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わたし流の生き方を考える ~法律・制度・文化の中のジェンダーを超えて~

更新日:2012年12月19日

コーデイネーター
斧出 節子(おので せつこ)
(華頂短期大学教授)
パネリスト
中村 正(なかむら ただし)
(立命館大学大学院応用人間科学研究科教授)
松田 聰子(まつだ さとこ)
(桃山学院大学法学部教授)
源 淳子(みなもと じゅんこ)
(関西大学人権問題研究室委嘱研究員)

「どこで、誰と、どのように暮らすか」は選択肢が増えました。結婚や出産、働き方などライフスタイルも多様化し、育児や介護を社会で支えることも広まってきました。冠婚葬祭などの慣習も一昔前とは様変わりしています。そしてそれらにかかわる制度や法律など社会のシステムも徐々に整いつつあります。わたしたちの社会は変わったのでしょうか?わたしたちの意識は??…変わったものと変わらないもの、そして変えていきたいものは何でしょうか?この分科会では自分らしくよりよく生きるために必要なもの、また今ここから始められることを、文化や慣習、法律や制度などさまざまな角度から考えました。

はじめに

斧出 節子

 きょうのテーマは「わたし流の生き方を考える~法律・制度・文化の中のジェンダーを超えて~」ということで、各分野でご活躍の3人の先生方にパネリストとしてお話ししていただきます。

 まず、この分科会でなぜこのテーマが取り上げられたのかについてお話させていただきます。この数十年の間に、ライフスタイルは非常に多様化してまいりました。例えば法律の面では、男女雇用機会均等法ができて以来、育児・介護休業法や男女共同参画社会基本法などさまざまな法律が成立してきました。育児休業の制度も随分前にできたのですが、男性が育児休業を取ろうとしても、実際にはほとんど取得できていません。それは、男性が稼ぎ手であるという意識がまだ残っているからです。また女性に関しても、出産で退職する女性というのは、むしろ昔よりも増えている傾向があります。一般に女性は社会進出してきたと言われますが、実はよくデータを見てみますと、多くの女性たちは出産を機にやめています。さまざまな整備がされ、変わってきた面もありますが、変わらないこともたくさんあるというのが現在の状況です。

 そのような認識のもとに、変わったもの、変わらないものは何か、これから必要なこと、今から始められることというのはいったいどういうことなのかを考え、最終的には参加者、すべての方一人ひとりがこれからいったい何ができるのかを考えることができる分科会にしたいという趣旨で、この分科会が設定されたと伺っております。

 では、それぞれのご専門の分野から、わたし流の生き方を考えるということでお話をしていただきたいと思います。

男性にとってのジェンダー

 私の関心は男性です。それは私が男だからということもありますが、男女共同参画や男女平等とかを実現する中に、男性自身をどう巻き込むかということに主な関心があるということです。

 男性問題は多岐にわたるテーマがあります。なかでも私の関心の一つは、暴力です。とくに加害者対策に関心があり、実践もしています。不十分なかたちでしかありませんが、DVと虐待をする男たちにグループセッションや個別の面談をしています。それからハラスメントの加害者への指導や、家庭内暴力というのはどうやって発生するのかなどを研究しています。政策的にも加害者、虐待者にむけての脱暴力のためのアプローチのあり方は模索中です。制度的には諸外国ではすでにカウンセリング、リハビリテーション、更生プログラム等、いろんな言い方はありますが、取り組みがあります。しかし日本では全く進んでいません。政治も変わりましたので、ぜひ政策化させていきたいと思っています。さらに人材育成も大事で、こういうことに関心をもってくれる専門家を増やさなきゃならない。例えば、弁護士会、裁判官などと一緒に研修して人材育成の取り組みもしています。

 ほかにも男性問題として、自殺があります。中年世代では男性が多いし、アルコール依存症も男性が多い。もっと一般的には、男性は結婚しないと一人前ではないと思っている人も多く、家族主義的な意識と自立感覚の問題がありますが、結婚難とでもいえる時代になると、男性のあり方の検討が必要となります。ずいぶん以前に、横浜の女性センターで開催していた「花婿学校」にかかわっていたことがあります。これを最近の若い世代を対象に再度体系的に実施してみたいと思っています。デートバイオレンスのことも組み込んで、ジェンダーのことなんかも当然常識にしてもらうためにです。「こうした良識がないとこれからは男性受難で結婚できません」と伝えたいのです。もちろん結婚することだけが人生じゃないので、結婚への囚われの意識や個人の人生ということも視野にいれて欲しいので、自分のために生きてほしいなとも思っているわけですけれどもね。

 その上で、私としては、男らしさを否定することなく、単に抑圧性、暴力性ということだけでもなくて、肯定的な男性性、男らしさというのをどうやって再構成できるかということに関心があります。画一的な男らしさ、あるいは押しつけられた男らしさ、こんなものをどう乗り越えていけるかという意味では、肯定的な男性性がどうあり得るかということについて、ぜひポジティブに示しながら自分らしく生きていけるような、そんなチャンネルが開かれればいいなと思って取り組みをしています。

 親密さの中の暴力ということでは、思春期・青春期暴力や虐待している親の多くは、自分が殴られてきた人たちも多いので、家族を通じた暴力の再生産、その連鎖をどう断ち切るかということも視野に入れています。

 あと、ケアの時代になってきまして、男性が介護を担うことになる場面が増えてきましたので、高齢者虐待、児童虐待の問題ということもやっています。

法律の中のジェンダー

松田 聰子

 私の専門は憲法学という分野です。憲法は13条で「すべて国民は、個人として尊重される」、14条で「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めています。そして24条で婚姻に関する平等の条文を定めています。

 ジェンダーという言葉に対して、頭では理解できるんですけれども、具体的な各論になるとそうではないという研究者、あるいは裁判官などの法曹によって、日本の法政策、法制度というのは支えられてきたという話を、今日はしようと思っています。

 憲法というのは日本の法体系の頂点にあります。その頂点のところに、個人主義や平等の条文があり、それに基づいて法律や命令がつくられていくわけです。憲法が制定された当初は、旧憲法下の男尊女卑の法制度が変わっていきます。家族制度、刑法、選挙制度などが変わっていきます。ところが、変わらなかったものがあるんです。

 墓・仏壇の相続は長子相続という慣習を民法が認めました。一方で、夫婦同氏制や協議離婚制度を認めました。夫婦同氏制なわけですから、どっちの氏を選ぼうと自由。それから協議離婚についても、別れるかどうかは2人で決めることになりました。これって平等ですか。かたちは平等に見えます。でも、男女の力関係が反映されるようなかたちで制度は動いてきました。

 二つの労働事件、結婚退職制の住友セメント事件と女子若年退職制の日産自動車事件をみてみます。憲法学はここに出てこないんです。両方とも女性が勝ちましたが、勝った理由というのは、憲法違反ではなく、民法90条に違反するんだというのです。

 なぜ憲法学は何もしてこなかったのか、理由があります。憲法というのは国家に対する国民の命令書です。だから、私たち憲法学者は、国家と国民の問題について研究しています。ところが、今お話しした住友セメントや日産自動車の問題は、実は市民間の紛争なんです。市民間のごたごたというのは私法という分野が管轄します。民法とか労働法が管轄をするんです。したがって、憲法はここには関係ないというスタンスをずっととってきたんです。つまり、憲法学は、市民間の平等や人権の問題には口を出さない、何も言わない。もし問題があれば、さあ、法律をつくってください、それは立法の問題ですよというふうにして丸投げにしてきたのです。

 確かに憲法には差別はしてはならないと書いてありますが、それは合理的な差別をしてはいけないと理解されてきました。その場合、一般社会の人がどう考えるかを基準にします。というわけで、一般社会が男性中心社会であった場合には、女性の意思がなかなか反映されにくいということがあります。

文化の中のジェンダー

源 淳子

 私の専門は、日本の宗教をやっています。今日の問題提起のところからいうと、文化の中のジェンダーを超えてということになると思います。私はその中の宗教、そこの文化を中心に取り上げていきたいと思います。

 日本の文化も変わってきました。変わってきたものの方がジェンダーの視点からいうと多いと私自身は思います。では変わらないものとしてどんなことが生活の中で挙げられるのか。家を中心にした冠婚葬祭にかかわるようなもの、焼香する順番とか、「男は食べる人、女はつくる人」という性別役割分業でなされたり、お弁当をとっても、お弁当を配ったりお茶を出すのは、やっぱり女性たちがやっているんじゃないかと思います。

 そして一番大きな問題は墓、長男が継ぐ、長子が継ぐというかたち。今でも地方に行くと、若い女性が長男と結婚したくないというのが多いことに関係すると思います。

 結婚式も大きく様変わりしました。ところが、ホテルでの結婚式披露宴を見ていますと、まだ何々家と何々家の披露宴というように、家制度的なものが残っている。母は、「結婚したら妻らしく、あなたたちが生まれたら、母らしくきちんと生きていこうと思った。そういうたぐいのものは、毛の穴から入っていくように入ってきた」と言ったんです。私たちの中にジェンダーというのは、毛の穴から入っていくようにしみついていると思います。

 宗教や習俗や慣習として残っている女人禁制の問題で、奈良県にある「大峰山」という女性が入ることができない山があります。では女人禁制の意味とは何か。宗教が絡んでいますので、神聖性が強調される。穢れている女性は入ってはいけないという意味があります。そういう意味では、女性がはっきりと排除されているという意味だと思います。

 そして、穢れにかかわる当事者として触穢という考え方が出るんですが、死穢・産穢・血穢(月経、生理)です。そのことを穢れとしました。誰から伝わったのか。母から、または祖母から、または「姑」からという、そういうかたちでまだまだ伝わっているところがあるのではないかと思います。非日常生活の中で宗教の影響を受けながら、非日常だからこそ問題にしにくい。また、この日が終わったら日常の生活はちがうからということで声をあげにくいようなかたちで影響をもたらしたのではないかと思っています。

斧出 節子

 次に、課題の解決に向けてということでお話をいただきたいと思います。

男らしさとは

中村 正

 暴力は、長い間、家父長制やそのもとでの習慣をとおして、家族をとおして再生産され、男性性としてよろいをまとう中のアイテムとして身につけてきた、そういう意味では学習の産物です。よろいであれば脱ぐことができるということです。暴力や攻撃性を伴う行動特性が男らしさにあるとすると、それを「そぎ落としていくこと」が当面大事かなと思っています。暴力によるコントロールは本当の意味での男らしさではないということを言い続けているわけです。

 処罰だけでは人はなかなか変わりにくいので、ポジティブ・アシスト、こうすればどうですかということを提案し、男性たちの生活という実践に定着してもらう必要があります。

 そのために、私は、お父さん子育て塾をやっています。虐待する親で、子どもが児童擁護施設に入所している保護者に対して、子どもとの再統合生活を目標にいろんな気づきやコミュニケーションの練習をする「道場」です。たとえば、感情がなかなか表現されない人が多いので、人の顔でたくさんの感情表現をしたイラスト式の「感情カード」を用いて感情を言葉にし、それで自分の感情に気づいていく、それは相手の感情にも気づくということです。また、怒りが昂じていくコミュニケーションと対話を促進させるコミュニケーションの練習をします。人を批判するときには大体「YOUメッセージ」が多いです。「おまえは、おまえは」という主語が「あなた」なのです。「あなた主語」は対立を深めますと指摘します。「Iメッセージ」の方法を伝授します。「私は怒っています。」と「私」を主語にしてくださいという転換をしてもらったりしています。

 また、暴力から被害にあっている女性や子どもをかくまうシェルターがありますが、男性の加害者や虐待する親をどこかにシェルター化するということも提案しています。これを私は「メンズ・ハウス」と呼んでいます。男性にそこに来てもらって、そこから仕事に行ってもらう。「メンズ・ハウス」に帰ってきてもらったら、夕方からグループワークを始めます。できればみんなで料理教室をして自立の練習もします。そこにはハウスマスターが要ります。こういう問題についての知識をもった女性たちにも来てもらい、コミュニケーションの練習をしてもらうとよいのではと構想しています。これはドイツやオーストラリア等にすでにあります。暴力とかギャンブルとか、そんなことで男らしさを競うんじゃなくて、男らしさが親密さということをどう獲得できていくかということなんですよね。そこからジェンダーのことを身につけた最先端の男が出てくるといいですよね。

立法過程にもっと女性を

松田 聰子

 合理的基準という話に関連して、二つの裁判を紹介してみたいと思います。今でも、一般職・総合職というかたちで、間接的に男女別にはなっていますが、均等法ができるまでは、男性は男性職、女性は女性職で採用されて、女性は補助的な職種に就くものとされてきました。すると退職を迎えるときになって退職金がちがうんです、安い。同期の男性と同じぐらい働いたのだから、その差額を求めて裁判を起こすわけです。ところが、裁判所はどう判断するかというと、均等法以前にいわゆる事務職で入った女性は、一生懸命働いたかもしれないけれども、その時点では、昇級昇格がほとんどない女性職で入った。それがその当時の社会の一般的風潮だったというのです。だから、均等法以前の差別は救済されない。これが裁判所の判決の理屈なんです。

 次に、事故に遭った場合の逸失利益です。どうやってそれを算定するかというと、賃金センサスといいまして、男・女の平均賃金から割り出すんです。平均賃金は、男100で女は60です。最近裁判官の中には、真ん中をとって80で両方計算しましょうということをやり始めた裁判官もいるんですが、実は裁判官もこれを法律で解決してくれればいいんだがなと、ちらっと言うんです。

 女の子が交通事故で顔がひどく傷ついたとします。その場合の慰謝料ですが、これは高くなって当然だと思いますか。これも今の裁判ですと、今の一般社会通念上、女は顔が命なんです。余り納得してもらったら困るんですけれども。裁判官は、私たちの一般通念をもとにしていると言います。こうやってずっと、差別を認める一般通念が再生産されていく、私たち学者はそれに加担しているわけですね。

 それをどうしたらいいかという話なんですが、その法政策の部分にジェンダーに敏感な人が加わるということが大事。何といっても、その立法過程に女性が参画することだと思います。国会議員、あるいは地方議員に、どんどん女性を送るべきだと私は思っています。それから、公務員に女性をもっと活用すべきでしょう。もちろん、それを育てることも必要です。種をまくように、いろんな分野に女性が参画して、その人たちがジェンダーに敏感な政策を立てていくということが必要なんだろうと思います。

 そして、学者が何をすべきかということですが、市民間の平等、男女の問題に憲法が直接割って入るような理論をつくっていかなくてはいけない。何とかそれをやっていきたいと思っています。

 最後に、憲法価値をここで再確認しておきたい。憲法というのは、個人の多様性を認める文書です。これを変えろというのは困るなと思っています。これを絶えず再確認し、行政とか立法の部分で生かしていく必要があるのではないかと思っています。

わたし流の生き方を考える ~法律・制度・文化の中のジェンダーを超えて~の写真2

知ること、気づくことの大切さ

源 淳子

 加害者ではないという男性たちの意識、多く被害者になる女性の意識の両方の意識が毛の穴から入っていくようにつくられたジェンダーの意識を自分が取り出して自分に問うていく。そこから自分たちの生活の中で問題があるということに気づいていくことが、私が考えることでできるかなと思います。

 デートDVを受けている学生さんが、女性の方が被害者なのに、「私が悪かったから、彼の言うことを聞かなかったから、これってDVですよね」と言うんです。わかるんです。授業でやったから。どうして被害者の方が自分を悪かったと考えてしまうのかと考えていくと、やっぱり長い歴史があると思うんです。

 相手に言えない性の問題。「彼に言うと嫌われるから、彼に言うと彼を傷つけるから」としてできあがったジェンダーです。まだ20歳前後なんですが、それでいて、もうつくられた女性の側のジェンダーを身につけています。そういうものを自分たちでもう一度見直していくのか、ジェンダー意識を乗り越えていくのかということを問題提起していきたいと思っています。

 ジェンダーは生活に浸透しているという感じがするんですね。そこに宗教的なものがかかわっていると、気がついても言いにくい。言ったら敵が多い。世間が許さない、社会が許さないという問題が多いんですね。「大峰山」の問題、祇園祭、岸和田のだんじりなど、日本の文化として男性中心の文化として行われているものが問題はあるらしいけど、私はかかわりたくない、知らなくてもいいというかたちであるんじゃないかと思います。

 そういう意味では、日本の中にあるこういう女性を排除するような場所、それから男性中心につくられた文化、そういうものをまずは知っていただきたい。そして、知ったうえで何が問題であるかということに気づいていただきたい。気づきというのが、ほんとうに大切だということに私自身が気づきました。気づくとしんどい問題ですね。私と向かい合わなければいけないから。私を問うということを行わなければいけないから。女性問題はそこが難しいと思うんです。

 気づいた次にどうするのか。わたし流というところで、私がどうするのか。公の領域の文化、そういうものに気づき、どう変えていくのかという問題です。もう一つ、私を問うというかたちで、私が気づき、わたし流の生き方をしたいときに、いったい私は何ができるのか。関係の中で生きるから、簡単ではないけれど私ができることを考える。これまで私自身が生きていてすごく力になったと思うのは、ジェンダーがわかる人たちとのつながりです。そういう意味で、いつからでも遅くはないというのが、私からの問題提起です。

質疑応答

質問者

 中村先生がメンズ・ハウス構想というのをもたれております。地方からロールモデルとして発信していくことはとても大事なことなんですが、なぜ国がそれを聞いてくれないのか。

 松田先生に関しましては、憲法第14条法の下の平等、24条は両性の平等、そして、個人の尊厳と両性の平等だと思います。しかし、それができた63年前に政府がどのように言ったか。これができても家族制度はなくなるものではないと言っております。ですから、なかなか政策としてできなかったのではないかなと感じますし、いろいろなDVの裁判についてもそういうことを感じます。それについてどうお考えでしょうか。

 それと源先生につきましては、デートDVはどういう根源があるかということを教えていただきたいと思います。

中村 正

 政治家の判断とは別に、政策を具体化する官僚がこういうプログラムを導入する際に、法秩序がありますので、そこにどう組み込まれるかということをとても心配していました。プログラムを誰がどこでどう実施するのか、どんな資格をもった人がするのか、どのぐらいの期間するのか等という実践的なことです。私は、外国の例も参考にして提案しているんですが、新しい領域ですので、現行の法制度にいかに組み込むのが適切なのかについてより精緻化した提案にしたいと思っていますが、法政策担当者との意見が合わなかったということです。制度提案は十分にできますので、ぜひやりたいなと思っています。

松田 聴子

 今、法秩序の安定とおっしゃったけれども、それは要するに変えたくないということですね。

 14条や24条がありながら、家制度の名残が残ったという話をしたんですが、家族の中ですべてを完結して福祉も担おうというわけですから、それは非常にいいものだというので、家制度をなくすことに対してすごく抵抗があった。だから、どうしても妥協せざるを得なかった。その妥協の産物が家族法だというふうに言ってもいいと思います。

 今からどう変えようかというときに、例えば別姓制の問題を法務大臣や福島さんがそれを言ったら、もう火が消されました。戦略の問題もあるのかもしれないけど。やっぱり抵抗する力は根強いと思います。

 しかし、私たちは変える力をもっているのだと思います。

源 淳子

 私に対する質問は、デートDVの根源はというところなんですが、家制度が非常に強かったと思います。

 その家制度なんですが、『教育勅語』がつくられ、天皇と臣民の関係とか、夫婦の関係とかが教えられ、「夫婦相和し」とあります。一見、夫婦が一体であるかのように、差別がないかのようなかたちでつくられた言葉なんですね。でも、中身は夫が上で妻が下でという構造です。さまざまな人間関係をこれだけきっちりと縦の関係で教えて、その縦の関係を縦ではないかのごとく理解させたところ、そういうものを根源としてもう一度きちんと学んで、そこから乗り越えるということがどういうことかを学びたいと思っています。

斧出 節子

 最後に今後の展望ということで、お話をお伺いしたいと思います。

今後の展望

中村 正

 女性会議という場で男性問題の語り方は難しいところがありますが、男性を男女共同参画社会形成にどう位置づけるかは、多分、次の男女共同参画のステージとしても大事になっていると思っています。

 ぜひ「花婿学校」と男性のための介護教室等、実践的な取り組みをやりたいなと思っています。これは予防という意味もあります。やれるところは全部やろうと思っています。関西ではこういうグループがアクティブだし、世界的には、こういうメンズ・ムーブメントはたくさんありますので、ぜひ広げていきたいなと思っています。男性問題というフィルターを通すとよく見えてくるので、そういう普及啓発、そして何よりも、やってる男性本人たちが楽しくなるようにというふうに思っております。

松田 聴子

 皆さんには、裁判の傍聴に行くことをお願いしたい。裁判員制度がありますが、実際に裁判の現場に行くといろんなものが見えてきます。これが今お話ししてきた男社会の裁判かということがわかります。

 例えば、夫が暴力をふるい、妻が離婚したいと思って裁判離婚になります。ところが、男性の裁判官がそれを認めないのです。その妻に向かって、あなたは何十年も夫と連れ添ってきたではないか、うなだれている夫の姿をみるに忍びないという判例もあります。裁判の実態を皆さんも知るべきだと思います。日本では、残念ながら裁判官の選任に直接国民がかかわることはありません。ただし、制度が変わり、10年の任期を終えた地裁・家裁裁判官の再任手続に国民が関わるようになりました。したがって、例えば、あの裁判官はいかがなものかなということが可能になるかもしれません。

源 淳子

 私は次世代に何をどうつないでいくのか。何を伝えていくのかというところが必要かなと思うんですね。生理中だから、妊娠中だから何々してはいけないなどということは、学校教育で学ばないことなんです。ということは、家庭でというところがあると思うんです。そうすると、家庭で親となったその人が子どもに何をどう伝えていくのかの問題です。

 「大峰山」の女人禁制にかかわっていて、私の代では変わらないだろう。では次の世代の人に受け継いでもらって頑張ってほしいというのがあります。そうすると、次の世代に伝えていかなければいけないものを思います。

 介護の話でつけ加えたいのは、介護される側になったときに、性的なものが出てくるんです。女性の介護士さんが性的な被害にあっているのは、認知症になったときなんかに出てくる。

 そうすると、学校での性教育、家族での性教育にジェンダーの視点をもった性教育が非常に大事ではないかと思います。性的なことは宗教によってタブー視されてきたという面がありますので、ジェンダーの視点をもって性にかかわる問題をどう伝えていくのか、それを課題として伝えていってほしいと思います。

斧出 節子

 今日の分科会に参加し、わたし流の生き方を阻むものは何かと考えてみたときに、男らしさとか女らしさ、そして性別役割分業という体制が、わたし流の生き方を阻むものであるということを再認識させていただきました。

 日本もこれから一人ひとりが尊重されるような社会をつくっていくためには、新たな展開をしていかなければいけないと思います。そこで「総ケア提供者モデル」という考え方があるのですが、これは、家族のためにケアをすることや稼ぐことは男女双方の責務とみなされ、人々がこの二つの責務を両立できるように諸制度を整えようということです。

 それには、まず職場における男女平等、それから男女が家庭でのケアを担えるような労働時間の短縮が必要です。非正規雇用のかたちでも、正規労働と同じだけの賃金が得られなければ意味がありません。それに加えて、十分な社会保障の権利が付与されなければなりません。そして最後に、良質の保育・介護サービスが、利用しやすい価格で提供されねばならないということです。

 家族の中でいろいろなケアを実践していくことで、男らしさ、男性性の中身というものが変わっていくのではないかと思います。「気づき」というものがその中で生まれてくるのではないでしょうか。そしてそれには、法的な整備をきちんとしていかなければいけないということを確信させていただきました。

 今日のお話をうかがい、ご自分の課題は何かということをしっかりと胸に抱いてお帰りいただければ、今日のパネルディスカッションは非常に価値あるものになるのではないかと思います。

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