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わたしたちの川 内川・土居川

更新日:2023年7月12日

わたしたちの川 内川・土居川の地図昔の内川・土居川の地図

はじめに

堺の中心部を流れる内川(うちかわ)土居川(どいがわ)は、400年にわたり堺のまちを見守り、舟の運航や排水路として堺の発展を助けてきました。堺の都市化とともに、川は利用されなくなり、工場廃水や生活廃水で水質は悪化し、「ヘドロと悪臭のする川」になってしまいました。最近ではみんなの努力によってだんだんと水がきれいになり、いろいろな魚や鳥が住むようになってきました。

さらにみんなできれいにし、内川・土居川が堺の顔となるように、この川について知り、考えてもらいたいと願って本書を作成しました。

現在の内川・土居川は、総延長4.72キロメートル、流域面積7.96平方キロメートルで、大阪湾に流入し、二級河川に指定されています。雨の時以外に流れ込む水はほとんど無く海水が川に入っています。このような川を感潮河川(かんちょうかせん)といいます。海の潮の干満によって川の水が流れ、干潮に向かうときと満潮に向かう時で流れる向きが変わります。

内川・土居川の画像

土居川の起源

15世紀から16世紀にかけて、堺が日本一の海外貿易港として栄えた時、まさに世の中は戦国時代となりました。日本各地で戦がおこり、町が焼かれました。堺では貿易で富を得た商人たちが、町を守るために、西は海でほかの三方には濠(ほり)をつくり、入口となる橋には門や門番をつけ、外から敵が入れないようにしました。そのため堺は平和な町としてますます栄え、海外にも紹介されました。その濠(ほり)が土居川の始まりです。

しかしその後、日本を統一した豊臣秀吉は濠を埋めてしまいます。そして秀吉が死に、徳川の時代になった1615年、大坂夏の陣では豊臣方が火を放ち、堺は焼け野原となりました。徳川幕府はすぐに堺の町を復興し(元和(げんな)の町割(まちわり))、町を碁盤(ごばん)の目に区画し、その周りに濠をもう一度掘りなおしました。これが今の土居川で、元の土居川より外側にほられています。川に「土居」という土の堤防を築いたというのが、土居川の名前の由来と言われています。

圖面斷横部東街市

土居川の断面図土居川の断面図(堺市史第3巻より)

大和川の付け替えと土居川の変化

大和川は、奈良盆地の水を集め大阪に流れ柏原で河内長野方面からくる石川と合流し、昔の大和川はこの地点から北方向へ流れて、大阪城の北で淀川に合流していました。しかし、大雨のたびに河内平野(今の大阪市・東大阪市・八尾市)では水があふれて田や家が流されるなど、大きな洪水の被害が出ていました。そこで今から約300年まえの1704年にその地域の洪水を防ぐために西の堺に向け川の付け替えをしました。それが現在の大和川です。

堺の港は、日本中の大小の船がたくさん出入りする、にぎやかな港でした。しかし付け替え後の大和川は多量の土砂を運び、港は浅くなって大きな船の出入りができなくなりました。海岸もだんだんと土砂で埋まり、河口には、新しい土地(南島新田や松屋新田など)ができました。

港や海岸が埋まったことから、土居川の水が海へ流れなくなったため、昔の海岸線ぞいに濠を掘っていきました。これが現在の「内川」です。こうして土居川と内川はつながり、堺の四方を囲む形の環濠(かんごう)となりました。

しかし、堺の人々の土砂との戦いは続き、港を何度もつくり直したり、内川・土居川も毎年のように浚渫(しゅんせつ)をする必要がありました。

大和川の地図

(堺の港の移り変わり 「わたしたちの大和川」より)

戦後堺の復興と土居川の埋め立て

第2次世界大戦では空襲により焼け野原になった堺ですが、戦後の復興で新しいまちづくりが進められました。しかしその頃には物資を運ぶ方法も水上から陸上輸送にかわり、川は利用されなくなりました。道路網の整備とともに昭和40年代はじめには四方を囲む内川・土居川のうち、北側と東側は埋められて道路になりました。また、急激な人口増加や産業の発展により、工場廃水や生活廃水が大量に流れ込むようになり、川の水は真っ黒に汚れ、ヘドロがたまり悪臭がする川になりました。人々もそのような川に背を向けてゴミを捨てるようになり、魚などの生物も住めなくなってしまいました。

(堺市史資料 写真編より 堺市立中央図書館蔵)

現在の内川・土居川

堺では都市化によって空地の減少や建物の増加、道路のアスファルト化などによって、降った雨がたまったり地下にしみ込んだりする場所が減り、降った雨が一度に川へ流れ出るようになりました。また内川・土居川にたまったヘドロで川の流れは悪くなり、大雨が降れば道路や家が水につかるようになりました。そこでヘドロをとって環境を良くし洪水被害をなくそうと、昭和46年から護岸改修・ヘドロの浚渫・橋の架け替えを行なう「内川改修事業」に着手しました。

さらに平成2年からは「ふるさとの川整備事業」として、現在ある遊歩道や植樹帯、護岸などを整備して、輝かしい堺の歴史にふさわしい、人々の「ふるさとの川」となる工事を行なってきました。

水質の変化

昭和40年代初め、日本の工業地帯ではさまざまな公害が起こり、堺でも大気汚染によるぜんそくや海や川の水質汚濁の問題が起こりました。昭和45年に工場での排水の規制(水質汚濁防止法)ができ、大阪湾や堺港の水はきれいになってきました。内川改修事業のヘドロ浚渫や周辺の公共下水道の整備により、川の水が海水と入れ替わり易くなったり、家庭や工場の廃水が流れ込まないようになり、だんだんと水質は良くなってきています。

しかし、現在でも土居川の上流部では、夏を中心に水質が悪化して黒い水になったり、においがすることがあります。これは今でも家庭排水の流入があったり、土居川上流部は海から遠いために川の水と海の水が入れ替わりにくいことに原因があります。

ゴミの問題

川や水がきれいになってきた現在でもゴミを捨てたり、河川敷に犬のフンをさせたりする人がいます。川にはほとんど流れが無いので水に浮かんだゴミは潮の干満で行ったり来たりするだけで流れていきません。そして風で吹き寄せられたりします。ゴミの中には堺港の海のゴミが風で川の中に流されてくるものもあります。

水環境の再生へ(仁徳陵・内川水環境再生プランの推進)

近年、人々は川や水辺に対してうるおいや安らぎを求めるようになり、川は単に水を流すだけでなく、自然や生物の生息に配慮した川づくりをしようということになりました。
平成10年に内川水系について「仁徳陵・内川水環境再生プラン」を策定しました。内川水系の水環境再生のために水質改善のハード対策・景観整備方針・市民参加によるソフト対策を3本柱に進めています。
同プランの短期計画では、仁徳天皇陵古墳と土居川が水路で結ばれていることから、平成12年から17年にかけて、仁徳天皇陵に1日2500立方メートルの工業用水をいれ、仁徳天皇陵からあふれた水を土居川に送りました。その結果、上流部でも魚が泳ぐ姿が見られるようになりました。長期計画では、平成18年から工業用水にかわり、仁徳天皇陵の近傍ため池である芦ケ池より芦ケ池水路を利用し、井戸水を導水しています。また、平成20年に土居川への海水を導水する事業などに着手、23年から導水を開始し土居川を浄化しています。

市民の取り組み

美化活動

内川・土居川を、きれいにしようとする研究グループや清掃をするグループが10年以上前からありました。自治会や子供達も美化に取り組み、カヌーで川の掃除をする人も出てきました。今ではこのような活動が一つになって大きくなり、内川・土居川の一斉清掃をおこなうようになり、多くの人々が参加しています。

おわりに

川は悠久の流れの中で、地域の歴史や文化を育み、人々の営みを見守ってきました。しかしながら経済の発展にともない治水を優先として整備され、その効率性から直線化、コンクリート化され排水路と化した川もあります。川の自浄作用は低下しそれを上回る汚濁負荷の流入は、生物の生息を困難にするなど、その水環境は悪化しました。われわれはこのような川をかつての清らかで豊かな川に再生し次代に引き継ぐ責務があります。

川からは、地域の固有の歴史・文化・人々の生活を学び、ふるさとを実感することができます。水の問題からは、われわれの生活や産業と水のかかわり、都市化による農地や緑地の減少・森林の荒廃・不浸透面の増大、湧水の枯渇・河川流量の減少・地下水の低下・水質の悪化・洪水の増大等との関係を水循環のメカニズムから知ることができます。またごみの問題からは、廃棄物やごみ減量、リサイクル等を実践する糸口になります。

これら川を通じて、多くの環境問題を理解し、自分達の生活を見直すきっかけとし、「持続可能な社会の実現」をめざします。

川や子ども達の写真川や子ども達の写真集

協力・資料、写真提供

大阪府立水産試験場
瀬戸内海水産開発協議会
「わたしたちの大和川」研究会
堺市水何でも研究会
岡本欣也氏(百舌鳥西之町)
※この冊子は環境省及び社団法人瀬戸内海環境保全協会の支援により作成されました。(一部編集)
表紙 文久3年堺大絵図 堺市史第3巻附図より
堺市行政資料番号 3-J5-0 2-0 363

このページの作成担当

建設局 土木部 河川水路課

電話番号:072-228-7418

ファクス:072-228-7868

〒590-0078 堺市堺区南瓦町3番1号 堺市役所高層館20階

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