話しいたします。

 法人理念はノーマライゼーションです。デンマークのバンク・ミケルセンがデンマークの1959年法にうたった理念です。彼は第2次世界大戦中にナチの強制収容所に収容された経験があり、戦後間もないデンマークの知的障害者施設の状況が、強制収容所に酷似していることに衝撃を受け、「どんなに重い障害をもっていても、私たちと同じようなごく普通の生活を保障しなければならない」、ノーマルな生活を、ということでノーマライゼーション理念を提唱されたということです。

 私たちはこのことを知りまして、第2次世界大戦の教訓から生まれたノーマライゼーションを大切にしたいと思いました。また、福祉は平和と同義語だと思っていました。平和なくして福祉はないわけですから。そこで職員たち全員に、福祉の仕事をするということは、平和を希求することだと、ノーマライゼーションを法人理念とする第一の理由にしました。そして、その上にたってノーマライゼーションの解釈を、どんなに重い障害をもっていても「地域の中でひとりの生活者としての暮らしを築く」と決めました。昨今、やっと特養の個室化が進められたり、住みなれた地域での地域密着型小規模単位でのサービスなどの施策が進められようとしていますが、27年前の最初の特養開設時は雑居で、収容管理的運営が当たり前という時代でした。そんな状況の中、高齢者がどんなに重い障害をもっていても、認知症であっても「地域の中でひとりの生活者としての暮らしを築く」ということを基本に据えたのです。

 次にこの理念を具体化するために運営方針を二つ定めました。その一つは「人権を守る」という方針です。高齢者の人権を守ると同時に、自分の人権が守られずして他人の人権は守れませんから、職員の人権も守るということを位置づけました。

 二つめは、「民主的運営」です。その頃は措置の時代で一定の自己負担以外は公費=税金でまかなわれていました。2000年度から介護保険制度に移行しましたが、それでも2分の1は税金が使われています。ですから、介護保険事業は民間企業が行なう在宅福祉サービス等も含めて公共的な事業であるということを肝に銘じて、地域に根ざし地域の方々が望む特養や在宅サービスを創っていくことが大切です。地域の方々に特養のさまざまなとりくみに参加していただくと同時に、私たちも地域にどんどん出かけていくという関係をつくり、地域の人たちが望む特養を一緒につくり上げていきたい、という思いで民主的運営という方針を定めました。

 また、施設の運営も理事長や施設長が独善的に運営するのではなく、会議を大切にして、いい意見がどんどん取り上げられる、そのような施設にしたいという思いもこめられています。

 そして、介護の現場で理念やこの二つの方針を具体化するために「人権を守る」については「高齢者の尊厳を守る」ことを第一義にしました。これらの具体化の中で私たちが1番大事にしているのは自己決定です。認知症の症状がどんなに重くても、職員たちが日頃しっかりとその方に寄り添っていれば、その方のおっしゃることは大体わかり自己決定を可能にします。私たちは自己決定ができる問いかける言葉や依頼形の言葉などに加えて尊敬語や謙譲語を適切に使える言葉遣いをずっと探求してきました。また、入浴・排泄介助をはじめプライパシーを守ることも徹底させてきました。

 このようにさまざまなことに配慮して施設の中で一応のことができてもそれだけではまだ人権を守ることにはなりません。人間は社会的存在ですので、社会との接触が絶対に欠かせないと思い、市民的自由・社会参加の尊重ということも掲げてきました。老人ホームという場には居るけれども、その地域の住人だということで、たとえば地域の老人会や趣味の会にも加入して会員として地域の方々と交流しています。

 また、4施設ともボランティアの支援が大変多く、たとえばあしや喜楽苑では実数で300人のボランティアが活躍しています。地域住民との交流も広範にということで、市民が行うさまざまな行事、たとえばドラゴンボートレースなどに職員も参加しています。住民の皆さんと共にいい地域をつくっていこう、地域の諸課題も一緒に解決していこう、という立場で住民の方々と共にバス停やポストを増設させる運動にも参加してきました。

日韓関係がよくなること、福祉をよくしていくこと

尹 基

 私の人生のテーマは、日韓関係がよくなること、福祉をよくしていくことです。私は韓国人の父と日本人の母の間に生まれました。25歳で、320人の子どもたちの児童養護施設の園長になりました。その当時、韓国はとても貧しくて、子どもを産んでも育てられない子どもたちがいっぱいいたので、棄子一時預かり所を設け、棄てる前に相談してくださいと相談所をつくりました。子どもたちも社会で自立しなければならないのに、孤児院出身者は自立ができない、就職ができない、財政保証人がない。いろんな壁に苦しんでいました。少年少女職業訓練をつくりました。私は、子どもの世界、青少年の世界を中心として仕事をしてきましたが、老人ホームにかかわるようになったのは、50年間も韓国で暮らした母が、入院して力が弱くなっていくと、韓国語から日本語に変わっており、のどに何も通らなくなると「梅干しが食べたい」と言ったのです。母の口に食べやすいものは日本の料理で、話しやすいのは日本語でした。私が故郷の家をつくったきっかけは、日本人に比べると声の大きい韓国人が東京の老人ホームでは気兼ねして、気を遣って静かに暮らしていたり、島根では、朝鮮人は朝鮮人同士住むべきだと、日本人の老人ホームに入ると息が詰まるという言葉を聞いて、息が詰まるという言葉と、静かに暮らしている姿と、そして、母が残した日本語で梅干しが食べたいと言った言葉が、日本に暮らしている在日の方々も、年を経て、最後にはキムチが食べられる老人ホームに入りたいんじゃないか、アリランが歌える、そういう施設が必要です。これからは、私たちがよい歴史をつくっていくという夢をもち始めました。

 そして、もう一つは、日本人が、世界から尊敬される日本に変わっていくために、日本に住む外国人が、日本はいい国だと言える、そういう社会をつくればいいなどと思い、故郷の家をみんなと始めました。

高齢者リハビリテーションと介護に携わって

備酒 伸彦

 私は、高齢者リハビリテーションと介護に携わってきた立場からお話をいたします。

 今、高齢者ケアの現場、みんな一生懸命やっています。ただ、もしかしたらまだサービスがいいものになってないかもしれない。それの一つの大きな理由は、思い込みです。一生懸命やればやるほど、目の前のことに一生懸命になりますから、ちょっとした視界を広げることをやめてしまいます。そういったときに、実は皆さんの出番です。市民はこういうサービスを求めているということを、現場にいかに伝えるかということが極めて重要であるということを申しあげておきたいと思います。

 たった30数年ほど前、私が勤めていた病院には40人部屋がありました。間仕切りはありましたが、小さな間仕切りですから40人のお顔は見えました。起き上がって食事をされている方の横で、おむつ交換をしていたんです。怒りにまみれましたね。40人の方は、ほほ寝たきり。そこに、若造の大した技術もない理学療法士の私が行って、ひと月で半分以上の方が歩きました。それは私の腕じゃないです。歩ける方が寝かされていたんです。それが、たった30数年程度前のわが国の世の中でした。

 皆さん、これをマイナスにとらえたくないんです。そのことを、たった30年で私たちは変えたじゃないですか。皆さんが世の中を変えたんです。

 また、ほんの10数年前までは、床ずれの方がいました。在宅訪問すると、褥瘡(じょくそう)のケースが数多くありました。もう悔しくて悔しくて、何で目の前で人がこんなことになっていくんやと思いました。だけど、それにもわが国は勝ちました。

 日本の行政はすごいと思う。ゴールドプランをつくって、その中で保健師を配置したり、訪問看護を頑張ったり、何よりも地域の皆さんを巻き込んだ活動があったからです。我々はやれるということを信じたいです。時代が変わったんですね。時代が変わって、それとともにケアが変わってきているということに我々は無頓着なんです。これは考えていくべきですね。だから、次、何を考えるかということが大事になってくると思います。

春日 キスヨ

 3人の方にお話を聞いて。コーディネート役を離れて、私もひとこと発言したくなりました。未婚化、晩婚化が進んでいる現在、皆さんの中には、単身の子どもと同居し、特にそれが息子である場合、炊事・洗濯全てで、子ども時代の関係のまま世話を焼き、子どももそれを当たり前として依存し続けている。また、夫婦関係において夫の世話をし尽くし、夫もそれを当然と思っている。そういう関係で日常生活を送っておられる方はおられませんか。しかし、こうした関係は、世話をする側が、ひとたび認知症になるなど状況が変わったときに危機に対応できない家族関係でもあります。かつての子だくさんの高齢者の場合には、いざという時には別居する娘たちが交代で支援してくれたかもしれません。しかし、現代では男性家族員であっても共同生活者としての生活能力をつけていないと大変な時代になっているのです。

 現在のように高齢者夫婦世帯、さらには未婚の成人の子と同居する高齢者が増大している時代においては、女性が家事や世話役割を担い、男性がその世話を受けるという役割分業ではなく、家族員一人ひとりが共同生活者として暮らしを共に担っていく、そういう関係性が重要になっています。そうでないと、世話役割を担った女性が倒れ、夫や息子にそうした力が備わっていない場合、ネグレクトや身体的暴力というかたちの高齢者虐待問題に転じかねない部分があるのです。

 家族員一人ひとりが家事をする力をつけ、地域につながる力をもち情報を集め、社会につながり自らの暮らしを維持していく、そうした力をもつことが必要な時代になっているのです。

 では、家族でもこうした変化が生じているこうした時代に、福祉の現場ではどのような変革が行われ、何が求められているのかを伺っていきます。

今、何が求められているのか

市川 禮子

 特別養護老人ホームあしや喜楽苑を建設するにあたって、福祉は暮らしを支えることであり、暮らしこそ文化だと思いました。ですから、文化に値する質の高い福祉実践をするべきだと。そのためには入居者の方に、はい、これをやりましょうという幼稚園のようなアクティビティ(活動)ではなく、それぞれ、ご自分がやりたいと思うことをしていただきたい、いい文化や芸術も享受していただきたい、そう思いました。そして、高齢社会なんだから地域の高齢者施設が地域の文化の拠点になるべきだと思いまして、定礎に「福祉は文化」と刻みました。高齢社会では、高齢者施設が地域の皆さんの要望にこたえるような広い活動、言いかえれば福祉のまちづくりに寄与しなければいけないという思いがあります。現在あしや喜楽苑にある地域交流スペースやギャラリーには、1か月延べ4千人の人たちが出入りしています。

 また、全室個室・ユニットケアのけま喜楽苑は、制度上は特養ですが、私たちは地域のケアつきの住宅だと位置づけています。住宅は住んでいる方が主人公です。職員が主体になってケアを行うのではなく、客体になってその方のできないことをお手伝いするという気持ちで接します。定礎には、一人ひとりが自宅にいた時と同じ生活ができるように、これまでの生活をつなぐという意をこめて「つなぐ」と刻みました。

 私たちの法人は住民運動でできた法人ですから、お金持ちはいません。介護報酬も全国統一です。特別の財源はなにもないのです。でも、法人が運営する4つの特養を建設するときには、どうすれば高齢者が住みやすい環境になるのか、あるいは、生き生きとした生活展開ができるのかということを議論し、設計、設備、備品などハードの部分でもさまざまな工夫をいたしました。そういう思いをもって工夫をすれば一般的な特養に少し上乗せするくらいのお金で結構良い建物ができるものです。皆さん方には、自分たちが望む在宅福祉サービスや入居したい施設をつくってほしいという要望を、ぜひ地域住民の運動にしていただきたいと思います。一般的には、介護保険事業計画に沿って行政が福祉施設を建設する法人を公募しますから、行政に働きかけて住民の要望を応募条件にしてもらうと良いのではないでしょうか。私たちも、新しい施設を建設する際には何度も地域に入り、大小の集会を経て地域住民の意見を大切にして建設してきました。そして、そのような経過が開設後すぐに地域との関係が密になるという効果を生みだしてきたように思います。

春日 キスヨ

 今の市川さんのお話を、そんな理想的な園があって関西はいいねというかたちで聞いてしまうのではなくて、こうした実践が住民運動に支えられていることを私たちは非常に重視すべきだと思います。それがきらくえんの実践の大きな理念を、家族会や地域のボランティアというかたちの地域の力が支えているという事実です。そして、そうしたところを皆さんそれぞれの生活の場に持ち帰っていただきたいと思うんです。

尹 基

 我々の故郷の家は老人ホームですが、地域の保育所とつなぐ、地域の障害者施設の方々が相談に来ても、つなげることはできると。ところが、縦割り行政で訓練されてきた日本人はまじめだから、老人以外の相談を受けたりすると、何か間違ったことしているように思われる。そうではなくて、地域をどうつなげていくかという、施設の方々も、働く人も、念頭に置いて仕事していくべきじゃないかなということを強く感じました。

 韓国人の老人ホームをつくるとき、制度の壁がありました。前例がない。措置制度では無理だと。また、「尹さん、いいことはやってもいいけれども、みんな韓国連れていってやってよ」とか、あるいは、在日すら「我々は儒教の精神の塊だから、自分の親を施設に預けるなんて考えることもできない。故郷の家ができても、預ける人は一人もいないだろうから、無駄なことはやめてくれ、意識からちがう」そう言っていた人たちが今、私に「あんたは先見の明があったね」とか、言い始めて、故郷の家に入りたい、入りたいと。故郷の家は400人が待機して、1年に10人ぐらい入れても、40年間待たなきゃならない。東京大学に入るよりも故郷の家に入るのが難しい。

 2000年度の厚労省の社会的援護を要する人々のための新しい福祉のあり方の検討会で私が一つ申しあげたのは、各県に一つずつワンストップサービスセンターを設けることです。名前は外国人総合サービスセンターですが、ワンストップとは、教育の問題は西に、税務署の関係は東に、保健のことは南に、福祉のことは北にと、ここに住んでいる人に聞いても、どこを訪ねていけばいいかわからない。バスをおりて、そこへ行けば、総合的に聞くことができる、そういうサービスをすれば、どんなに喜ぶだろう。そこに国別に外国語ができるボランティア通訳を置けば、とても合理的にできるのではと提案しました。

 外国に住むということは、肩身の狭い思いをしながら暮らしているんです。ですから、故郷の家ができたときに、在日の人が訪ねてきて必ず言うのは、世話になるか世話にならないかわからないけれども、我々も老後になって行けるところがあるその安心がうれしいということを言っておられました。そして、実際に生活をしてみると、言葉の問題で、他の施設では言葉が通じなかったことで、大変つらい思いをしたが、故郷の家に来て、自分の母国語が話せる。大抵普段は日本語です。怒るとき、韓国語です。困ったことを言うとき、本音が出るときは、韓国語が出る。私も27年日本暮らしをしているが、医者の前に行くと緊張して韓国語しか出ない。こういうような外国人の肩身の狭い思いということも配慮すべきではないかと思います。

 故郷の家のキーワードは文化です。民族は文化です。日本の文化もあれば、韓国の文化もある。車いすに座ってるおばあちゃんが、アリランのメロディーが聞こえると踊ろうとする。その踊ろうとする気持ち、そうさせるのはやはり文化であるということを、私も職員たちや訪問の方々にも強く伝えていることは、生き延びる福祉から、楽しく、安心して暮らせる社会をつくっていくことが必要です。しかし、みんなが夢をもつとき、その地域が変わります。社会が変わります。山が動くのです。ですから、私は、役所がしてくれない、地域にそういう施設がない、ということではなくて、何を必要としているのかというニーズを発見することが大事だと思うのです。それを、みんなに、呼びかけることが必要だ。呼びかけるのは迷惑ではないのです。日本人のまじめさで迷惑をかけるんじゃないかなと、みんな動きが止まってしまっているのですが、こういう問題がありますと地域に呼びかける。必ず関心のある人たちから連絡があります。その人たちと話し合えば、方法はいろいろあります。そして、その参加した人たちが、一緒にその問題を解決していくと、それは地域住民がつくる福祉だと、私はそう思っております。

 ソーシャルワーカーの仕事は、テレビのドラマをつくるプロデューサーと一緒だと思います。このごろ国民がどんなものを望むか、だれを使ったらよく見てくれるか、だれを演じたらいいかを考えるように、ソーシャルワーカーも、同じです。地域でまちづくりにかかわって、よりよい地域社会をつくっていく、その気持ちを大切にして、参加した人が良かったと思うようにすすめるのです。そうすれば、人も金も集まります。ニーズがあれば必ず実現できます。

備酒 伸彦

 時代変わりましたから、変わったということを知りましょう。これは特に、ケア現場、あるいはリハ現場の連中には強く言いたいです。リハケアばかりやっていても、そんなのもう市民は求めていません。一昔前のケアは、傷をつくらない、傷を治す。これは実は求められていたんですよ。だけど、今はそれが約束されて当たり前になりました。極めて多様性が広くなりましたから、そういう意味では、我々も含めた市民が必要なんですよ。専門家だけの領域ではないということもご理解いただきたいと思います。何よりも実際にやっていくとき、この普通であることの大切さ。ケアというのが特殊なものであってはだめだと思いますね。

 「決定の自立」は物すごく大事です。行為というのは、立つとか歩くとか座るということでしょう。だけど、人間である以上、立とうと思う、座ろうと思うと決めてるんですよ。これ大事なんです。決定の自立が奪われた人間ほどつらいのはないですよ。例えば、1週間前までけなげに家でひとり暮らしをしていたおばあちゃんが、特養に入って1週間になったら抜け殻のようになってしまいました。何遍も見たことあります。何々様、お食事の時間でございますと言われて車いすで連れていかれ、いきなりエプロンをつけられる。何ですか、これはと。福祉って、やっぱり考え直さないといけないですね。

 一番実は言いたかったのは、今は、生活機能ノットイコール身体機能です。

 例えば、パーキンソン病で、ちょっと動くと心臓がどきどきする。糖尿病もあるし、変形性のひざ関節症も痛くて、床から立ちあがるのに1、2分かかる。普通に考えれば、自分の部屋と寝室を行き来するぐらいの暮らしだと思いますが、保健師が自宅に訪問したとき、こんにちはと声をかけても、5分ぐらい出てこられないから、気になって家へ上がっていくと、ちょうど出てこられて勝手に上がってくるなと怒り、へルパーさんがぴかぴかに磨いた台所で、私はこうやってご飯つくっているのやと主張する。血圧が上がったけれど私の体どうなんやと食いつくほど具体的に聞いてくる。あげくの果てに、あんたら優しかったと土産を包んでくれる。すなわち、生活機能と身体機能は絶対イコールではないのです。

 だって、このような状態であったら、寝たきりに近い方、現にいらっしゃいます。

 すなわちいろんな要素があるということです。特に今は、皆さんが、適切なケア、ご自身の意欲というのにちゃんとスポットを当てることができる時代をつくったんです。

 最後に、83歳で脳卒中を煩われて、病院に3か月入院され、家に帰った後寝たきりになった方の例ですが、だれが行っても動かない状況でした。僕も行き体のチェックをしました。僕の結論は、今すぐでも絶対歩けるはずだと。スタッフは、廃用性の機能低下という、使わないがゆえにだめになるのが気になりましたので、1週間もしないうちに集まって議論しました。結論はすぐに出ました。

 彼は、但馬牛を60年来繁殖してきた人でしたので牛小屋に行こうということになりました。ただし我々は、3か月寝てた彼を、牛小屋に連れていって体が大丈夫かどうかの確認をしました。それから、家族間に変なひびが入らないかという確認を、家族でゆっくりディスカッションしました。また、我々自身に継続的にサービスを提供する能力があるのか、ずっと牛小屋まで一緒に行けるのかも確認しました。全部OK。僕、一番いい役で、まくら元で、何々さん、牛小屋に行きませんか、と言いました。彼は一発で起きました。それで、忘れもしませんけど、立ち上がって、柵をもって、こんな手は要らないとおっしゃっていたその右手で、牛の頭40頭全部たたいていったのです。それからは、訪問リハビリは、毎回牛小屋になりました。リハビリの「リ」の字もしませんでした。だけど、ほぼ彼は生活が自立して、3年半ほど牛と楽しく遊んで、すぱっと逝きました。

 ただ、皆さん、これ裏返して考えてください。恐怖じゃないですか。もし私がずっと行って、決まりきったリハビリをしていたら、この人どうなっていたのでしょう。だから、僕は彼のことを忘れないために、牛小屋づくりというキーワードをつくりました。ケアというのは、牛小屋を見つけてつくることの支援なんです。それぞれの個々には、たくさんの牛小屋があるんです。それをあきらめておられたり、実現する方法がわからなかったりする、それをいろんな人が支えたらいい。そのためには、いろんな見識、いろんな専門性が要る。できれば、最後に市川さんがずっと繰り返しておっしゃっているように、やったことを具体的に汎化して説明することをやっていく。それで教科書ができれば、多分すばらしいものができるというのが私の思いであります。

人の話を聞く力をもつこと、そして、分かち合う文化を一人ひとりが日常の生き方の中でもつこと

春日 キスヨ

 3人のパネラーの方が、私たち一人ひとりがどう生きたいかという自分の意向をもつことの重要性、そして、それが社会を変える力であり、時代の必然である、と語ってくださいました。それはまた、知ることから始まり、人とつながる力、すなわち人の話を聞く力をもつことでもあるとも語っていただきました。それは、分かち合う文化を一人ひとりが日常の暮らしの中で培っていくことの必要性に他なりません。

 今日は3人の方にすばらしい実践を語っていただきました。一人ひとりがつながり頑張れば今よりは事態はよくなる、私が決意し変わることによって社会は変わる、という確信を、お話から私たちは与えていただきました。会場にお集まりの皆さん、それぞれの地域に帰られましたら、ここでの話を歩みへの第一歩として、まず、皆さんの夫や子どもとの関係から始め、地域や社会との関係を変え、時代を切り開いていくスタート地点にしていたければと思います。どうか、皆さん、お元気で。

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