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堺のプチ魅力満載 「堺小ネタ帖」

更新日:2022年7月4日

 堺には、「仁徳天皇陵古墳」や「千利休」、「徳川家康ゆかりのスポット」など歴史的な資産だけではなく、様々なシーンにおいて現在進行形で活躍する、いわば「人資産」もたくさんいらっしゃいます。そんな堺の魅力や小ネタをまとめた「堺小ネタ帖」。市民の皆さまにも、市外への出張や交流の場で、堺の魅力を楽しく気軽に発信していただけます。

(イラスト 奈路道程◆デザイン 山崎慎太郎◆制作 編集集団140B)

堺小ネタ帖 コンテンツ一覧

最大の前方後円墳。

 ピラミッドをしのぐ墳墓として知られる仁徳天皇陵古墳は、円と四角を連携させた、上から見ると鍵穴のような形の前方後円墳だ。面積約46万平方メートル。甲子園球場約12個分の広さは、5世紀の人力で1日最大2千人が働いても15年8カ月かかると言われており、当時の「大王」の権力が絶大だったことがわかる。この仁徳天皇陵古墳をはじめ100基を超えたとされる百舌鳥古墳群は、大阪湾入口の明石海峡や紀淡海峡からも見え、大陸・朝鮮半島、北九州から難波津への来訪者の度胆を抜いた。百舌鳥古墳群は、羽曳野市・藤井寺市に広がる古市古墳群と共にユネスコの世界文化遺産に登録されている。
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そう、行基はえらい。

 家原えばらに生まれた行基は15歳で出家し、名門・飛鳥寺で会得。後に東大寺大仏建立事業に多大な働きをし、聖武天皇から「大僧正」を授けられる。けれども本来は、国家鎮護の仏教よりも民間布教にいそしみ、禁を犯して49もの寺院を建立した。律令体制の苦役下にあって、浮浪人や行き倒れになる農民を救った行基は、いつも民衆の側にいた。また摂河泉には灌漑かんがい用の巨大なため池や用水路を残し、卓越した土木技術者であったことを物語っている。僧行基はまさに奈良時代の「輝く民衆の星」であった。
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スーパースター利休。

 千利休は堺の商家に生まれた。堺において北向道陳きたむきどうちんから東山風の茶の湯、武野紹鴎たけのじょうおうからび茶を学び、茶道を大成した。信長に接近し、その後「天下一の茶頭」として秀吉に仕えるが、やがて対立し自刃する。その頃の堺は、国際貿易都市として日本の海外ビジネスの最重要拠点。そして茶道は彼らセレブ男子の嗜みたしなみだった。だからこそNHK大河ドラマでも「黄金の日日」では鶴田浩二、「秀吉」では仲代達矢、「江」では石坂浩二と、信長、秀吉などの主役を喰らわんばかりの重鎮が演じる最重要な人物なのだ。
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ザビエルが来た

 「帝国第一の市場」と世界を股にかけた葡萄牙ぽるとがる商人に目され、宣教師ザビエルが来た堺。豪商の日比屋了慶が彼を迎え、当時では珍しい瓦き3階建ての邸宅で布教した。その十数年後には宣教師ルイス・フロイスも来堺、信長に厚遇されている。彼らはキリスト教と一緒に、世界の文物を持ってきた。しかし堺商人は単に他国の商人を迎えていただけでない。諸大名と同等の特許を受けて南洋貿易にあたった冒険的商人であった。納屋助左衛門などは「ルソンの壺」50個を秀吉の口入れで諸大名に売り巨万の富を得た。
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鉄砲、包丁、自転車。

 種子島に伝来した鉄砲は堺で作られ広まった。家康発注による日本初の大砲も堺製であり、17世紀の半ばには年間1万丁の鉄砲が量産された。また南蛮渡来のタバコが栽培され、葉を刻む包丁の需要が増えたため、堺製のタバコ包丁がその切れ味の鋭さから江戸幕府から「堺極さかいきわめ」印を受け一世を風靡した。現在も全国の料理人のほとんどが、堺の包丁を使っている。それらの金属加工の豊かな経験と高度な技術は、自転車のフレームやパーツ製作にかされ、メイド・イン・ジャパンの技を象徴する堺の名を世界的なものにしている。
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本家GINZA。

 全国に「銀座」と名の付く繁華街は600あるといわれる。けれども最初の銀座は、商業都市・堺の「灰吹銀はいふきぎん」を扱う技能集団たちによる「南鐐座なんりょうざ」だ。その発展形が家康の命による伏見の銀貨鋳造所である。技術長として堺の銀吹極ぎんふききわめ大黒常是だいこくじょうぜが活躍、「銀座」の名称が生まれた。そして後に江戸に移るのだが、堺は日本の貨幣制度生みの親であり、それなしには「銀ぶら」も「銀座の恋の物語」もない。銀座の一流ブランドのブティックもレストランも、クラブのママやホステスも堺に足を向けて寝られない。
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大きすぎた?堺県。

 明治元(1868)年の明治維新で、幕府直轄地だった堺は堺県となる。県庁は西本願寺堺別院にあった。和泉・河内、そして後に大和(今の奈良県全域)が編入され、大阪府をしのぐ大きな県が設置された。明治14年大阪府に合併、次いで奈良県が分離される。大阪府堺市になったのは、市制町村制が施行された明治22(1889)年。東京、大阪、名古屋、京都などと同時に堺市ができた。すなわち、大阪府には大阪市と堺市の二つの市が誕生したことになる。堺は明治維新後も都市としての面目躍如たるものがあるのだ。
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先輩後輩

 「やは肌のあつき血汐にふれも見で」という斬新な歌で、日本近代文学を切り拓いた「情熱の歌人」与謝野晶子。甲斐町の菓子商「駿河屋」に生まれ、市立堺女学校を卒業している。市立堺女学校は府立高等女学校に改編され、晶子の約半世紀のちに、偉大な脚本家となった橋田壽賀子が卒業している。さらに40年後、学制改革により名称変更した府立泉陽高校からは女優の沢口靖子が出た。行基や利休、鉄砲の橘屋又三郎といった時代の人物を輩出し、「ものの始まりみな堺」といわれる街は、新しい女性像も先取りしている。
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あたり前田の。

 1960年代に64.8%と前代未聞の視聴率を獲得したのが「てなもんや三度笠」。その劇中の名台詞でもある「あたり前田のクラッカー」は、「見たことがないが知っている」永遠のフレーズ。観劇や映画、遠足、旅行の友の赤い小箱「都こんぶ」は、地下鉄から新幹線の駅売店にまで置いてある。堺の菓子を見てみると、くるみもちの「かん袋」は創業1329年で後醍醐天皇もびっくり。創業1532年「本家小嶋」の芥子餅、元禄創業の「八百源」の肉桂餅などなど。とてつもなく旧いが、どれも時代のヒントにあふれてどこか愉快だ。
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家康、堺で絶命。

 徳川家康はあの大坂夏の陣で死んだ、それも堺で。こんな伝説がまことしやかに伝わるように南宗寺には家康の墓がある。当然のごとく死去は伏せられ、代わりに影武者が充てられた。そして家康の亡きがらはひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという。
 講談『難波戦記』の有名なシーンでは、真田幸村の奇襲を受け輿に乗って逃げようとする家康を後藤又兵衛が槍で突くのがそれだ。それを裏付けるように元和9年(1623)の7月に秀忠、8月には家光と二人の将軍が相次いで南宗寺を訪れている。寺の土塀には葵の紋入りの瓦が使われ、山門前には「家康終焉の地」を表す石碑が建っている。
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酒のまち。

 案外知られていないことだが、堺は灘、伏見をしのぐ酒造りのまちだった。上方町人文化が花開いた元禄時代(1700年頃)には、酒造りの店が109軒あったという。「和泉」という国名通り良い地下水に恵まれ、茶の湯しかりまことに酒造りに適した都市だったのだ。
 それら酒蔵は昭和20年(1945)の空襲ですっかり焼けてなくなってしまい、名前が知られている金露酒造はじめ、戦災に遭わなかった灘に移った。
 瓶詰めの酒も堺が始まりで、明治期に鳥井駒吉が考案し、スペイン万国博覧会にも出展したという。その駒吉はあのアサヒビールを設立、初代社長を務めた。
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ザッツ「たてだおれ」。

 南蛮貿易で賑わいフロイスもザビエルも来た中世の堺。その栄華を象徴するかの町家が並ぶ景色は、京を凌ぐさまだったという。
 茶の湯に精通する「堺衆」で繁栄を極めた町は大坂夏の陣で全焼するが、江戸時代に再び復活。「堺普請ぶしん」という言葉が登場するように、舶来の材木や金銀をふんだんに使い、異国趣味を交えたまことに豪華な家屋が多かった。京の着倒れ、大阪の食い倒れ、堺の建て倒れと、衣・食・住で対にして三都市が言われるゆえんになっている。しかし再び太平洋戦争で焼失。かろうじて戦災を免れた豪商の山口家住宅や鉄砲鍛冶屋敷などにその姿が残る。
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和食を支える。

 鯛をさばくためにつくられた出刃包丁、それを刺身にする柳刃包丁も堺が発祥とされる。とどのつまり和包丁の多くは堺によってつくられ続けているのだ。日本のプロの板前の90%以上がメイドイン堺の包丁を使っているとも言われている。
 京都・錦市場の刃物司「有次」は桶狭間の合戦があった1560年創業の大老舗で、その和包丁は京都中の料理人の必須アイテムだがそれも堺製。ユネスコ無形遺産の和食は堺が支えているのだ。ちなみに出刃包丁は「出っ歯の鍛冶屋」がつくったからそう命名されたという話も江戸時代の『堺鑑』にある。
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「王将」の心意気。

「明日は東京に出て行くからはなにがなんでも勝たねばならぬ」。これは打倒・関根金次郎の鬼と化した勝負師・阪田三吉の心境を村田英雄が唄った「王将」の三番。阪田は明治3年(1870)、舳松村(現・堺区協和町)に生まれた将棋名人。
 織田作之助は阪田に心酔して『聴雨』『勝負師』で書いているが、その織田も堺に住んでいた。昭和55年(1980)、堺出身の横山やすしは西川きよしと共に東京国立演芸場へ乗り込み、芸術祭優秀賞を受賞したが、「将棋の駒に己の人生を賭けた阪田三吉の心境やった」と語っている。生家近くには阪田三吉記念室(舳松人権歴史館内)がある。
※「阪田三吉」の「吉」は機種依存文字の為、代用文字を使用しています。正しくは、吉の上辺は土です。
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鉄砲町のヒーロー。

 少年時代、劇画家のさいとう・たかをさんの自宅は鶴田池の近く(現・西区山田)にあった。南へ行くと自衛隊の信太山基地で、戦後まもない時期は米軍の演習場だった。「米軍の標的の裏が真っ白だと知って、『こんなところに絵が描けたらどんなに気持ちいいだろう』と倉庫からこっそり拝借して、それで紙芝居をつくったこともあります」と市HP内の『堺をおもえば…』で告白し、「潜入するゴルゴ13」を自ら先取りしていた。
 2014年8月に堺市立文化館で開かれた「ゴルゴ13の世界展」では火縄銃を持ったゴルゴが登場。「敵に回したくない男」と、どの戦国武将でも思ったことだろう。
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レビューのDNA。

 関西屈指のリゾート大浜には「歌劇」もあった。阪堺電気軌道(当時)は明治末期~大正初期にかけ宿院-大浜水族館前-大浜海岸の路線を走らせるだけでなく、堺市から大浜公園と水族館の運営を受託し、大浜公会堂やスパ「大浜潮湯」を開いて行楽客を集めた。
 とどめは宝塚歌劇誕生から11年後の大正13年(1924)に生まれた「大浜少女歌劇」。行楽地の「華」として注目されたが昭和9年(1934)の室戸台風の被害で解散、わずか10年の命だった。
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鉄路網100年超。

 東海道本線(国鉄)以外に鉄道がなかった明治18年(1885)、日本初の私鉄「阪堺鉄道」難波-大和川間が開業。31年(1898)には大小路(堺東)-狭山間の「高野鉄道」が、44年(1911)には「阪堺電軌」の恵美須町-市之町間が運行を始める。明治末期に鉄道3線以上を擁した都市は、堺以外には東京、京阪神と名古屋、福岡だけだった。「道に迷っても少し歩けば線路に出る」と堺の子どもは教えられていた。
 現在、堺を走るのは南海本線、阪堺線、南海高野線、JR阪和線、地下鉄御堂筋線、泉北高速鉄道の6本。最新型の特急車両から昭和の路面電車まで、「撮り鉄」ファンには被写体に事欠かない。
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羽田と伊丹の大先輩。

 実業家・井上長一はライト兄弟が有人動力飛行を成功(1903年)させてから20年にも満たない大正11年(1922)に日本航空輸送研究所を堺大浜に設立、水上を滑走路にして同年から堺-高松間に定期便を開き、日本の商業定期航空が産声をあげた。
 しかし昭和9年(1934)の室戸台風で格納庫が全壊して全機が大破。復興後の太平洋戦争では民間飛行が中止され、「堺から飛び立つ」歴史は20年も経たずに終わったが、羽田(1931)や伊丹(1939)の開港年を考えると先進的な試みであったことが分かる。大浜に発着する空港が存続していたら、堺の歴史は全然違っていたことだろう。
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書く女性たち

 日本近代文学を切り拓いた「情熱の歌人」与謝野晶子、脚本界の大御所・橋田壽賀子、脚本にとどまらず絵本も手掛ける今井雅子と、女性作家の活躍がめざましい堺。『サラバ!』で第152回直木賞を受賞した西加奈子はテヘランに生まれカイロと泉北ニュータウンで育ち、与謝野や橋田の出身校である府立泉陽高に通った。
 西がリスペクトする同世代の小説家で第151回芥川賞を受賞した柴崎友香は大阪府立大学(現在の大阪公立大学)の卒業だし、2013年に他界した偉大なる小説家・山崎豊子は浜寺に住んでいた。女性の書き手を覚醒させる「気」が堺には立ち込めているのかもしれない。
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主演俳優、チン電。

 外国人観光客の乗車も増えている『阪堺電車』を舞台にしたオムニバスドラマを堺市が2016年に企画制作。高校生たちがワークショップで書いた6本の脚本を原作に羽衣国際大学メディア映像学科の学生たちが映像化。明治生まれの阪堺線に平成生まれ世代の新しい風が吹き込まれた。脚本監修した今井雅子さんはNHK連続テレビ小説「てっぱん」でもチン電を重要なシーンで使っていたが、ここでも「普段着の乗り物」への愛が伝わってくる。ちなみに、綾ノ町停留場の北と南にあるカーブは、撮影者にとってもおいしいポイントみたい。スマホでも動画が観られるので、堺市のホームページからアクセスを。
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桶屋に未来の風。

 20世紀初頭の堺で最盛産業の「酒造」を支えた樽と桶。大正6年(1917)、堺には樽桶業者が47軒を数えたが、今や上芝雄史さんが所属する西区の[藤井製桶所]1軒のみ。大桶による仕込みが、コストや洗う手間のためにホーローやステンレスのタンクに代わったからだ。しかし21世紀に入ると、「計算された旨さ」を拒否してあえて木桶で仕込む酒蔵や醤油蔵が現れたことで、桶の発注が増えた。国内で仕込み桶を製造・修繕できる業者は[藤井製桶所]ぐらい。それで全国の酒蔵や醤油蔵の人が技術を教わりに堺にやって来る。上芝さんが「店じまい」しても、桶を作り、面倒を診られる人間を育てるためだ。
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クール、いえ、熱々ジャパン。

 「名人」として知られる堺区の[銀シャリ屋 ゲコ亭]の村嶋孟さんは、美味しいご飯の炊き方の指導をするために中国政府から3年間招かれている。村嶋さんの実家は以前、邸宅や別荘を清掃する「家洗い屋」を営んでいた。「客はお金持ち。父はお茶や花・書・画・骨董・笛・尺八も嗜んだ」そうで、仕出しの料理を父と一緒に味わい、舌が自然に肥えたという。戦争で堺の町は焼けても、その舌は生きていた。昭和38年(1963)に開店。炊飯用の井戸水は、千利休が用いていた井戸と同じ水系の水だった。お茶の力で戦国の世を終わらせた利休の時代から400年余り、今度は「ご飯」の力で日中の平和を支える。
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サブちゃん夢のピッチ。

 東京五輪などで世界と戦った選手時代を経て、初代チェアマンとして1993年のJリーグ創設を牽引、現在は日本サッカー協会(JFA)相談役として数十年先を見すえる川淵三郎さんの夢は「一流の施設で一流のコーチがサッカー少年少女を育てる」こと。2010年、堺区の大阪ガス工場跡に広大な[堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター(J-GREEN堺)]が誕生。天然芝もある国内最高峰のピッチで子どもから日本代表までが練習に励む。府立三国丘高時代に「試合で四国に行ける」という理由でサッカー部に入った60年あまり後、女子選手の強化を目的とした「JFAアカデミー堺」では海外遠征も行われ、世界レベルの選手が育つ。
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Sakaiから世界の空へ。

 長さ9メートルもあるこいのぼりを、下描きをせず何十種類もの刷毛や筆を使って手描きで仕上げる西区の[堺五月鯉幟工房 高儀]六代目・高田武史さん(大阪府伝統工芸士)。こいのぼりが江戸時代中期にはじまった頃は和紙で造られていたが、この工房が明治時代の半ばに日本で初めて綿布でこいのぼりを造り、今や世界各国に顧客を持つ。七代目となる後継者の恵さんが考案した新商品の小物も新しいファンをつかんでいる。特大のこいのぼりは、重要文化財の山口家住宅(堺区)の高い天井のある広々とした土間で、GW前後に見ることができる。
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アナゴ・スクエア。

 かつて堺の出島港では穴子の延縄漁が盛んで、南海本線湊駅付近の海ぎわは「穴子屋筋」と呼ばれていた。現在はその数こそ少なくなったが、堺区にある持ち帰り寿司の専門店[深清鮓]は時代の名残を留める65年以上現役の店。三代目の深井壽光さんが親戚の穴子屋さんから仕入れ、家族中心で作る穴子寿司に地元の固定客から海外の旅行者まで幅広いファンがつく。ひと口食べるとファンにならずにはいられない、とろける「穴子のにぎり」や香ばしさ満点の「穴子の箱寿司」の出来たてを、持ち帰りが待てない国内外のお客さんが店の前のベンチでおいしそうに頬張っている。

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「紡績工場」という広場。

 世界を旅したカメラマンの小野晃蔵さんがその建物を見た瞬間に入居を決めたのは、明治末期に建てられたアールデコ調の紡績工場。「自分だけのものにしてはいけない」とは思っていたが、近所に挨拶に行ったときに「あの建物に入ってくれてありがとう」と言われ、その思いが確信に変わったという。小野さんは、定期的にイベントやコンサート、フリーマーケットなどを開催、今や地元住民や堺ビジターの「広場」になっている。ふだんは家族の写真も撮ってくれるスタジオだが、イベント時にはパブリックな空間に。建造物に敬意を表し、[スピニング・ミル(紡績工場)]と命名。2015年度には堺市景観賞特別賞を受賞した。
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アースダイバー堺。

「くに」や「都市」の成り立ちと変遷を、古地図や地形図、そして旺盛なフィールドワークで解き明かす「アースダイバー」で新しい歴史観を提示した人類学者の中沢新一氏(明治大学野生の科学研究所所長)が、2016年の1月に訪れた場所は「堺」だった。百舌鳥古墳群を中心としたフィールドワークの成果は翌日、堺商工会議所の大会議室にて披露され、全国から集まった多数の受講者が聞き入った。中沢先生曰く「『アースダイバー堺』はテーマの宝庫。また来たいです」。堺で再会できる日が待ち遠しい。
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ものづくりタウンの申し子。

  今も阪堺線高須神社停留場近くに住む版画家・安井寿磨子さんの自宅は、自転車の補助輪を日本で最初に作った[安井製作所]。村上龍の小説『69』などの装画や、最近では「怖くない病院にするために」と耳原総合病院のアーツプロジェクトも手がけた。隣の綾ノ町停留場近く、庖丁の柄屋の家に生まれ育った空間デザイナーの間宮吉彦さんは、1980年代から一貫して「街に影響を与える店」を大阪や東京、上海でつくり続けてきたが、21世紀以降は旧い建物に生命を吹き込む仕事に力を入れる。神明町停留場そばの[つぼ市製茶本舗]、大小路停留場そばの[サカイノマ]。いずれも堺でしかできないカフェ空間だ。
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堺好き拡散術。

 堺区[自転車博物館サイクルセンター]での一コマ。「さて、ここで問題です。自転車はやがてタイヤに空気を入れて走るようになりますが、それを発明した人はだれでしょう?」。NPO法人堺観光ボランティア協会前理事長の川上浩さんは常々「一方的な説明しかしないボランティアガイドは絶対にダメ」と言い切り、サービス精神やコミュニケーションの大事さを会員一人ひとりに説く。心がけているのは「観光客が質問しやすい空気」。そのために冒頭のような「クイズ」も出題する。ちなみに正解は「ダンロップ」。子ども好き獣医さんの、後世に残るグッドジョブでした。
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