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今池遺跡

更新日:2012年12月19日

陸と海を結ぶ交通拠点に営まれた集落

 今池遺跡は、堺市北区新堀町の「今池」を中心に広がる古墳時代の集落跡です。

 遺跡の名前ともなった今池は、狭山池から北西方向に延びて大阪湾に至る谷地形をせき止めて造られた溜池で、かつては周辺を潤す「水甕」として利用されていました。遺跡の発見は、昭和50年におこなわれた市立五箇荘(ごかしょう)中学校建設に先立つ発掘調査にさかのぼります。この時には、河川跡から多くの須恵器や川岸で催された祭りの跡などが出土しました。その後、今池とその周囲で行われた発掘調査の成果から、6世紀を中心とする古墳時代後期に集落があったことがわかってきました。

 特に今池の中でおこなった第9次調査では、この遺跡としては初めてとなる6世紀後半から7世紀の竈(かまど)を備えた竪穴住居が確認され、河川跡からは大量の須恵器が出土しました。他には、飯蛸(イイダコ)壺など漁労に関連する遺物、これらより古い旧石器時代後期のナイフ形石器や縄文時代早期から前期の有茎尖頭器(ゆうけいせんとうき)などの石器が出土し、古くから海と関わりをもちながら生活する人々がいた地域であったこともわかりました。

一方、池の北東で行った第6次調査では淵状の遺構が検出され、そこから古墳時代の木製馬鍬(まぐわ)が出土しました。その背景には、田畑の耕作地が不毛とされる丘陵上へと広がっていたことを物語っています。また、第10次調査では6世紀前半の掘立柱建物が出土したことから、集落は今池を中心とする範囲に6世紀を通じて営まれていたと言えそうです。さらには、朝鮮半島南部の土器(韓式系土器)や5世紀後半の須恵器も出土していますので、集落はそのころにまで遡る可能性も指摘されています。

 ここに集落が営まれた理由には、大阪湾につながる谷地形や、大和へ連なる古代の大津道(長尾街道)が遺跡の南側を通ることも見逃せません。谷の出口付近には、古代に「榎津(えなつ)」と呼ばれる港の存在が想定され、当時大和へ通じる海の玄関口であった「住江津(すみのえつ)」(大阪市)とともに、自然の良港であったとされています。想像をたくましくすれば、古墳時代においても海上輸送に関連する港(津)として人や物資の往来があったと想定すると、物資輸送など流通路に接して営まれた今池遺跡の集落は、陸と海を結ぶ重要な役割を担っていたと考えられます。

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