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和同開珎のころ 奈良時代の美原

更新日:2016年3月18日

和銅元(708)年2月、さいじゅ銭司せんしが設けられ、初めて「和同開珎」というお金が作られました。催鋳銭司とは、鋳銭司を設置する準備のための宮司です。翌年、和銅2(709)年8月には、河内鋳銭司が設置され、河内鋳銭司は、和同開珎鋳造の中心として活動したと伝えられています。和同開珎の鋳造ちゅうぞうの総責任者に任命されたのは、多治比氏一族の多治比たじひの真人まひと三宅みやけ麻呂まろでした。多治比真人三宅麻呂は、当時従五位上の身分にあり、政治の中枢にあった藤原ふじわらの不比等ふひとが経済政策の中心に据えた銅銭鋳造の仕事を推進する優秀な官僚であり、武蔵むさしのくに秩父郡ちちぶぐんで多量の和銅が発見された折に、朝廷から採銅使として武蔵国に派遣された実績がすでにありました。

 そのころ、美原にも銅の鋳造工房が存在していました。現在の阪和自動車道の黒山と太井地区の境界あたりにある「太井遺跡」から、奈良時代に鋳造を行っていたことを示す遺物が、大きな穴の中から数多く出土しました。これらは、できあがった製品ではなく、いずれも製作工程で使用する、平城京出土の取鍋とりべ鞴羽ふいごぐちなど、鋳造に関する道具類の遺物であり、平城京の京内にあった鋳造工房で出土した遺物と同じ特徴を備えていたことから、太井遺跡と平城京とは、非常に密接な関係があったと考えることができます。太井遺跡からは、和同開珎も一枚出土しています。また、統一新羅印花紋陶器も出土しており、朝鮮半島との関わりを知ることができる貴重な資料となっています。鋳型が発見されていないので、太井遺跡で何が鋳造されていたかは明らかではありませんが、この美原で奈良時代から、銅の鋳造が行われていたことは疑いありません。

ひとことコラム 和同開珎わどうかいちん

 日本で最初に作られたと思われる貨幣。武蔵国秩父郡から自然銅が産出し、朝廷に献上されたことから、貨幣の鋳造が可能になった。丸い貨幣の中央に開けられた四角い穴の上下左右に4つの文字を配するというデザインは唐の様式をそのまま模倣もほうしたもので、その後近世に入るまでの貨幣に踏襲とうしゅうされている。

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