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堺をおもえば…籔内佐斗司さん 堺の記憶

更新日:2016年4月19日

堺をおもえば…

籔内佐斗司さん

土塔はインドの仏塔みたい。ぜひここで公演したいですね

プロフィール

 堺の名誉大使である籔内さんは、ちょっとユーモアがあって、見ると思わず微笑んでしまう童子の仏像が人気の彫刻家。堺市博物館の公式キャラクター「サカイタケルくん」の生みの親でもある。自分が作りたいものは仏像だったと思ったのは、歴史の豊かな堺で育ったからではないかという。

明るい小学校と桜道で堺が好きに

 籔内さんは大阪の阿倍野で生まれて3歳までを過ごし、その後、長居に転居。小学校1年生の3月に堺に引っ越し、2年生から浜寺昭和小学校に入学した。
「父が八幡製鐵(1970年から新日本製鐵、2012年から新日鐵住金)に勤めていたので、社宅を転々としていたんです。
 引っ越してすぐ、父が『小学校を見に行こう』と言って、兄と3人で行きました。木造2階建ての校舎で、校庭の南側が開けていて、明るくて広々としたいい小学校だなと、すぐに好きになりました。
 木造校舎はとっくになくなりましたが、残してほしかったなあ。記憶にあるものが残ってないと、ふるさとじゃなくなる。ただの思い出にしかならない。ふるさとを守るというのは、ものを守る、ハコを守ることだと思いますので、建物は壊してはいけません。手を入れるなり何なりして残してほしいですね」
 自宅は浜寺の通称“桜道”の近くにあった。
「引っ越してまもなく桜の季節になって、“桜道”が見事な桜のトンネルになって感激しました。でも、何年かしたら桜がほとんど枯れてしまったんですよ。公害の影響やったのかな?」

茅渟(ちぬ)の海に対する複雑な思い

 父とは浜寺公園も見に行った。
「子どもだったから文化的価値なんてわからなかったけど、浜寺公園駅の駅舎は風格のあるいい建物だなと思いました。今度、ビルになるそうですが、駅舎は残すことになったと聞いてよかったなと思っています。
 浜寺公園は米軍キャンプの跡地なので、芝生がバーッと一面に広がっていて、小さな米軍ハウスがぽつぽつ並んでいて、道も整然としていて、ほかと全然違う外国っぽい雰囲気だったんです」
 松林を抜けると、まだ白砂青松のきれいな浜辺が続いていた。

「ひと夏かふた夏、海水浴をした覚えがあります。海に夕陽が沈むのを見たりね。のちに、昔は大阪湾のことを“茅渟ちぬの海”と呼んでいたと知りましたけど、ここがすごく好きだったんです。

 それが、あっという間に埋め立てられて臨海工業地帯になってしまった。でも、新日鐵が世界一を目指していたときですからね、父が誇らし気に『ここに世界一の製鉄工場が出来るんや』と話していたので、子ども心にも誇らしくもあり、残念でもあり、とても複雑な気持ちでした。

 今、あそこを白砂青松に戻そうという動きがあるそうですけど、大人も楽しめる一流のリゾート地をつくればいいですね。浜寺はもともと大阪の大商人たちのリゾート地だったんですからね」

漫画と歴史好きで、遺跡で破片掘り

 絵は小学生の頃から好きだった。
「母によると、自分では記憶がないぐらい小さい頃から『絵描きさんになる』と言っていたそうです。小・中学生の頃は手塚治虫さん、横山光輝さん、ちょっと背伸びして白土三平さんが好きで、漫画家になりたくて漫画ばっかり描いてました。
 私は雑誌で読んでた『鉄腕アトム』がテレビの画面で動き始めたのを見た世代なんです。私と同年代のアーティストで、アトムに影響を受けなかった人はいなかったんではないかと思います。それくらい衝撃的でした。
 自分の作品を思い返してみると、1個ずつの作品ではなくて繰り返すことで動きを表したり、『平成伎楽団』のように仮面をかぶらせて踊らせたり、彫刻を動かすことにすごくこだわっている。それは画面の中でアトムが動き出したのを見たせいかなと思います」
 小学生の頃から歴史も好きで、浜寺中学時代は土器の破片を掘り出したりもしていた。
「中学校の近くに四ツ池遺跡があってね。当時は本当に溜め池が四つあったんですよ。ここは登呂遺跡に匹敵するか、それよりすごいと言われていたんです。
 冬に池の水を抜いたとき、底をちょっと掘ると土器の破片がザクザク出てくる。それをバケツ一杯拾って社会科の先生のところに持って行ったら、『これ、おもろいな』と言って、また空のバケツを渡されて『もう1回、取って来い』って(笑)。あの破片はどうなったんでしょうねえ。
 棺に入った遺骨が出てきたこともある。歴史が本当に身近にあったんですね」

上京して堺の歴史の豊かさを知る

「絵を描いたり、ものを作ったりする以外、取り柄のない子だった」とおっしゃるが、名門校の大阪府立三国丘高校に入学。
「三国丘高校は真ん前が反正天皇陵なんです。仁徳天皇陵も近いし、阪和線や南海高野線に乗るとこの辺の古墳が見渡せる。だから、それが普通だと思ってた(笑)。
 高校を卒業して、浪人することになって東京に出て来て、初めて自分が育ったのはなんと豊かな歴史のある町だったのかと気がついたんです」
 2浪の末、東京藝術大学の彫刻科に入学。大学院を卒業した後、学内の「保存修復技術研究室」で仏像の修復に携わる。
「本気で仏像の勉強をしたのはそれからです。ただ堺で育ったせいかと思うんですが、 もともと西洋風のものに興味がなかったんです。自分に根ざしてないものだと。だから、仏像の研究を始めて、『あ、これが自分がやりたかったものかな』と思いました」

「土塔」で平成伎楽団の公演をしたい

 籔内さんが東京に出た後、ご家族は泉北ニュータウンの泉ケ丘駅近くに引っ越した。
「あの辺、大昔はのぼり窯がある焼き物(須恵器)団地だったんですよ。そこにニュータウンを造成したんだから、なんぼでも土器が出てきますよね」
 それを展示する「堺市立泉北すえむら資料館」が、泉ケ丘駅と近い大蓮おおはす公園にある。
「そこに僕が中学生のときに集めた破片もあるかもしれませんね(笑)」
 最近、興味を持っているのは復元された「土塔」だという。
「子どもの頃に行ったときは土の山で、『なんや、これ』と思うてたけど、きれいに復元された写真を見たら、これがすごい! インドのストゥーバ(古代インドの仏塔)を踏襲して、木の三重塔や五重塔ができる以前の姿をとどめている。素晴らしい文化財ですよ。ここはコンサートとか演劇にも活用すべきやと思います」
 籔内さんが作っている「平成伎楽(ぎがく)団」の公演にも似合いそうだ。
「ああ、それ、いいですね。機会があったらぜひやりたいですよ」

家族で食事に行った寿司の老舗[弥助]

「父はよく家族を食事に連れて行ってくれました。
山之口商店街にあった寿司の[弥助]とか、料亭の[八島荘]、それから、お座敷天ぷらの[大福][羽衣荘]と高級な店が多かったですね。時効だから言えるけど父はずいぶん職権乱用していたんでしょうね(笑)」
 現存しているのは[弥助]さんだけ。ここには今もよく行くという。
「子どもの頃に行った[弥助]はネタが素晴らしかったように思います。大人になって東京でおいしいお寿司屋さんにいろいろ連れて行ってもらうけど、当時の[弥助]のほうが格段においしかった。もちろん、今でもおいしいですよ。
 商店街に面してあった頃の[弥助]はカウンターに石を組んで竹の樋が出てて、そこからチョロチョロ流れている水で手を洗いながら寿司を食べたんです。昔の大阪の寿司屋はこの形式が多かったそうですが、今はそれがなくなってしまったのがちょっと残念ですね」

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