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東浅香山遺跡

更新日:2012年12月19日

古代の狩り場と依羅池(よさみいけ)

 東浅香山遺跡は、堺市の北端・北区東浅香山町4丁に位置しています。遺跡の中央には南北方向の谷筋があって、光竜寺(こうりゅうじ)川が流れています。また、北側には宝永元年(1704)に開削された大和川があります。
 この遺跡は新日本製鐵株式会社の社宅跡地再開発事業に先立つ試掘調査で新たに発見されました。平成6年から10年にわたる計35,717平方メートルの発掘調査の結果、住居の跡は見つかりませんでしたが、いろいろなことがわかりました。主な成果は以下のとおりです。
 まず、堺市の調査としては初めて火山灰を確認しました。6,300年前の鬼界(きかい)-アカホヤ火山灰は現地表下90センチメートルで、24,000から25,000年前の姶良(あいら)―丹沢火山灰は現地表下110センチメートルで確認しました。火山灰に含まれる火山ガラスを顕微鏡で見るといろいろな形がありその特徴から、噴火した火山がわかりました。発掘現場では、雨上がりに小さくキラキラ光るこの火山ガラスがたくさん見えました。残念ながら、いっしょに土器や石器は見つかっていませんが、西日本で広く確認されている鹿児島の火山の火山灰層が、市内でも大阪府教育委員会が発掘調査を行った南花田遺跡、小阪遺跡、野々井遺跡等についで確認できたことの意味は大きいのではないでしょうか。

 次に、弥生時代を中心とする石鏃(せきぞく)が多数出土しました。石鏃は70本近く出土しており、土器の出土量が少ないことを考えると、弓矢を使った場所、つまり狩を行った場所であったと考えられます。ここには小さな川があったことから、水辺に集まる鳥や獣を狙ったのでしょう。時代は新しくなりますが、『日本書紀』の皇極天皇元年(642)に、この付近で狩が行われたらしいことが書かれています。
 また、7世紀以降に造られたとみられる依羅池(よさみいけ)の一部を確認しました。大和川を越えた大阪市側には大依羅神社(おおよさみじんじゃ)があり、もともとこのあたりに池があることはわかっていました。依羅池は、『日本書紀』によれば崇神天皇と推古天皇の時代に造られたとあり、日本のため池の中では狭山池などとともに歴史の古い池ということになります。今回の調査では7世紀の初め頃の土器が入った泥の層が見つかり、その分布域などから池の南側の範囲がある程度わかってきました。

 さらに、室町時代に行われていた盆の施餓鬼会(せがきえ)の木製塔婆(もくせいとうば)がまとまって出土しました。光竜寺川(別名仁王門川)のすぐそばの池のようなところからこの塔婆は見つかりました。塔婆には墨で字が書かれていました。「文明7年(1475)7月14日」、「7月」などの文字があります。ここで、530年前のお盆の施餓鬼供養が行われたのでしょう。

 発掘調査の後、ここは「ダイヤモンドシティープラウ」として新しい町になりましたが、昔は想像もできないような環境であったことがおわかりいただけたでしょうか。敷地の北にある公園は、発掘調査の成果から、「おかりば公園」と命名され、説明板が設置されています。

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