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新しい女性(ひと)の時代へ ~ジェンダー主流化アプローチがつくる未来~

更新日:2012年12月19日

講師 
赤松 良子(あかまつ りょうこ)
(元文部大臣・財団法人日本ユニセフ協会会長)
樋口 恵子(ひぐち けいこ)
(NPO法人高齢社会をよくする女性の会理事長)

現代日本の女性のリーダーであるお二人の講師。赤松良子さんは、均等法の母であり、樋口恵子さんは高齢社会における「女性力」を見事に位置づけるエキスパートです。そんなお二人が、これからの未来社会に向けて、ジェンダー主流化アプローチ、つまり、すべての分野をジェンダーの視点で見直し、改める所を改めて再構築していくことの重要性をお話しくださいました。お二人が描く“新しい女性(ひと)の時代”とは、果たしてどのようなものでしょうか。

「われも黄金の釘一つ打ちたい」と思った少女時代

樋口 恵子

 私と赤松さんは長い長いご縁でございまして、大学も先輩後輩です。学年も生の年齢も三つしかちがわないのに、何だか30年も歳の差があるぐらいに威張られております。赤松さんは、今年お幾つになられましたか。

赤松 良子

 このごろ自分からも80歳よと言っています。若いときは、あんまり年をとりたくないけど、80ともなればすごい自慢ができるからうれしいんです。

樋口 恵子

 そのとおりだと思います。80の赤松と77の樋口は、どう転んだって先が見えた年寄りだ。今のうちに2人を集めて話を聞こうというのが主催者の魂回ですよ。ということで、まず最初に、自己紹介を含めて昔話から始めようではありませんか。

赤松 良子

 なるほど、「傘寿の赤松、喜寿の樋口」。では、せっかく堺に来たんやさかい、堺のお話から。私の自己紹介は、「堺、与謝野晶子、赤松良子」と三題話でやろうと思っています。

 堺は私の生まれた大阪市天王寺区に割と近いです。湊、諏訪ノ森、浜寺と順々とある海岸へ小学生のときから泳ぎに行きました。きれいな砂浜で泳いでおりました。すごくおてんばな女の子でございました。

 でも、小学校のときはまだ与謝野晶子を知らなかったかな。女学校の1年生の国語の教科書に「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」という、与謝野晶子の歌が出ていましたね。

 今日お会いする方も「みなうくつしき」という感じだけど、この歌はロマンティシズムとの最初の出会いみたいな感じで、すごくいい歌だなと思って覚えた。60数年前のことですが、そのとき覚えた歌はいまだに忘れない。その後、いろいろ与謝野晶子の歌は幾つも幾つも聞いたり読んだりして覚えました。

 7、8年前、ここ堺で講演のご依頼があって伺いましたら、台風でその講演が流れちゃったの。これを奇貨として、歌碑めぐりをさせてもらったことがありました。まずは与謝野晶子の生家へ連れて行ってもらった。ようかん屋さんだったんだと。与謝野晶子はようかん屋の娘だったというのは、子どものときから知っていたし、私の覚えている歌がたくさんあったから、いいぞいいぞと思って見て歩いた。その中で、私が一番好きやったのが、「劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」。私はすごく好きだったんですよ。

 というのは、与謝野晶子はとてもフェミニスト、それもラディカルなフェミニストだと私は認識してるんです。いい歌をつくり、すごくラディカルな評論を書いたと。初めはロマンティシズムで歌ばっかりだったけど、だんだん自分がフェミニストに育っていったから、フェミニズムの評論もちゃんと読むようになった。

 私は歌詠みにはちょっとなれないけど、もっと別の面で「われも黄金の釘一つ打とう」とずっと思っておりました。そうやって育ってきた私でございます。

樋口 恵子

 赤松さんの黄金のくぎが何であるか、これは少し後でお話を伺いたいと思いますけれど。ところで、おてんばな小学生とおっしゃいましたが、小学生のころの思い出とか、今日の男女共同参画に通じる、いわゆるジェンダーについて、子どものころ何か感じたことはありますか。

「売れ残りの恐怖」「返品の恐怖」

赤松 良子

 私の子どものころは戦争の前で、戦争が終わったのは15歳のときですから、ジェンダーという言葉なんか全然知りません。もう女の子なんて数のうちに入らないような状態だったのです。それできょうだいもいっぱいいたし、女の子なんかいてもいなくても、大体、戦争に行けないじゃないかと言われた。それから大学だって、男性が行く大学には女は入れないシステムだったんだから、腹立たしいじゃないですか。

 そのころは長男がもう威張りくさっていて、「この家のものは、かまどの下の灰までおれのものだ」と言う。腹立たしいね。私は与謝野晶子の薫陶を受けていてフェミニストだから、そんなこと許せないわけ。ただもう何となく腹立たしい思いがうっせきして、戦争の終わりを迎えたんですよ。

樋口 恵子

 今65歳以上の方なら、似たような経験を少しずつどこかにお持ちだろうと思います。私は東京生まれの東京育ちでございます。貧乏学者でしたけれど、子どもの教育には熱心な家に育ちました。姉が早く死んでしまったので、実質上、兄1人、私1人でした。親には、「庭先に土地を買って家を建ててやるが、婿養子を取るほどの金はないからどこかの次男坊の嫁になれ」と言われました。いわゆる「嫁」には行かなくていいと言われて、とてもうれしかったです。

 でも私は赤松さんより少し気の小さい少女ですから、非常に前途を憂い、取り越し苦労ばかりの少女時代を過ごしました。

 なぜかというと、聞こえてくるものがろくな話じゃないからです。母親が昔の手まり歌を教えてくれまして、いまだに鮮明に一行だけ覚えているのは、「しゅうとがじゃけんでいられない」と言う歌詞です。結婚してお嫁に行っても、「しゅうとがじゃけんだと居場所がなくなる」のかしらと。

 だんだん物心がついてくると、周囲から「恵子さん、そんなお行儀では、いいところからお嫁のもらいてがありませんよ」と言われ、次に、「お嫁に行っても、そんなふうでは追い出されてしまいますよ」と言われます。実は、このセリフは、現在60歳以上の女の人が、少女時代によく言われたセリフではないかと思います。常に「売れ残りの恐怖」と「返品の恐怖」に追い立てられながら育っていたのが、戦前の少女だったと思います。

 私は今は、今度生まれるときも女に生まれたいと思っておりますが、長いことやっぱり女に生まれるのは嫌だなと思ってきました。これは母親から聞いた悲しい物語ですけれど、私の生まれる少し前のことでございます。そのころ東京の目白付近に住んでいました。土地はそのあたりの大地主の借地でした。あるとき、その地主のご一族が、花嫁を迎えましたが、来てすぐに、妊娠しました。昔の良家の子女というのは、昔の言葉で言えば処女を守り、親の言われるままに嫁ぎ、嫁いだ初夜が排卵日だったのでしょう。それだけの話なんですけど、いろいろ罪深い言とつきとうか葉がありました。「十月十日」ということを信じている人にとっては、1か月早過ぎるということになったのです。そして、「あの嫁は、土産を持って嫁に来た」、つまり別の男性の子を妊娠したあとで結婚したのだと言われました。しかも、生まれた子が父親とは似ていなかったために、ますます疑われて、6か月ぐらいになった子どもを背負って、その母は鉄道自殺を遂げたのです。

 私は妊娠のメカニズムを少しわかりかけていた年頃だったので、本当に恐ろしいと思いました。

 そのころ、一方で知り合いに子どもが生まれないからといって離婚になったお嫁さんがいました。産む性である女であることは何とややこしいことなのだろう。いっそ、男に生まれた方がいいと思っていたのです。でも、戦争が起こると一番最初に死にに行くのは若い男たちであるということもわかりました。男も嫌だ、女も嫌だ。当時、私はかなり厭世的な少女でした。今でも自分では、陰のある性格のつもりなのですけれど、皆様には苦労がなさそうだと言われております。

 だから、私は戦後がうれしかった。戦争が終わって昭和21年、1946年4月10日に投票に行きました。これで日本は男女平等になり世の中が変わる。そのうちに新しい憲法ができた。これで一件落着、パンザーイと思っていたら、意外や意外。そうではなくて、たくさんの厚い壁が行く手を阻んでいました。その中で、私たちは及ばずながら、くぎを打つべく悪戦苦闘してきたわけでございます。

 赤松良子さんが男女雇用機会均等法制定に至る行政側のキーパーソンであったということは、皆様ご存じだと思いますが、その聞のご苦労、当時の女性の地位などをお話いただきたいと思います。

女性のf30歳定年制」があった時代

赤松 良子

 皆さんが選挙に行く、私はこれで世の中変わると思いました、39人も当選したんだから、ある程度は変わりましたよ。だけど、またやっぱり揺り戻しが来るんですね。

 私は津田塾と東大を出て婦人少年局という、労働省の中の女性の地位向上という仕事をするところへ入りました。婦人少年局にいたときは、女性の地位の向上が仕事なんだから、どんどん言っていればいいんですが、やっぱり女性だけの職場にいたのでは一人前になれないだろう、男社会の中へ飛び込んでいこうと賢明にも思って、あえて転任を申し出て、労働基準局へ行きました。ただ、私は転任するときに「私はお茶くみはしません」と断言して行ったから、お茶くみはさせられなかった。そのかわり冷ややかな態度をされたと思います。そういうところをいろいろめぐって、また婦人少年局へ帰ってきた。

 そしたら今度は、婦人少年局の地方部局があるでしょう、そこからいろいろ問題が上がってくる。その中に、「30歳の女性の定年制」というのがあった。女性は余り長く働いてもらったらとうが立つ。とうの立った子は早くやめてというので、30歳定年というのをつくって、労働組合も賛成したと言うんですよ。

 それで私は、「きちんとした文書を書いて、これを局長名で流しましょう」と言った。「女の人にだけ30歳の定年を設けるなんていうことは、憲法の男女平等の原則に反して、公序良俗に反する法律行為で無効になるおそれあり。是正されたい。」という文書を流そうとした。そしたら、局長にストッフかけられちゃった。公序良俗に反するとまでは、言えないとおっしゃった。

樋口 恵子

 局長さんも女だったんですね。

赤松 良子

 女だけど常識的な人なのよ。

 無理よとおっしゃったから、もうしようがないわとあきらめた。何でそんなことを言われるかと言えば、法律がないからなんですよ。だから、ちゃんとした法律をつくらないといけない。私の理屈では、「公序良俗に反する」と言いたいけど、そこまでは言えない。

樋口 恵子

 そのころの社会常識では、結婚したら女性は家庭に専念するためにやめてというのが、一種の伝統的公序良俗だったわけですよね。

赤松 良子

 あなたも、結婚してやめはったやん。

樋口 恵子

 はい。さっさと結婚して1児をもうけ、家庭にいたのですよ。後にこの心境を、アメリカのベティ・フリーダンが「The FeminineMystique」という画期的な本を書いた中で、社会から隔絶された専業主婦や若い母親の憂うつを心理学的にきちんと解明してくれましたけれど。

 子どもが2歳ぐらいになりましたころ、現在のアジア経済研究所で、「編集のできる人」という臨時職員募集の新聞3行広告がありました。それで私は入社試験を受け、臨時職員として採用されました。しかし、私は子どもを持っているし、長いこと勤まるかどうか不安でした。

 そしたら、勤め続けられそうなんです。だから、私は正職員登用の試験制度があると知って、それを受けようと思いました。その矢先に、アジア経済研究所では正職員であっても女性が結婚したら退職しなければならないという内規があることがわかった。正職員ですら結婚すればやめさせられるのに、私は既婚・子持ちということを承知の上で、臨時職員だから採用してくれたということがわかりました。正職員に昇格なんて男性と未婚女性にはあり得ても私には絶望的です。

男女にかかわりなく働き続ける権利を追求

樋口 恵子

 このアジア経済研究所の若い女性たちを、今でも尊敬しています。労働組合も何もない時代に、夜な夜な集まって理事者側と交渉し、やっと“嘱託”というそぐわない名前ですけれど働き続けることを実現しました。これはやっぱり女性同士の連帯とエンパワーメントの経験として心の底に残っています。私が今日まで仕事をしてこられたのは、学歴とか職歴にこだわらないで、新聞広告で見つけたところに、素子でアタックしたからだったと思っています。

 アジア経済研究所に見切りをつけて次に、学習研究社(学研)の試験を受けたら、次から次に部局長面接があったのですが、「困りましたな、これは」「我が社は共働きはいいんですけれど、妊娠6か月で退職の内規がありまして、子どもを持っている女の人はだれもいないんですよ」と。当時でも、これは、労働基準法違反だったと思います。しかし、まかり通っているわけですね。学研の募集している編集部は、保育に関する編集部でした。「保育を担当する編集部で母親を拒否するようなことでよい雑誌ができるはずがないでしょう」と反論しているうちに、局長と部長が相談を始めた。「当社の内規は妊娠6か月で退職だけど、子どもさんは2歳と言ってましたよ」「そうか、じゃあいいのか」ということになって、とんとん拍子で採用されたのです。

 私が最初に入った時事通信社でも、今で言う環境型セクハラというのはあったと思います。「ババアがいてもジジ通信」なんて中年男性が笑っているんですから。ちょうど住友セメントの結婚退職の訴訟が始まったころであり、私は自分のライフワークの一つとして、“職場で男も女もなく働き続ける権利を追求していこう”と決心しました。

 そのころ、本当はせめて「公序良俗という視点から違反のおそれがある」ぐらいのことを書きたかったのに、常識的な上司に阻まれて日本の現実を知り、しばらく臥薪嘗回、赤松官僚、赤松良子の冬が続くのであります。

赤松良子

 それで、この現状を何とかしなきゃいけないと思いました。世界中の女性を取り巻く環境はどんどん変わっていく。「世界の常識が日本の非常識」。つまり、「私が世界の常識を持っているから、日本では非常識にされる」という時代が続きました。

 これを大きく変えたのは、1975年の「国際女性年」。その後に続く「女性の10年」です。加えて、1979年に国連で採択された女性への差別撤廃条約、これは大きかったと思います。

 そして目標もつくった。「女性の10年」の終わる年までに条約を批准したい、それには法律が必要。その法律は、婦人少年局長である赤松良子の肩にかかったのであります。

樋口 恵子

 そして、まず突き当たった壁は何でしたか。国会ですか、それとも経済界ですか、それとも一般の民意ですか。

赤松 良子

 対国会は最後の段階なんです。きちんと法案ができて、法案を出すところまで行けば、その頃は政府案はたいてい通りました。しかし、そこへ行くまでが大変でした。

 根回しのときは一番大変でした。そのときの相手は、財界もあれば労働組合もあれば、一般の女性の団体もあった。

 最初は財界が、「そんな法律をつくって職場で女性を差別してはいけないということを言ったのでは、日本の経済力が世界に負ける」と言いました。「そうではないでしょう」ということを説明するのは、やっぱり大変だった。

 次、労働組合は何と言ったかというと、「女性差別をなくすために、例えば労働基準法の中にある、“女性だけを特別に保護している条文”を整理しなければいけないというのには反対だ」と。また、やっと法律が何とか形を整えて出てきたときの女性団体の、「何だ、こんな程度の法律か」という反応も痛かったです。

「介護保険」もジエンダーの問題

樋口 恵子

 そのような悪戦苦闘の結果、10年後の見直し規定があったことで、今はかなりいい法律になっていると思います。

 にもかかわらず、妊娠した働く女性が出産までに7割がやめていく。結果として、日本女性のM字型就労は変わらない。そして、日本の女性の就労率は世界的に見ても大変低い。つまり、妊娠・出産して働き続ける比率は、そんなに均等法以前と変わってない。これからがまだ大変です。

 私も一言いいますと、これもまた大変な反対と激論の中で介護保険制度創設にかかわりました。

 高齢者の介護を社会的にみんなで支え合っていこうということは、基本的に男女の差はないように見えますけれど、実はかなりのジェンダーイシューでありました。

 つまり、家族介護は「長男の嫁が見るのが当たり前」という状況でしたし、もうそのころから日本の高齢化は急激に進んでいたので、昔の嫁とはまるで条件がちがっていたんです。だから、「介護保険制度」は高齢者福祉の問題としてすんなりいくかと思ったら、日本の伝統的家族制度にもとるという反対論が起こりました。それでも地方自治体の首長さんなどが最終的に了解されたのは、実態を見ているからで、やっぱり現状は新たな政策が必要だなということになったのです。

 施行6か月前になったとき、政権政党の有力な筋から、介護保険法施行6か月延期、そして家族現金給付復活という大きな方針が出されました。結果は延期せずには済みましたが、保険料の徴収は6か月凍結した。これは激変緩和という意味で、後で思うとよかったかもしれませんけれど。

 実は、一見、男女差別の問題ではないと思われるところにも、すべて伝統的な男女の地位や性別役割意識というのが存在し、日本の制度を前人未踏、人生100年型社会にフィットさせていくことを妨げているわけであります。

 そして今、日本でも政権が交代しましたし、アメリカも変わりました。思えば、戦後60数年の中で最も大きなチェンジが行われている時点に、私たちはここに居合わせているということをお互いに確認し、これから本当によりよいチェンジをどうつくっていくか、一緒に知恵を集め合い、力をつけ合う、エンパワーメントし合うというのが、この日本女性会議、特に堺の役割だと思っております。

 さて現状、現在の内閣に望むこと、それから国際的な動きと比べて現状をどうごらんになりますか。

女性の「一票を 女性議員の当選に結び付けよう

赤松 良子

 この政権交代でも、女性の問題は、余りチェンジはなかったんじゃないですか。これから起こるかもしれないけれど。だから、もうちょっと女性の問題を考えてもらいたいと思います。何しろ、現状では、女性の参画が少な過ぎます。この前の選挙で女性は女性議員の増加に余り寄与してないみたいなの。分析すると、男の票が寄与していたようです。かわいい若い女性の候補者が怖いおじさんをやっつけていましたが、その場合、女性の票が女性に余りいってないのが現実です。

 アメリカでは、「エミリーズ・リスト」というのがある。これは民主党の女性を応援するためのNGOだけど、そのスローガンは、「When women vote, womenwin!」「女性がたくさん投票に行こう、そうすれば女性が勝つんだ」というのが、アメリカの選挙を応援する団体のスローガンなんですよ。ところが、日本の場合は「When womenvote」の方は、女性参政権があって選挙にだって行くんだけど、それが女性の選と結びついてない。これはいかがなことかなと思っています。

 この8月、国連の女性差別撤廃委員会が出した、日本に対するジェネラル・オブザベーションで、とても厳しい見解が出た。例えば教育基本法の第5条は、「男女共学」というのがちゃんと書いてあったのに、その条文を消したのは何事かと指摘されている。だから、“後退した”ということを私たちは認識すべきで、今度の内閣はその見解をちゃんと受けとめて対応し、この次出すときはせめてそんなこと言われないようにしてほしい。それを回復するために、今日を出発点として、この次はまともな報告が出せるようにしてほしいと思います。

「性別役割分業をのツケがもろに出ている日本の高齢社会

樋口 恵子

 今の女性差別撤廃委員会からの評価について、日本で差別を受けている人が、直接、国連の差別撤廃委員会に申請できるような選択議定書というのも、日本はまだ批准していない少数派の国の一つでもありますし、「選択的夫婦別姓」についても、今いろんな不自由を受けている人が現実にいるわけじゃないですか。「仕事を継続する上で本当に不便をしている人がいるときに、選択できる制度ぐらいが何であって悪いんですか」ということを、大きい声で言えない雰囲気が、まだ日本の中にあります。すぐ「家族が破壊する」ということばが返ってくる。

 新しい政権政党の中でも特に男性は、「夫婦選択別姓、絶対やりましょう」という雰囲気ではない。恐る恐る「お取り上げくださいますようお願い申しあげます」という感じ。私たち、とても特殊な国に住んでいると思いましょう。

新しい女性(ひと)の時代ヘ ~ジェンダー主流化アプローチがつくる未来~の写真2

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