このページの先頭です

本文ここから

第3章 百舌鳥古墳群の円筒埴輪

更新日:2012年12月19日

百舌鳥古墳群の埴輪製作工房推定地の地図

 百舌鳥古墳群では、これまでの調査で埴輪の資料が徐々に増加しており、どのような円筒埴輪が供給されたが明らかになってきました。下表は百舌鳥古墳群における円筒埴輪の移り変わりを示したものです。古墳時代の研究者である川西宏幸氏の研究を基本として作成しています。円筒埴輪の新旧は突帯(とったい)や透かし穴の形状、焼成技法や外面調整の移り変わりなどを年代ごとに分類し、それぞれの組合せから判断します。では、各時代の円筒埴輪の様子を簡単にみていきましょう。

百舌鳥古墳群の円筒埴輪分類・編年表

 4世紀後半(2期)に、百舌鳥古墳群で埴輪の生産が開始されます。2期の埴輪が供給される古墳には、乳岡(ちのおか)古墳などがありますが、埴輪の出土量は少量で詳細は明らかにできていません。また、形象埴輪についてはいっさい不明という状況です。

 5世紀前半(3期)には、履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)の築造を契機として、埴輪の大量生産が開始されたものと思われます。国内で第3位の規模を誇るミサンザイ古墳に規格的な埴輪を供給するためには、多数の製作工人をまとめた生産体制が整えられたものと思われ、百舌鳥古墳群で本格的な埴輪生産が始められた時期と位置付けられます。

大塚山古墳前方部埴輪列大塚山古墳前方部埴輪列

 5世紀中頃(5期前半)に至って、いたすけ古墳・御廟山(ごびょうやま)古墳・反正天皇陵古墳(田出井山古墳)・仁徳天皇陵古墳(大山古墳)などの大型・中型前方後円墳をはじめ、多くの古墳が築造され、埴輪生産が最盛期を迎えます。その需要に応えるために多数の埴輪窯が築かれたものと考えられますが、現在までのところ百舌鳥梅町窯(もずうめまちよう)しか確認されていません。おそらくは百舌鳥梅町窯周辺の百舌鳥川沿いに多数の埴輪窯が築かれ、埴輪の需要に応えるため、操業していたものと考えられます。

 5世紀後半(4期後半)になると、埴輪生産は減少への道をたどります。5世紀後半段階で造られた古墳では国内最大のニサンザイ古墳が築造されますが、円筒埴輪は前段階に比べて製作工程を省略化したものであったことがわかります。また、御廟表塚(ごびょうおもてづか)古墳や竜佐山(たつさやま)古墳には、それまで百舌鳥古墳群では見られなかった粗雑で小型の円筒埴輪が供給されており、埴輪生産に熟練していない製作工人が関わっていたことをうかがわせます。

 5世紀末から6世紀代(5期)になると、百舌鳥古墳群では古墳の築造が急速に減少します。5期の埴輪が用いられているのは、今のところ一本松(いっぽんまつ)古墳、平井塚(ひらいづか)古墳に限られています。平井塚古墳の円筒埴輪は百舌鳥古墳群中で最も粗雑なものであることから、百舌鳥古墳群で最後に築造された前方後円墳と位置付けることができます。しかし、百舌鳥古墳群と並ぶ大古墳群である古市古墳群では6世紀代でも大王墓と考えられる前方後円墳の築造が続いており、百舌鳥古墳群における古墳の築造は政治的な何らかの理由で終了したと考えられます。

 百舌鳥・古市古墳群で生産された円筒埴輪の成形・調整・焼成などの技法は全国の埴輪製作工人に影響を与えたと考えられています。日本各地で百舌鳥・古市古墳群と同様の埴輪生産が4世紀後半以降進められたのです。当時国内で最も埴輪生産が盛んであった百舌鳥の地では、最も先進的な埴輪が作られていたと考えられます。

このページの作成担当

文化観光局 歴史遺産活用部 文化財課

電話番号:072-228-7198

ファクス:072-228-7228

〒590-0078 堺市堺区南瓦町3番1号 堺市役所高層館5階
(文化財課分室)〒590-0156 堺市南区稲葉1丁3142

このページの作成担当にメールを送る
本文ここまで