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時代の《今》に響きあう、晶子の生き方

更新日:2012年12月19日

コーディネーター
山本 千恵(やまもと ちえ)
(女性思想史研究家)
パネリスト
太田 登(おおた のぼる)
(国立台湾大学専任教授)
平子 恭子(ひらこ きょうこ)
(教育学者・与謝野晶子研究家・歌人)
松平 盟子
(歌人・与謝野晶子研究家)

1911(明治44)年、はじめての女性誌「青鞜」創刊号に一つの詩が寄せられました。「山の動く日きたる…すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」。この詩は女性解放の蜂火となり、100年を経た今も、その精神は国内外で生き続け、私たちを勇気づけます。

与謝野晶子は、堺市の商家に生まれ、少女時代から古典に親しみ、短歌を詠み、鉄幹とめぐり合い上京後は、教育、社会評論などにも活動の場を広げてゆきます。活動の源には、人間尊重の精神が置かれ、生命への愛と情熱にあふれていました。特に、女性の自尊、自律と地位向上にむけて、生活体験から生まれるメッセージを提起し続けました。

時代を超えて届く晶子からのメッセージ。私たちはそれをどう引き継ぐのか、共に考えました。

晶子からのメッセージの映像上映の写真<晶子からのメッセージの映像上映>

はじめに

山本 千恵

 晶子は「みだれ髪」の晶子だけではない。1878(明治11)年、自由民権と世界化という、日本近代の陽光の刻に生まれ、未曾有の文芸復興期、近代のルネサンスというべき時代に呼吸して生きた女性でした。芸術の世界的水準への開花を願った、世界に誇りうる芸術家でありました。

 きょうのテーマは、「今に響きあう、晶子の生き方」、真の個人として、女性として、生活からのメッセージを発しつづけた晶子を、どう引き継ぐか、会場の皆さまと共に考えたいということです。

 もう一つ、ぜひ申しあげたいのが、今日にいたる道です。二十世紀の始まり、1901(明治34)年に、20代の若い娘の心として「みだれ髪」が生まれた。それから10年、7人の子を持つ32歳の晶子が、新しい女たち、平塚らいてうらの「青鞜」に贈ったのが、「山の動く日」です。

 そして1912(明治45)年、鉄幹の薦めで渡欧した晶子は、パリ文芸誌の寄稿に、読者、フランス女権拡張会副会頭から「日本の穏健な女性改良論者であるあなた」への手紙を得ています。

 ヨーロッパから戻り、総合雑誌「太陽」などの求めに応じ、盛んに評論を書き、女性界の盛り上がりとして婦人参政権運動の第1回全日本婦選大会に「婦選の歌」を送ります。そのような功績が認められ、その1930(昭和5)年、「与謝野晶子生誕50年祝典講演会」が賀川豊彦、尾崎行雄、岡本かの子ら76人の発起人で企画されました。これは予告に終わりました。女性の問題は、戦争が始まると吹き飛ぶのです。

 今日のつどいを、改めて、その晶子祝典としたい、世界に誇りうる晶子を伝えたいと願っております。

三面一体の生活

太田 登

 私の問題提起は、「二人の女の対話」という評論から「三面一体の生活」という評論を中心にお話をしたいと思います。

 結論を先に言いますと、晶子における平和思想への希求ということです。時代的には大正のデモクラシー、あるいはリベラリズムが最高潮に達した時点で、その先頭を走るかのように晶子はさまざまな提言をします。とりわけ、今回取り上げます二つの評論は、それを典型的にあらわしたものではないかと思っております。

 まず一つは、晶子には生活意志、あるいは生活意欲への執着が大変強くこの評論から読み取れると思います。明治から大正にかけての「青鞜」運動のリーダーであった平塚らいてうを多分モデルにしているのではないかと思われる第一の女と、晶子自身がモデルではないかと思われる第二の女、そういう2人の女性がさまざまな形で話し合うわけです。

 これは私自身の言葉で言いますと、明らかに生活詩観、つまり詩観というのはポエム、ポエジーの詩ですが。生活を基盤にした文学、芸術のあり方を、晶子はここでほぼ確立したのではないかと言えると思っております。その生活詩観に立ちながら、どうすればさらに日本及び日本人は発展していくのかということを、「新しい刺激に逢って新しい変わり花が突発する植物のように、世界の刺激を受けることが激しいだけ日本人の創造力も激変するのにちがいないのですから、私はあなたのように日本人の体質を基礎に将来の生活を悲観しようとは思いません」と語り、流行に取り残される人間であるよりも、流行の先を行く人間になってほしい、と平塚らいてうとおぼしき第一の女に第二の女は語るわけです。

 1914(大正3)年の時点で、男女が互いに助成して社会を円満に形づくるのは、20世紀以後の文明に賦与された幸福であるということを語っているわけです。これが20世紀の最大の課題であるということを、あわせて発言していると考えていいと思います。その発展上に、つまり1918(大正7)年に発表された「三面一体の生活」という評論に結実していくわけです。

 個人、国民、世界人という三つの生活を一体化させるためには、生活事実をきちっと自分自身が押さえなければならないという生活感覚。その根底にある愛によって、自己愛から家族愛へ、さらに家族愛から社会愛、社会愛から最終的には世界の人類のすべてを愛することのできる世界愛と発展していくことが最も望ましいという考え方をここに提言しています。

 20世紀の課題である男女がお互いに助け合って、そして円満な社会をつくる、そこから人類の幸福を導き出す。そのために必要なことは、人類が相互に愛し合い、扶助し合う実行がなければならない。

 大正のこの時代に、晶子が世界人類愛という形での平和思想を提言したことそのものが、私たち21世紀に生きる人間としては真撃に受けとめ、そして学ぶ必要があるのではないかということを提言させていただきたいと思います。

自我に基づいた近代性

平子 恭子

 今回、日本女性会議のテーマが「山の動く日きたる~ジェンダー平等の宇宙へ~」ということで、私のテーマの「与謝野晶子の生涯(思想と短歌)~人及び女として~」を、その観点から述べさせていただきます。

 晶子の今日的意義ですが、1900(明治33)年に北欧スウェーデンの思想家エレン・ケイが著書『児童の世紀』を出版しました。日本の晶子は、それに対してこう言っています。「20世紀は男女の世紀でありたい」と。20世紀に入ってから晶子が繰り返し評論において男女平等を掲げて久しく提言していた思想が、21世紀となった今日、あらゆる場面で実現されつつあることは、晶子の思想が100年、すなわち1世紀早かったということです。晶子がいかにジェンダーについて自覚的で、かつ先覚的に社会に貢献していたかを知ることができるわけです。

 近代短歌革新を鉄幹とともになし遂げた晶子の思想の基礎となった自我に基づいた近代性は、晶子が生家を出て彼と結婚してからの実際生活にも現われてくるものでした。『みだれ髪』を出版し、結婚した晶子は新家庭を営み、それから人生を歩んで行くこととなりました。さらに渡欧期に、近代短歌革新の金字塔『みだれ髪』でなし遂げた近代性を、晶子はこの渡欧によって確認すると同時に、男女に関するカルチャーショックを受けました。そして、広い意味での「教育が」最重要課題であると認識して、晶子は帰国しました。

 帰国後の晶子の関心は、芸術から実際生活につながった思想問題と具体的問題に関心が移行し、さらなる読書によって思想形成をしました。それは東洋思想と西洋近代哲学思想の影響を受けたということです。そして、評論活動をしてゆくこととなったのです。その評論の内容は多岐に亘りますが、いずれにせよ女性に関する評論、すなわちジェンダーに関する評論(人格的男女平等主義の思想からの)が多く残されています。例えば、以下のとおりです。『明星』の終刊の頃の、イプセンの『人形の家』のノラへの評論、渡欧の前年の『青鞘』創刊号への詩「そぞろごと」(のちに「山の動く日」)の寄稿、大正5~8年頃の平塚らいてう等との「母性保護」をめぐる評論、来日したM・サンガーの「産児制限論」への評論、第1次世界大戦中の内閣直属の教育諮問機関「臨時教育会議」への評論などがあります。

 それから、私立学校文化学院の創立への参画と教育実践。欧州から帰国しての晶子の思想形成と評論活動は同時並行であったと考えられますが、その思想形成のさなか、時あたかも大正デモクラシーの真っただ中で、教育界では例えば羽仁もと子の自由学園などの新学校設立や新教育の実践が行われていました。それらの時期と同じくして1921(大正10)年4月、山林地主である西村伊作、画家の石井柏亭、作曲家の山田耕筰などの芸術家たち、その他多くの人々の熱意によって設立された中等教育を目的とする私立学校「文化学院」の教育に、晶子の教育思想が花聞きました。1923(大正12)年からは男女共学が試みられ、人間性尊重の個性尊重の自由教育が実践されました。

 晶子は、教育の機会均等という男女共学そして芸術教育による精神陶冶をめざした自由教育の私立学校文化学院の創設に参画し、その教育実践に携わったのです。

 堺に生まれ、歌から始まって、まさしく「人及び女として」生き、1世紀も早く主張し続けた思想を、今日の「男女共同参画社会基本法」「女性差別撤廃条約」などに繋げつつ生涯を貫いた与謝野晶子であったと思います。

母としての実作者・晶子

松平 盟子

 実作者の立場に立って晶子の作品を詠むときに、何が見えてくるのか。歌人としての晶子、歌を通して見えてくる晶子の本音といったものが、理に収束する前の、まだ言葉としてマグマのような不分明な状況にある、そうした晶子の心の動きが見えてくるようなお話にできたらいいなと思っております。

 晶子とて人の子です。ですから、自分が子どもとして親について何を感じたか、また親だけではなく彼女の周辺をどう捉えたか。最初の「両親への愛と、自らを子どもとして確認する歌」の項をご覧ください。特に有名なのが「海恋し潮の遠鳴り数えつつ少女となりし父母の家」ですね。ついで、晶子が子どもの中にかつて親しんだ郷里への思いを見出した詩「片時」。次が同じく詩「母の文」。歌人になってからの晶子についてはよく語られますが、自分の母親からどう離脱し精神的な成長を遂げたかはまだあまり語られていない。「母の文」はそれを明らかにする詩という気がします。以下、時間の関係で6項目に分類した短歌を順に読んでみましょう。

 次の「母である自分を内省した歌」中の一首「花瓶の白きダリヤは哀れなりいく人の子を産みて来にけん」について。これは子どもを身ごもって産むという身体経験を何度も繰り返すことで知った、女という性の宿命的な悲哀を白いダリアに表象した歌ですね。

 「生死の境界と別離というテーマを全面に押し出した歌」からは、「悪龍となりて苦み猪となりて啼かずば人の生み難きかな」「産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の枢」「血に染める小き双手に死にし児がねむたき母の目の皮を剥ぐ」。ここには二つの死があるんです。つまり死産として生まれた子ども。もう一つの死は和歌山県新宮の医師で与謝野寛と親交のあった大石誠之助の刑死。つまり国家的な大逆事件と非常に卑近なおのれとその子どもの生死とがオーバーラップされる、こういう対照性のあるものを一首に詠みこむのは、晶子の個性的なとらえ方の特徴での一つです。

 その次の「白き花もとの蕾にかへりたる不思議と見ゆれ子の「寸」の死よ」「生みつるはこの白蝋の子なりしと二日の後に指組み思ふ」。こういう生死の境界線を垣間見るときに晶子の創作能力は常に高まる。これは創作者の立場から言わせていただくと、愛と死は短歌をつくる根本的エネルギーを発露するものだとつくづく思うのです。

 次は「日常生活の中に発見する子どもへの愛青を詠んだ歌」の項をご覧ください。「少女子は魚の族かとらへむとすればさまよく鰭ふりて逃ぐ」「子らの衣皆新らしく美くしき皐月一日花あやめ咲く」。二首目は完璧といってよいほどに整った歌ですね。

 「楽しげに子らに交りてくだものの紅き皮むく世のつねの妻」の歌からは、平和で心満たされた家族の風景が母と妻の立場からとらえられています。

 その次は「物語的、童話的な広がりを持つ歌」の項目。想像の世界を描くのに、現実からいかにイメージを飛翔させているか、飛翔力を強く感じさせます。何とも優しくおおらかで、楽しい。「あかつきの風の童の来るに逢ふしろきうばらのきぬぎぬの路」「おどけたる一寸法師舞ひいでよ秋の夕のてのひらの上」。特に二首目は教科書にもよく採用され人口に膾炙してきた歌でしょう。これは晶子の非常に大事な一面で、理の世界を軽々と超越する晶子の奔放なまでの想像力は、独特でありつつ短歌形式の可能性を開くものだと思うのです。

山本 千恵

 ありがとうございました。これから、会場の皆さまに代わり、私がお3人に質問する形でと思います。

「二人の女の対話」になぜ着目したのか

太田 登

 やっぱりヨーロッパで彼女がつぶさに見た女性の自立の姿を、それが理論的にも、あるいは実践的にも女性の自立は必要だという体験が、この「二人の女の対話」に具体的に結実したと思います。もう一言つけ加えると、第一の女の意見も、第二の女の意見も、ともにこれは晶子の意見だと思います。だから第一の女が否定的に発言しますが、これもやっぱり晶子の思想の一つの核だと考えられます。積極的なものだけではなくて、そういう消極的な部分も含めて晶子の思想に血となり、肉となっていったと考えています。

ヨーロッパから帰って、改めて日本を考えようと自覚した強さとは

太田 登

 日常的な現実の生活を踏まえてこそ、自分の芸術は花開くという、そういう考え方がはっきりと出たと思うんです。みだれ髪の時代の晶子は、どこかで夢見る乙女の残映を引きずっているわけです。そういうロマンティシズムを客観視できる現実感覚を大切にする。私たちは人間として日常を生きているわけで、その日常を芸術の高みに引き上げていくという、その力が晶子にはあったと思うんです。そういうふうに私自身は、日常と晶子との関係を考えています。

異文化理解、国際性の視野は

太田 登

 異文化理解にしても国際性の視野をもつという点で、ナショナルな考え方とインターナショナルな考え方。ナショナルな部分とインターナショナルな部分と、その両面をきちんと自分の思考軸として晶子はもっていたと考えています。21世紀に生きる私たちは、その晶子の考え方を学ぶ必要があるんです。それがないと、本当の意味の異文化理解という国際性の視野も、ただ題目を唱えているだけに過ぎないので、もう一度改めて晶子の三面一体の生活の問題提起をじっくりと考える必要があると思っています。

文化学院について

平子 恭子

 文化学院の教育というのは、芸術教育の占める割合が非常に大きいんです。芸術教育によって人間の心を穏やかにし、人を愛する、そういう人間を形成するという、晶子はそういうことを念頭に置いて芸術教育ということを考えたんだろうと思います。

 それから、やはり晶子がずっと主張していました教育の民主主義思想、教育の機会均等である男女共学です。晶子がずっと主張し続けてきたんですけれど、生存中は公教育に於いては結局実現せず、戦後になって初めて日本は男女共学を中学校で採り入れたわけです。男女が一緒に勉強するということを、先に実行した学校であったということと芸術教育による精神陶冶の教育を実践したことに私は、心惹かれました。

出産を通じて感じたこと、そして夫と晶子は

山本 千恵

 晶子は190(明治42)年、第五子の出産で女性の価値を直感しました。死を覚悟し人間を産み継ぐ大役を負い、「常に新しい人間の世界を創めているのは女性だ。両性の関係は生殖のみでなく、全体的なものだ」と、人生の共同参画を提言するのです。「女は家庭へ帰れ」でなく、「むしろ父性を保護せよ」と、生活への平等の愛を主張した初めての人です。「愛情の民主主義」と両性で創造する家庭を彼らは生きました。その中で、夫の存在が晶子の味を出したとも言われますが。

平子 恭子

 晶子が1人、この社会にいただけではどうにもならなかったと。そういう意味で、夫が導いてくれたという気持ちがそこにあって、それと同時に自分も成長していったんだという、寛と晶子は1組の男女であったと。それで夫婦としてはいろいろあるけれども、やっぱり離れられない愛情に結ばれていたと思います。

童話のどこにひかれるか

松平 盟子

 私はかつて『母の愛 与謝野晶子の童話』という晶子童話の魅力を伝えるのを目的とした本に関わりました。『おとぎ話少年少女』1910(明治43)年の巻頭の一文で晶子は、幼い子どもたちに寝物語のように語り聞かせたものがお伽噺の発端であったと書いています。現実にはその通りなのでしょうが、それと同時に子どもに物語を聞かせている間に、子どもに何を与えることが教育の根本に繋がるのかを彼女が見出していく、そのプロセスに私は興味をもちました。巻頭の「はしがき」には具体的にこう書かれています。「初めのうちは世間に新しくできたおとぎ話の本を買って読んで聞かせるようにいたしておりましたが、子どもをのんびりと清く素直に育てよう、広く大きく楽天的に育てようと考えている私の心持ちに合わない…」

 私は、晶子の能力の大きさというのは、生活実感に始まって一つずつステップを踏みながら思索し、思想的見解にまで高めた、その飛躍力だと思います。男女の対等を解きながら、それを子どものもつ可能性という地点で把握しようとしたところも素晴らしいと思います。

会場からの質問回収

山本 千恵

 では、回収しながら、後で拝見しますので、次に。あしたからの私たちに伝えたいと思う晶子のメッセージを一言ずつ、そして今後どのようなことをめざされたいのかございましたらお願いします。

今日、あなたに伝えたい、晶子のメッセージ

太田 登

 一つは、晶子の存在というのは、やっぱり夫、寛があってこそだというのがポイントです。これは先ほどの母性と父性との関係にも当てはまると思います。晶子の大きな仕事は、みんな背後に、あるいは傍らに夫、鉄幹という存在がありました。つまり晶子だけではなくて、晶子をそういうふうに支えた夫、鉄幹の存在をもっと知る必要があるということが一つです。

 あと、最後のつもりで伝えたい言葉に移ります。「自由に歩む者は聡明な律を各自に案出して歩んでいくものである」。平たく言えば、晶子の偉さは生き方と暮らし方が見事に一体化していたわけです。きちっとした暮らし方があって、なおそれをばねにして自分の生き方を貫いた、そういう意味では大変生き方と暮らし方がバランスよく取れていたわけです。もう一つ、『草の夢』という1922(大正11)年の歌集の巻頭歌です。「劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」、この一首に晶子の芸術観、人生観、すべてが凝縮していると思いますが、この点をもっと私たちは考えていく必要があると思っています。

 晶子という女性表現者がもっと堺から世界に発信するために、私たちが自覚し、認識しなければならないのは、私の持論で言いますと、晶子は堺だけのものではなくて、世界遺産であると。これはもう常々私の持論として述べているのですが、堺の人も、それ以外の人も、晶子という存在そのものが揺るぎのない世界遺産であるということをもっと積極的に発信していく必要があると考えています。

平子 恭子

 与謝野晶子の評論集の中から、メッセージとして晶子の言葉を幾つか紹介したいと思います。「女性の地位がこんなにまで低落したのは、その原因を男子の横暴にのみ帰しがたいことを知つた。女性の頭脳は、遠い昔に於いて、或進化の途中に低徊したまま今日に至つた感がある。私は女性が本質的に男子に比して劣弱なものであるとは思はない。しばしば天才婦人の現われるという事実が、女性もまた男子と対等に進化し得られる性質を備えていることを暗示して居る」

 「私たちの求めるものは、男子と対等に人間の義務を果し得ることの自由と、対等に義務を果し得る婦人が、男子と対等の待遇に浴することの自由とである。さうして、私等の自由は男子から恩恵として授けられる性質のものではなく、実力を持って婦人みずから獲得しないではならない性質のものである」「女子も人間である。人間として必要な生活は、女子もまた男子の要求し得る如くに要求し得る筈である。女子は男子と同じく生殖生活を尊重する。同時にその他の重要なる生活にも男子とともに参与する。人は、男女と云う性別を第一の標準にしてはならない。人間であることが最上の標準である。人生の一切の活動には、だれも人間としてその能力に従つて自由に参与する外はない。専ら男子として又は女子として活動の分担を考へることは間違ひの本である」

松平 盟子

 歌人の立場から申しあげると、短歌は「歌」と言われるように、オーラルで味わう朗読や、それを耳から聞くことはとても大事だと常々感じています。

 それから晶子についての勉強会やシンポジウムは現在もしばしば行われていますが、歌人、文学研究者、女性学研究者などといった枠を取り除き、今こそ領域を越えてそれを統合的におこなう時代に入ったと思います。晶子は1人なんです。1人の人間が書いたものを、ジャンル別の、分散化した形で研究する時代は、もうそろそろ終わりにしたい。全体像をつくり上げていく時代に入ったのではないかと私は思っています。

まとめ

山本 千恵

 まとめに入ります前に、質問に、「君死にたまふことなかれ」にみられたような晶子への迫害は?とありましたので、少し申しあげます。晶子は大正デモクラシーという民衆の時代に、さまざまに花開く思想・文化の先頭にありました。けれど、それは明治以来、「君死にたまふことなかれ」に見るように、迫害もされました。50歳のお祝いの翌年の満州事変以降、日本は戦争の時代にはいり、晶子は自由な言論を封じられ原稿の依頼を失います。世界に通じる著作をと、学問暦、西暦を1930(昭和5)年12月まで使います。が、それを非国民と罵られました。晶子は、太田さんがおっしゃるように、「世界に通じる文化遺産」なのですが。それをお伝えしてまとめに入ります。

 きょう、「堺フォーラム、晶子からのメッセージ」としてお3人の方からさまざまに大きなものを語っていただきました。

 私はやはり、晶子の豊かさということが胸に浮かびます。「恋」という詩があります。礎に2人の命、真柱に愛を置く、層ごとに学と芸術、汗と血を塗り固めるという生き方を、彼ら夫婦は実際やったのですね。

 皆さんの発言に感じましたことは、現実を土台にして、そこを糧として生きた女性であると。相手を尊敬して生きるという、お互いに夫が妻を、妻も夫を尊敬するという、子どもに対しても上からものを言わないと、晶子は言います。両性が共に真剣に生きるエチケット、それが人間の進歩だと、私は今もそう思います。

 私が晶子からの現代へのメッセージとしたいのが、「わたしは掘りたい、自分の力で、深い、深い、人間性の井戸の一つ」という詩です。

 そして「自尊と刻苦の、真に自由な人生」を訴えた晶子により期待されたのが、女の政治でした。1915(大正4)年頃から、晶子は発言しています。「婦選の歌」にあるように、晶子の考える政治は、「生活の喜びと悲しみにかかわる重大な機関」だということです。女性は政争ではなく、生活の幸福を実現する公平と全体性をめざせ、国の政治を家事の一部とせよ、というのです。

 「婦選の歌」にすべてが尽くされています。この最後の部分を、あらためて心したいと思います。

 今もこの世界をおおう、「険しき憎しみ」と荒々しさ、「粗野」に勝つのは、女性である「我らの勤労、愛と優美」であると。「勤労」、女性の働きを入れているところが大事ですね。女性が憎しみに立たず、優美に生き、その力が本当におよべば、初めて平和の光があるだろうと。

 さて、この晶子を生み出した、大陸の基地、自由貿易の自治都市、商いの町衆のこの堺が、昨日、今日、晶子の「山の動く日きたる」という詩に生きています。物の始まりみな堺!ですとか、私は今回初めてこの言葉を知ったのですけれども。「山の動く日きたる」と若い女たちの門出を祝ってから、約100年、女性の目覚めこそが社会を、人間を変えていくと、先がけて呼びかけた晶子を生んだ堺が、今年、その発信地となり、世界、宇宙へ、人間の平等と持続可能な地球の実現へ、立っています。

 最後に思うことは、晶子はその現実に立ち、逃げずに、学び深めることで巨大な力をつくした。晶子は「一人の我を貫き、人の世と天とは通ず、おもしろきかな」と歌っています。つまり、一人ひとりが自分の持ち場を尽くせば、それは必ず天とつながる、地とつながるというのです。ひとつでも、その持ち場を尽くせば、世界は変わるのです。

 この「日本女性会議2009さかい」にご参加の皆さんが、いま、晶子のように、新時代を生きている、世界の憎しみを変える、女性の力で平和へ変える、その未曾有の時代、転換点に生きているという意識をおもちになれば、あと、10年たてば世界は、いえ、変えなければいけないということを申しあげて終らせていただきます。

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