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博物館資料からみる徳川家康と堺

更新日:2023年11月6日

 江戸幕府を開き、200年以上に及ぶ安定した徳川政権の基礎を固めた徳川家康。天下人として君臨した家康は、堺と深いつながりがありました。天正10(1582)年6月2日本能寺の変が発生し、家康と同盟関係にあった織田信長が明智光秀に殺害されました。堺妙國寺に居た家康は、光秀からの追手がかかる前にわずか30人程度の随行者とともに本国三河への帰国を決行します。2日に堺を出た一行は、主要街道を避けて伊賀を越えて伊勢に入り、海路三河へ向かうという難路をクリアし、5日に三河に到着します。その道中は、敵の襲撃や暗殺の危険に満ちたものでした。家康の一行は、各地の有力者に協力を求め、金銭を贈り、危険を回避しました。
 慶長20(1615)年4月28日大坂夏の陣の前哨戦で中世都市堺は焼失します。その堺を復興したのも家康でした。家康の側近の金地院崇伝の日記によると慶長20(1615)年6月18日に堺復興の起工式が執り行われています。
 当館の所蔵品のなかで、家康と関係が深い資料をご紹介します。

徳川家康像

 当館蔵の徳川家康の肖像画です。徳川家康は江戸幕府を開いた初代の将軍として、「神君」として崇拝されました。家康が行ったことは、神君の事跡として尊重され後々の時代に継承されました。
 当館の家康の肖像画は、孫にあたる3代将軍徳川家光の肖像画と一対になっています。2人の将軍の肖像は、威儀を正し葵の御紋を配した画面に描かれており、江戸時代前期に拝礼の対象としてつくられたと考えられます。

慶長大火縄銃(大阪府指定文化財) 

常設展示場で展示をしています。
 大坂夏の陣で大坂城の豊臣方を砲撃するために家康が命じて、堺と国友の鉄砲鍛冶に製作させた日本最大の大火縄銃です。大坂夏の陣では数多くの火器が使われましたが、全長3メートル、重量は135キログラムのこの大火縄銃の存在感は別格といえます。大きいだけではなく、象嵌の美しさなど工芸品としても魅力にあふれています。

慶長大火縄銃

大筒(複製) 

常設展示場で展示をしています。
 慶長14(1609)年に家康は諸国の鉄砲鍛冶に大砲の製作を命じますが、なかなかそれに応じる者が居ませんでした。しかし、そのなかで堺の鉄砲鍛冶芝辻理右衛門は2年の歳月をかけて、3メートル25センチの巨大な筒を完成します。その実物は、靖国神社に現存しています。当館ではその複製を製作し、展示をしています。

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文化観光局 歴史遺産活用部 博物館 学芸課

電話番号:072-245-6201

ファクス:072-245-6263

〒590-0802 堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内 堺市博物館

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