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陶邑窯跡群

更新日:2022年1月27日

陶邑窯跡群の写真調査中の高蔵寺66-2号窯

陶邑窯跡群

 日本の焼きものの生産地と言えば、有田、備前、丹波、美濃などを思い浮かべる人が多いと思います。しかし、これらの焼きもののルーツとなる須恵器(すえき)が、堺市の泉北ニュータウンを中心に西は和泉市・岸和田市、東は大阪狭山市の東西15キロメートル、南北9キロメートルにおよぶ泉北丘陵一帯で大規模に焼かれ、各地に運び出されていたことは意外と知られていません。

 わが国で須恵器生産が始まったのは、今から約1600年前の古墳時代にさかのぼります。新しい焼きものの技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、泉北の地にも根をおろし、平安時代までの約500年間で600基とも1000基とも言われる数の窯が築かれたのです。これらの窯跡群は、『日本書紀』に書かれた古い地名の「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられました。

 昭和30年代泉北丘陵一帯でニュータウンの建設工事が計画されました。その開発工事の前に窯跡の分布が調べられ、そのうち多くの窯跡が、大阪府教育委員会により発掘されました。ここに千数百年の時を経て日本最大の須恵器生産地が姿を現したのです。

須恵器を焼く窯の構造

 最古の縄文土器は、焚(た)き火(び)で焼かれ、弥生時代を経て土器作りの技術は古墳時代の土師器(はじき)へと受け継がれました。しかし、いくら焚き火に薪(まき)を多く燃やし、長時間土器を焼いたとしても、須恵器のように硬く灰色をした焼きものになることはありません。須恵器を焼くには窯が必要で、窯内の温度を徐々に上げ高温で焼いた後、酸素を絶つために窯をふさがなければなりません。窯は、斜面を掘りくぼめ細かく切った藁(わら)などを混ぜた粘土で天井を覆い、細長いトンネルを造ります。窯の構造は、下から薪を入れる焚(た)き口(ぐち)、薪を燃やす燃焼部(ねんしょうぶ)、土器を焼く焼成部(しょうせいぶ)と煙を出す煙道(えんどう)に分かれ、燃焼部で燃やされた炎が斜面を上り、効率良く熱が焼成部に伝わるのです。窯の長さは約10メートル、幅は約2メートルで、内部の高さは1.5メートルぐらいです。焚き口の前には、燃焼部から掻き出された灰や薪の燃えカス・焼いている時に割れたり、変形して捨てられた須恵器が積もった灰原(はいばら)が広がります。

須恵器

須恵器の特徴

 須恵器は、土師器とくらべてじょうぶで水をもらしにくいという長所がありますが、直接火にかけると割れてしまうため、煮炊きに使用することはできません。煮炊きには土師器を使いました。

種類

 須恵器の種類はその特徴を生かして液体や固形物を貯えておく甕(かめ)や壺(つぼ)の他に食物や供え物を盛る蓋坏(ふたつき)・高坏(たかつき)・椀や水筒のような形をした提瓶(ていへい)・平瓶(へいへい)、液体を注ぐ穴をあけた はそう のほかに壺をのせる台の器台(きだい)などがあります。

壺 高坏 把手付きわん 提瓶・平瓶 ほそうの写真

つくる

 須恵器はロクロを使用して作られました。甕や壺などの大型品は粘土紐を巻き上げ、内面に当(あ)て具(ぐ)を当て外面を叩(たた)き板(いた)で叩き締めて作ります。その当て具と叩き板が日置荘(ひきしょう)遺跡から見つかりました。

同心円当て具と甕内面に残る痕後(左上)。平行叩き板と甕外面に残る痕後(左上)と叩き板と当て具の使用例(右)

かざる

 最古の須恵器の外面には、幾何学的な文様で飾られたものもありますが、壺などには波状文などの簡単な文様で飾ります。器台は馬や人をかたどった飾りつけるものもあります。

器の変化

 須恵器は時とともに形が変化しています。蓋坏を例にみてみましょう。

泉北丘陵周辺の遺跡と古墳

 泉北丘陵の周辺では、須恵器生産に関係する遺跡が発見されています。石津川流域では深田橋(ふかだばし)遺跡、陶器川・前田川流域では陶器南(とうきみなみ)遺跡・辻之(つじの)遺跡・田園(たぞの)遺跡があります。これらの遺跡に共通していることは、倉庫と考えられる建物跡や不良品の須恵器がたくさん見つかっていることです。このことから、焼きあがった須恵器を運び込み、良品と不良品に選別した後、倉庫で保管され河川などを利用して出荷する集積・出荷センターの役割があったと考えられています。工房(作業場)としての性格をもつ遺跡は今のところ報告されていませんが、集積・出荷センターの役割のほかに工房を備えていた可能性がある遺跡として石津川流域の大庭寺(おおばでら)遺跡、伏尾(ふせお)遺跡、豊田(とよだ)遺跡などがあります。また、西除川流域の丈六大池(じょうろくおおいけ)遺跡では、100基を越える粘土を採掘した穴が発見されています。こうした遺跡の近くには須恵器生産に関係した首長や集団の長クラスの人たちが葬られたと考えられる湯山(ゆやま)古墳・陶器千塚(とうきせんづか)・牛石(うしいし)古墳群・檜尾塚原(ひのおつかはら)古墳群などがあります。窯や集積・出荷センターと考えられる遺跡は、10から100年という期間でその働きを終えています。

 須恵器を焼くには大量の薪を必要とし、森林がなくなった時点で新しい場所に移動していたのでしょう。貞観元(859)年河内と和泉の国の間で、須恵器を焼くための薪を切り出す山をめぐって起こった「陶山の薪争い」が『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に書かれています。この事件から平安時代にはかなりの森林が不足していたことが分かります。長年の須恵器生産が丘陵から森林を奪い、須恵器を焼くことができなくなったことも陶邑の須恵器生産が終わりを迎え、歴史の表舞台から姿を消してしまった理由のひとつと考えられます。

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