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地名あれこれ

更新日:2012年12月19日

地名には、それぞれ名づけられたわけがあり、それによって、その土地の歴史や文化を知ることができます。昔、堺は、和泉、摂津の境にあったことから、「さかい」と名づけられました。

堺区内の地名の由来を一部ですがご紹介します。
(堺商工会議所発行 "地名あれこれ"より抜粋)

三宝(さんぼう)

今の大和川は、宝永元年に新しくつくられました。この大和川の運んでくる土砂のために州ができ、宝暦年間に、この地に三つの新田ができました。三つの新田の「三」と、宝歴の「宝」の字を合わせて、「三宝」という地名になりました。

神南辺(かんなべ)

昔、この地に神南辺道心(かんなんべどうしん)が住んでいたことから地名となりました。

錦之町(にしきのちょう)・綾之町(あやのちょう)・錦綾町(きんりょうちょう)

京都の町が、応仁の乱の戦乱で焼野原と化した時、技量のすぐれた織物師が堺へ移住してきて、この地で『錦織り』『綾織り』などをはじめたので、『錦之町』『綾之町』『錦綾町』などの地名がついたと言われています。また、当時堺は外来物資の入手できる貿易港をもっていたので、都の宮人たちが着る高貴な錦に綾の織物を、大陸から伝わった布や技術で織ったところから、この地名が生まれたという説もあります。

柳之町(やなぎのちょう)

昔から堺の町の代表植物といわれた柳の木が、この付近にたくさん植えられていたので、この地名がついたと伝えられています。

北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)

大坂夏の陣で、堺の町が約2万戸焼けましたが、その復興に地割奉行風間六右衛門が活躍します。その町割の時に、南北両端の区画が少し半端になったそうです。それで北と南に半町があると伝えられています。

北旅籠(篭)町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)

昔の堺の町は、南北にそれぞれ本郷と端郷、即ち四つに分かれていたそうです。その端郷が、いつしか旅籠に移り変わったという説と旅宿があったからという説もあります。

九間町(くけんちょう)

大同元年(806年)に、弘法大師が唐より帰国され、その翌年京都に行かれる途中に、この地に四面九間の堂を建立して布教されたので、この地名があると言われています。

神明町(しんめいちょう)

その昔、天保3年(1832年)に、堺港の繁栄を願う商人たちによって、神明神社が建てられたことによりこの地名が残されたと言われています。

宿屋町(しゃくやちょう)

この付近は昔旅人の宿場で、宿屋が多かったことからこの地名がついたそうです。

材木町(ざいもくちょう)

堺は、昔から九州・四国などの材木を港で陸揚げして、各地に運んでいました。それでこの地名がついています。木屋という名前の家が多いのもその名残りです。

車之町(くるまのちょう)

寛永12年(1635年)に亡くなったと伝えられる、能学者の車屋道悦がこの地に住んでいたので、車屋の町ということから、人々は車之町と呼ぶようになったそうです。また、道悦は具足屋を営む傍ら、謡曲本の一派を立てて有名になったそうです。

浅香山(あさかやま)

昔、推古天皇の時、ここは海辺であったと言われています。この海辺に香りのよい木が流れついたので、「香り浅からぬところ」と言うので、『浅香の浦』と呼ばれるようになったと言われています。『浅香山』になったのは、江戸時代に大和川を掘った土で小さな山ができて、浅香山と呼ばれるようになりましたが、今ではすっかりなくなってしまいました。

熊野町(くまのちょう)

熊野をクマノと読むかユヤと読むか種々論議が分かれていますが、もとは湯屋町となっていました。それが、明治5年(1872年)の町名改正の時に、熊野町となりました。字だけ変えたのか呼び名も改めたのか明らかではなく、両方使われています。昔は、湯屋が多く並んでいたところから湯屋町の地名になったと言われていますが、一説には、天神の境内において風呂を炊きだして一般の人々に施したところから、この名がついたとも言われています。

榎(えのき)

昔、このあたりは榎が多く自生していた野原であったことから、名づけられました。

三国丘(みくにがおか)

堺の地名のおこりと同じように、和泉、河内、摂津という三つの国の境にある丘ということから名づけられたそうです。

安井(やすい)

この地域を開発した安井正之という人の名をとって、名づけられました。

少林寺(しょうりんじ)

当地にある少林寺というお寺から名づけられました。このお寺は万年山少林寺といって元徳2年(1330年)、桃源宗悟の開山と伝えられています。最初は、開基の大檀越小林修理亮法の姓をとって『小林寺』と書いていましたが、のちに少の字に改めたのは、菩提達磨の少林寺にならったものです。

大仙町(だいせんちょう)

仁徳陵は大きな山のような御陵だということから、昔は大山陵と呼ばれていました。大山陵が大仙陵になり、この大仙陵のあるところから、大仙町と名づけられました。

湊(みなと)

昔、堺の町は漁港でしたが、その後、貿易港となりました。そのために、漁師の人々がだんだん南の方へ移り、このあたりの海辺に集まるようになって、いつの間にか「みなと」と、呼ばれるようになり『湊』の字で地名がつけられました。『港』は、船が出入りする所という意味ですが、『湊』は水のほとりに人々が集まる所という意味があるそうです。

神石(かみいし)

明治22年4月1日の町村制施行によって、それまでの上石津村と市村と踞尾村の三村が合併しました。踞尾村と市村は神野荘に属し、上石津村は石津郷に属していたことから、神野の『神』と石津の『石』を合わて神石村となりました。しかし、明治24年踞尾村だけが分村し独立しました。その後、昭和13年に神石村は堺市に編入されました。

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