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ここがスゴイよ堺の偉人!

更新日:2021年6月9日

堺の歴史を語るうえで欠かせない偉人といえば、千利休、与謝野晶子、行基、河口慧海・・・・・・などなど枚挙にいとまがないが、果たして私たちは、そんな偉人たちのことをどれぐらい知っているのか?
その人生の中で、どのようなことを成し遂げて歴史に名を残したのか、堺とはどのような縁があったのか・・・などを検証し、堺の偉人の深い人物像を浮き彫りにします。

知の偉人 与謝野晶子

現代にも通じる普遍的なメッセージを発信
明治11年(1878)-昭和17年(1942)

  • 情熱的に恋愛を歌い上げ、新しい詩歌の世界を切り開く
  • 「君死にたまふことなかれ」
  • 新しい世界との出会い 夫・与謝野寛とヨーロッパへ
  • 子育ての経験から教育の実践へ

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仏の偉人 行基

終生、民衆の救済に身を捧げた僧侶
天智天皇7年(668)-天平21年(749)

  • 実は三蔵法師の孫弟子!?
  • 仏教を民のものに
  • 東大寺の大仏造立にも貢献
  • 全国に点在する行基開基と伝わる寺院

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茶の偉人 千利休

戦国大名がこぞって心酔した茶聖
大永2年(1522)-天正19年(1591)

  • 秀吉から3000石の禄を賜った大茶人
  • 一輪の朝顔で、秀吉を魅了
  • 商人であり茶人である利休を、名将達が師と仰いだ
  • 利休の号は天皇から与えられたもの

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探の偉人 河口慧海

5000mの峠を越え、真の仏教を探求した巨人
慶応2年(1866)-昭和20年(1945)

  • 飽くなき探求心で仏教の源流をめざす
  • 日本人として初めてヒマラヤを越え鎖国下のチベットへ入国
  • チベットでは医師としても大活躍!?
  • 仏教界だけにとどまらないチベット旅行の多大な成果

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知の偉人 与謝野晶子

現代にも通じる普遍的なメッセージを発信
日本を代表する歌人・与謝野晶子。現在の堺市堺区甲斐町西にあった和菓子商「駿河屋」の三女として生まれ、22歳で上京。歌の師である与謝野寛(鉄幹)と結婚して12人もの子どもの母となりました。歌人として有名ですが、その活動は詩歌にとどまらず『源氏物語』の現代語訳や社会問題、教育問題にかかわる評論など、その表現世界の幅を広げていきました。特に評論文は、現代にも通じる普遍的なメッセージを発信し続けています。

  • 明治11年(1878)-昭和17年(1942)

ここがスゴイ!

情熱的に恋愛を歌い上げ、新しい詩歌の世界を切り開く
のちに夫となる与謝野寛が創刊した文芸雑誌「明星」に作品を発表するようになった晶子は、22歳で上京し、寛と結婚。第1歌集「みだれ髪」では、寛との恋愛を新しい感性で歌い上げ、その歌風は文学界に大きな影響を与えました。

(左)結婚前、「鳳晶子」の名で発表した「みだれ髪」の初版本。表面装丁は藤島武二によるもの

ここがスゴイ!

「君死にたまふことなかれ」
明治37年、「明星」に掲載された「君死にたまふことなかれ」は、日露戦争に出征した弟の無事を願って詠んだ詩。戦時下ということもあり、その内容は大町桂月から非難を受けましたが、晶子は、「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき」と反論しました。

ここがスゴイ!

新しい世界との出会い
夫・与謝野寛とヨーロッパへ
明治45年、晶子は夫・寛を追いかけるようにヨーロッパへの旅に出発。活動的で個性豊かな西洋の女性の姿を見た晶子は、自律的な生き方を発見し、帰国後、日本の社会問題や教育問題を海外の目を通して積極的に論じるようになります。

(左)夫・与謝野寛と

ここがスゴイ!

子育ての経験から教育の実践へ
12人の子どもの母だった晶子は、長年にわたる子育ての経験を活かし、より実践的な人間教育へと活動の場を広げていきます。大正10年、晶子と寛は日本初の中等教育過程における男女共学制を導入した私立学校「文化学院」の創立にかかわり、個人の創造能力を自由に発揮できる人間教育をめざしました。

最後に・・・

与謝野晶子の生涯は限りなき挑戦の連続でした。常に前向きに生き、新しい世界に挑戦し続けた晶子の生き方は多くの人の心を捉えたことでしょう。また、海外旅行や12人の子育てといった実体験に基づいた晶子の評論には、現代にも通じる普遍的なメッセージが込められており、時代を超えて今なお共感を生み、現代に生きる私たちを勇気づけてくれます。

仏の偉人 行基

終生、民衆の救済に身を捧げた僧侶
まだ仏教が民衆のためのものではなかった奈良時代。行基は一般の人々のために仏の教えをやさしく説き、近畿各地にのちに「行基四十九院」とよばれる寺院を建設するとともに、人々の生活を向上させるべく、「布施屋」と呼ばれる無料宿泊所の建造、池の築造や架橋工事などを行いました。一時は朝廷に禁圧されますが、次第に多くの民衆を率いて慈善事業を行う行基の活動が公に認められるように。最終的に行基は多くの信者を率いて聖武天皇発願の大仏造立に協力し、大僧正位を授けられました。

  • 天智天皇7年(668)-天平21年(749)

ここがスゴイ!

実は三蔵法師の孫弟子!?
天智天皇7年に現在の堺市西区で生まれた行基。24歳の時に受戒し、僧侶として奈良の薬師寺に学び、仏道を歩み始めます。師である道昭(629~700)は遣唐使の一員として唐へ渡り、『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘に師事した人物です。

ここがスゴイ!

仏教を民のものに
当時の仏教は、天皇中心の国家を支える役割を担っていました。僧はいわば国家公務員であり、官大寺において国の安泰を祈るのが務めでした。行基はこのあり方に疑問を抱き、官大寺を出て一般の人々に仏の教えを布教してまわりました。行基は自分を慕う人々とともに各地に40を超える寺院を作り、「布施屋」と呼ばれる旅行を強制された人向けの無料宿泊所の立ち上げや池の築造、架橋に尽力し、人々の生活がよりよくなるよう努めました。

(左)水賀池(中区)は行基が数多く手がけた土木事業の一つ

ここがスゴイ!

東大寺の大仏造立にも貢献
官大寺を出て人々に布教し、多くの民衆を率いて慈善事業やインフラ整備を進めていく行基の行いは、国の方針に背くとして当初禁圧されたものの、徐々に国にも認められることとなりました。天平15年には、行基は弟子たちを率いて聖武天皇発願の東大寺の大仏造立に加わり、人々に協力をよびかけました。そうした功績が認められ、行基は日本初の仏教界の最高位「大僧正」を授けられることになるのです。

(左)大野寺跡から出土した「神亀四年」の銘が入った軒丸瓦

ここがスゴイ!

全国に点在する行基開基と伝わる寺院
現在、日本全国に行基が開基したとされる寺院はたくさんあります。中には弟子たちやその威光にあやかろうとする人によって造られたものもあるようですが、それだけ行基が民衆に愛され、慕われていた証といえるでしょう。堺市内には生家を寺にした家原寺(西区)、母の実家を寺にした華林寺(中区)、高倉寺(南区)や大野寺(中区)など、行基が建立したことが確実な寺院やゆかりの場所が多くあります。

最後に・・・

常に民衆を見つめ続け、救済を行った行基。その行いは、国すらも動かしました。人々は尊敬の意を込めて「行基菩薩」と呼んだといいます。行基が造立に大きく貢献した東大寺の大仏は、これまで二度の焼失に遭ったほか、幾度となく損傷し、その度に修繕の手が加えられています。残念なことに行基は大仏完成の3年前に亡くなってしまいますが、行基の活動は鎌倉時代に大仏を復興した重源や、数々の慈善事業を行った叡尊、忍性らをはじめとする多くの僧侶たちに影響を与え、現在でも信仰の中で生き続けています。

茶の偉人 千利休

戦国大名がこぞって心酔した茶聖
堺の町で豪商の「魚屋(ととや)」の息子として生まれた千利休。堺の豪商としての教養を身につけるため、16歳で茶の湯の世界へ。戦国の世の真っ只中、堺を制圧した織田信長は利休を茶頭として重用し、数々の武将が利休に茶を教わりました。とりわけ豊臣秀吉とは密接な関係を築くものの、後年、二人の関係は悪化し、利休は秀吉から切腹を命じられます。悲劇的な最期を遂げた利休ですが、その生涯に遺した茶の湯の精神は今もなお脈々と受け継がれています。

  • 大永2年(1522)-天正19年(1591)

ここがスゴイ!

秀吉から3000石の禄を賜った大茶人
堺の有力商人「納屋十人衆」の一人を父に持ち、豪商の魚屋に生まれた千利休。町人ながら織田信長、豊臣秀吉らに召し抱えられ、天正15年には3000石の禄を賜るまでに。

(左)椿の井戸が残る屋敷跡(堺区)

ここがスゴイ!

一輪の朝顔で、秀吉を魅了
利休の庭に朝顔がみごとに咲いていると聞きつけた秀吉。咲き競う朝顔を期待した秀吉が見たものは、花が切り取られた後の庭。しかし、ただ一輪、茶室には見事な朝顔が飾られていました。一輪だからこそ美しさが際立つ。その美意識に秀吉は嘆息したといいます。

ここがスゴイ!

商人であり茶人である利休を、名将達が師と仰いだ
利休は、細川忠興、蒲生氏郷、古田織部、前田利家などそうそうたる人物を弟子としています。これは信長が提唱した、茶の湯を政治に利用する御茶湯御政道によるもの。一流の大名となるためには茶の湯の教養が必要であり、その第一人者である利休は、多くの武将に師と仰がれたのです。

ここがスゴイ!

利休の号は天皇から与えられたもの

「千利休」の本名は田中与四郎で、人生の大半を宗易の名で過ごしました。利休の号は、宮中で茶会が開かれた際、町人の身分では参内できないため正親町天皇から下された号です。

(左)利休と茶の湯文化について学ぶことができるミュージアム「さかい利晶の杜」(堺区)

最後に・・・

現在では、風流な嗜みとされている茶の湯。しかし、利休の生きた時代の茶の湯は、豊かな財を持つ大名や商人たちが自らの持つ茶器を競い、また独自の哲学や思想を組み入れ、美意識を追求する一流の文化でありエンターテインメントでした。今に通じる侘び茶を完成させた利休は、いわば文化&空間の名プロデューサー。生誕から500年近く経った今でも、その哲学は日本の美意識にしっかりと根付いているのです。

探の偉人 河口慧海

5000mの峠を越え、真の仏教を探求した巨人
現在の堺市堺区北旅籠町に生まれた河口慧海は、東京本所の羅漢寺で得度し僧侶となります。しかし、経を読む生活を送るうちに、慧海の中に漢訳された仏典に対する違和感が生まれるように。「より原典に近い仏典に出会いたい」その思いを抑えきれない慧海がめざしたのは、標高5000mのヒマラヤの峠を越えて辿り着くことができる仏教の聖地、チベット。現在のような登山の技術も道具も確立していない明治時代に、外国人の入国を禁じる鎖国政策真っ只中のチベットへ。慧海は命がけの旅を敢行しました。

  • 慶応2年(1866)-昭和20年(1945)

ここがスゴイ!

飽くなき探求心で仏教の源流をめざす
そもそも仏教とは釈迦の教えであり、その教えを明文化したものが経典です。日本では中国語訳された漢訳経典が一般に流布していますが、訳者により意味にばらつきがあることに気づいた慧海は、漢訳経典の原典とされる梵語(サンスクリット語)経典や、チベット語訳経典を求め、当時、鎖国政策を敷いていたチベットへの極秘潜入を計画します。

(左)書簡や日記など慧海の思想や人柄を伝える資料の数々

ここがスゴイ!

日本人として初めてヒマラヤを越え鎖国下のチベットへ入国
外国人と分かれば殺害されてもおかしくない状況下で、慧海はインドのダージリンでチベット語を学び、自らをチベット在住の中国人と偽ってネパールを経由して、ヒマラヤを越えることを決意します。チベットの服に身を包み、巡礼者からルートの情報を調べ上げ、関所をかわしながら進む慧海。峠の雪解けを待ち、国境を超えたのは明治33年。日本を出発してから実に3年の月日が経っていました。

(左)慧海が訪れたチベットのポタラ宮

チベットでは医師としても大活躍!?

チベット潜入後の慧海はセラ寺に中国人僧侶として入学し、寮生活を送っています。偶然とある人物の脱臼を治したことで、慧海は医師としてみられるように。最終的には法王ダライ・ラマ13世に拝謁することができたのです。これによりチベットの多くの上流人士の知己を得ることができ、慧海のチベットでの生活に大いに役に立ちました。

(左)チベットのケンポ(学堂長)の制服を着た慧海

ここがスゴイ!

仏教界だけにとどまらないチベット旅行の多大な成果
帰国した慧海は、その体験を新聞の連載記事や書籍『チベット旅行記』にあらわしました。鎖国下のチベットでの旅行記は仏教学者だけではなく民族学者、探検家にも高く評価され、英訳本も出版され世界にその名が知られることとなりました。二度目のチベット旅行を経て、戒律(僧侶が守るべききまり)が軽視される日本仏教界の現状を憂いた慧海は、僧籍を返上し、チベットでの学びを通して、世俗にいながら仏教の戒律を実践するウパーサカ仏教(在家仏教)を広める活動を展開しつつ、チベット語訳経典の和訳および蔵和辞典(チベット語・日本語辞典)の編纂事業をすすめていきました。

(左)慧海の著書「チベット旅行記」(堺市博物館蔵)

最後に・・・

宗教家であり探検家でもあった河口慧海。無謀とも言えるチベット行きを成し遂げたのは、なにより真実の教えを追い求める強い意志でした。梵語(サンスクリット語)経典やチベット語経典の和訳を続けながら慧海が志した蔵和辞典の編纂は壮大な構想がゆえに志半ばに終わってしまいます。慧海がチベットから持ち帰ったチベット語経典のほか、仏像、仏画、仏具、拓本、日用雑貨、衣類、装飾・工芸品、植物・動物・鉱物標本等はその多くが大変貴重な資料として各研究機関に収蔵されています。またネパールやチベットでは、慧海ゆかりの場所などに慧海の記念碑やプレートなどが設けられており、現在でも人々の尊敬を集めています。

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