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鈴の宮遺跡

更新日:2012年12月19日

シリーズ 堺の遺跡紹介

弥生・古墳時代の墓域

 鈴の宮(すずのみや)遺跡は、石津川右岸の標高16から33メートルを測る自然堤防から段丘上にかけて立地し、その範囲は中区八田北・西町、毛穴町にまたがる40haにおよぶ広大なものです。現在の鈴の宮団地や都市計画道路の建設に先立ち、昭和52から60年に行われた発掘調査では、旧石器時代から近世にかけての遺構や遺物が見つかりました。

 特に、木棺や土壙を埋葬施設にもち、周りに溝を巡らせた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる弥生時代中期の墓が12基発見されました。この墓に埋葬されたであろう人々の集落の一つには、北側にある毛穴(けな)遺跡があげられます。これら石津川中流域の集落や墓域の存在は、四ッ池遺跡をはじめとする石津川流域にある他の弥生時代の遺跡との関係などを考える上で重要です。

 つづく古墳時代には、5基の方墳と壺棺や埴輪棺などの墓が築かれます。一辺が7から11mある方墳は、百舌鳥古墳群造営の開始期から盛行期にかけての、4世紀末から5世紀前半ころに築造されたと考えられます。埋葬施設は残っておらず、不明な点が多いです。また、丘陵の高所では、5世紀後半ころに須恵器を焼いた窯跡が1基検出されました。陶邑窯跡群からは離れた場所に単独で存在したことが特徴と言えます。

 奈良時代の遺構としては、木枠井戸や多数の土器を捨てた溝、火葬墓が見つかっています。これらは、この遺跡が行基の母方である蜂田氏の住む蜂田郷内にあたることから注目されます。

 平安時代後期ころには寺院があったこともわかりました。南北12メートル、東西10メートルの基壇上には、二面庇の切妻屋根構造の建物(梁行4間×桁行5間)が建っていたと考えられます。その創建は、10世紀後半から11世紀初頭で、16世紀中葉に火災で焼失したものと思われます。この寺院跡は、小字名から「仏光寺」(ぶつこうじ)跡と考えられ、建永二年(1207)七月八日の日付をもつ「河内通法寺領注文案」記載の「仏光寺」と同じ寺院であるとされています。

参考文献

堺市教育委員会『鈴の宮3』「堺市文化財調査報告」第11集 1983年3月
堺市教育委員会『鈴の宮4』「堺市文化財調査報告」第17集 1984年3月
堺市教育委員会『鈴の宮5』「堺市文化財調査報告」第32集 1986年3月
堺市教育委員会『平成12年度市内遺跡立会調査概要報告』「堺市文化財調査概要報告」第97冊 2002年3月

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