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新しい時代へ 変わりゆく近代の美原

更新日:2016年8月24日

明治新政府が成立し、版籍はんせき奉還ほうかんにより、廃藩はいはん置県ちけんが断行され、江戸時代に美原の地に領地をもっていた丹南藩たんなんはん・狭山藩はなくなり、南河内郡ができるまでの間、堺県に属することになります。堺県は、現在の奈良県を含める地域までを範囲としていました。
 美原の村々は、明治22(1889)年の町村制の施行により、黒山村・平尾村・丹南村・南八下村・丹比たんぴむらに再編されます。当時の美原は、田園地帯が美しいところであったと思われます。
 現在は、美原区内に、鉄軌道はありませんが、明治29(1896)年ごろに美原区域を走る鉄道計画がありました。平尾村出身の国会議員である出水でみず弥太郎やたろうの書簡の中に鉄道計画の話が出ています。計画の鉄道は「狭山鉄道」で、天王寺から狭山を結び、平尾・黒山あたりを通る予定でしたが、明治30(1897)年に設立願書は却下になり、まぼろしの鉄道になりました。

 大正6(1917)年に、大阪府黒山実業高校が創設されました。男子部と女子部に分かれており、女子部は、黒山高等小学校の校舎内に設置され、大正13(1924)年に黒山高等実践女学校として独立しました。当時の校舎は、舟渡池周辺にあり、菅生すごう神社への必勝ひっしょう祈願きがんや勤労奉仕の様子など、戦時下の貴重な写真が残されています。堺方面から南河内地区の女子教育の中心高として多くの卒業生を輩出はいしゅつ、地域の教育・文化に大きな役割を果たしました。戦後の学制改革で、黒山実業学校は大阪府立農芸高等学校に、黒山高等実践女学校は昭和27(1952)年に現在地の堺市東区西野に移転し、大阪府立登美丘高等学校となりました。

農芸高校現在の大阪府立農芸高等学校

ひとことコラム 堺県さかいけん

 明治初期の県。明治元(1868)年、大阪府管轄地のうち和泉国を分割して設置され、堺に県庁をおいた。翌年、河内県・狭山藩を合併。明治4(1871)年の廃藩置県後、伯太・岸和田・丹南・吉見の4県を統合して河内・和泉両国を直轄ちょっかつ。堺県は現大阪府の約3分の2の面積を占めていた。現大阪府は旧国名の摂津の一部と河内・和泉の3国、略してせっせん地域を占めているが、そのうち河内と和泉がかつての堺県であった。明治9(1876)年、奈良県を合併して大和国も管轄したが、明治14(1881)年、大阪府に合併された。東京・京都・大阪府の3府の内、最も狭小で、財政が弱かった大阪府を補強するため、わずか県治14年にして廃県、大阪府へ編入されたのである。

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