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堺をおもえば…旭堂南陵さん 堺の記憶

更新日:2016年4月19日

堺をおもえば…

旭堂南陵さん

「地元の堺で寄席をやろうと始めたのが、40年あまりで500回になります」

プロフィール

 上方講談の4代目旭堂南陵さんは堺で40年以上、「夢浪漫亭 おたび寄席」を月に1回開催し、今も同級生や先輩、町の人々と楽しげに交流している堺人だ。

昭和30年代の堺は自然の宝庫だった

 南陵さんは堺区にある堺山之口商店街の近くで生まれ育った。
「親父は神石市之町(かみいしいちのちょう)のほうに田んぼや畑を持っていて農業をやりながら、農協の理事にもなってましたわ。親父の貸家には横山やすしさんがおったりしてね」
 豪農のぼんぼんだったわけだ。花田口聖母幼稚園から熊野(ゆや)小学校に入学。

 「小学校の頃は、頭はよかった。1年から6年まで学級委員長やってね。でも、外で遊ぶことが圧倒的に多かったな。夏休み言うたら、仁徳陵とか今の大仙公園あたりでセミ捕りとか昆虫採集とかしてました。タヌキもおったよ。今もいたすけ古墳にようけおるやろ。野池もたくさんあったから魚釣りしたり。冬には南宗寺に落ちてる椿の実を拾うて、中の種を笛にしたり。昭和30年代ぐらいまでの堺は自然の宝庫やった。そこで育ったのはよかったね。あんまり開発しちゃいかんのよ」

たしかに、いたすけ古墳にはファミリーでしっかりいました

忘れられない[曽呂利]のあの和菓子

 海もまだ埋め立てられていなかった。
「1年生までは大浜の海水浴場で泳げたから、みんなで学校から海パンはいて歩いて行ってました。その後、3年ぐらいは浜寺に行ってたかなあ。風車で水を上げて、おっちゃんがネギ畑に水撒いたりしてたな」
 忘れられないお菓子もある。
「今もチン電の妙国寺電停前にある和菓子屋の[曽呂利]で、親父がときどき『大鏡(おおかがみ)』いう白あんをはさんだ饅頭を買うてきてくれたんです。ほんまに大きくて、切って家族で食べるのが楽しみのひとつやった。それと、当時は堺東の商店街に [電気館]があって、よく映画を観に行ったなあ」

きっかけは殿馬場中での失敗だった

 そして、殿馬場中学校に進学。
 「弁論大会に出たら、アガッてしまって1分ほどで絶句してよう喋れんかった。それで、『どんな仕事に就いても人前で話ができるようにならなあかん』と思ったんです。これが後に講談師になるきっかけになったんやから、人生ってわからんもんやね。そういえば、中学3年のときには東京オリンピック(1964年10月)があったなあ」

独特の面白さがあった泉陽高

 高校は大阪府立泉陽高校に。
 「泉陽は独特の面白さがあったな。変わったやつがようけおった。僕は体育祭になると応援団で団長とかやってました。学校の帰りには堺東駅の商店街で同級生のお父さんがやってた[モナミ]ていう喫茶店に寄り道したり。今は友達のお兄さんがやってるはずや」

大学で先代に出会い、父に内緒で……

 文科系が得意だったが、お父上に「農業せい!」と言われて近畿大学の農学部に進学。
 「中学時代の失敗があるから『人前で喋れるようになろう』と落語講談研究会に入部して、歴史好きやから講談班を選んだんです。そこで顧問だった3代目南陵に出会った。師匠には弟子がおらんかったから、『農業は誰でもやれるから、僕は講談やろう』と思うたんです」
 もちろん父上は大反対。
 「『とりあえず農協に就職せい~!』と言うから、『農協にも就職しない、芸人にもならない、大学院に行く』と。で、大阪府立大の大学院に合格して、その足で師匠のところに行って『プロになります』と言うたの。そりゃ、喜んでくれましたわ」
 大学院に通いながら、「旭堂南右」という芸名をもらって高座にも上がるようになった。

 「そのうち親父が『旭堂南右ってお前と違うか?』と気がついたけど、『もう芸名もろたから後戻りできへんわ』てそのまま講談師になったんです。悪いやっちゃ(笑)」
 しかし、きちんと大学院を修了。後に大阪芸大で寄席芸人では初めて博士号も取得した。

月1回の「おたび寄席」がもうすぐ500回

 長良川の河口堰反対など自然保護運動をしていたのを買われて、38歳のときに日本社会党から参院選出馬を要請され、兵庫県西宮市に転居。89年の参院選で当選し、1期6年を務めた。だが、堺との縁が切れたわけではない。74年から月に1回のペースで40年以上、堺で「おたび寄席」を続けている。

 「360回目までは宿院の住吉大社御旅所(おたびしょ)にある小集会所でやってたんです。10年ほど前にそこが閉鎖になったとき、『大小路界隈“夢”倶楽部』というグループが町おこしをしてると知って頼みに行ったら『やりましょう』と、それ以降は堺山之口商店街の[奥野晴明堂ホール]さんでやらせてもらってます。今年の6月で500回になるんですよ」
 「おたび寄席」は「“夢”倶楽部」のメンバーや南陵さんの同級生が手弁当で手伝い、今では毎回100人近いお客さんが集まる。
 「泉陽高校の恩師も見に来てくれはります。終わったら、みんなが一品ずつ食べ物を持ち寄って打ち上げをやる。これが楽しくて、高座より長い時間やってるんですわ(笑)」

寄席を手伝う老舗の面々、包丁も堺製

[奥野晴明堂]の奥野圭作社長は堺の活性化にも熱心な堺人だ

 寄席を手伝っている方たちも多士済々。
 「ホールを提供してくれて、運営を手伝うてくれてるのは、老舗のお線香屋[奥野晴明堂]の社長さん。ここのお線香は自然保護運動で知り合った歌手の石川さゆりさんの楽屋見舞いに持って行ったりしてます」

 打ち上げには南陵さんも手料理を持って行くという。
 「2年前に妻が他界したから、自分で料理してますよ。打ち上げにも松前漬けとかサワラのきずしとか作って持って行ってる。[堺刀司・和泉利器製作所]の信田さんにはちょいちょいおよばれしてて、ここの包丁使ってるから道具は一流や(笑)」

 もう1人、手伝っているのは幼稚園から中学校まで一緒だった河合忠克さん。
 「忠克ちゃんは家業の[河合酒店]を継いでる。堺では2014年に44年ぶりに酒蔵が復活して『千利休』という酒を作ったんやけど、ボランティアで酒造りにも参加してんのや」

泉陽OBの店は本当に個性的

 他にも同級生や先輩との交流が続いている。
 「堺山之口商店街の[ギャラリーいろはに]は泉陽高校の同級生の北野まさる君の家が学生服屋さんをやってたとこ。今は奥さんがギャラリーをやってるけど、店の中に防空壕が残っていて、それも来館者に見せてる」

 「おでんの[たこ吉(よし)]は有名になってしもうたけど、ここの大将も泉陽高校の先輩。凝ってて変わったタネの旨いおでんを出してます」

 「南海堺駅の高架下で高校の同級生がやっているお好み焼きの[明治色(めじろ)亭]もときどき行く。名前も変わってるし、骨董品がいっぱい飾ってあるし、音楽はアメリカのポップス。泉陽の生徒のお店はどこも面白いわ」

 南陵さんは堺の文化も大好きだという。
 「講談のネタ集めによく古本市に行ってるんですが、親善大使になってからは堺に関連する古い絵はがきや引き札(木版のチラシ)、写真などもたくさん集めています。いずれみんな堺市に寄付しますよ」

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