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堺市
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平成26年度 里親シンポジウムの報告

更新日:2015年9月16日

 里親支援機関・堺市里親会・堺市の共催で、堺市里親シンポジウムを実施しました。里親さん宅での生活経験がある方の体験発表と、現役里親さんの体験発表を行いました。
 以下里親シンポジウムの報告を掲載しています。

開催日時等

 堺市里親シンポジウム「子どもの幸せを求めて~里親のことを知ってください~」  
 日時:12月7日(土曜日)、午後1時30分から午後4時00分
 場所:サンスクエア堺2階 第1会議室

プログラム 

第一部

 里親家庭を体験された若者からのメッセージ 池田 累 氏

第二部

 里親からのメッセージ

第1部講演 「里親家庭を体験された若者からのメッセージ 」の要約                                

『私にとっての里親』

 皆さま、こんにちは。里親家庭を里子として経験し、今社会人として頑張っております。今日はどうぞよろしくお願いします。
 私は9歳まで自分の家庭で育ったんですが、複雑な家庭で、きょうだい3人の、私は三男坊で一番下ですが、一番上の兄の存在を知らないんです。実際に名前も知らないし、会ったこともないという状況です。ちょうど3歳ずつ離れているんですが、みんな母親は同じなんですけれども、父親が違うという環境で生活をしていました。6、7歳までは、自分の父親と母親、そして真ん中の兄と一緒に生活をしていたんですが、私が小学校に上がったくらいに家庭内暴力が始まりました。
 そのきっかけとなったのが母親の交通事故で、母親が交通事故で片腕が動かなくなってしまって、それから父親が家に帰ってこない時期がありました。そういう環境で過ごしながら父親からの家庭内暴力があり、それを隠しながら小学校に通っていましたが、その小学校の担任の先生が児童相談所に通報して、今でも鮮明に覚えていますが、家に警察が来たんです。それでその場で引き取られ、後々に児童相談所にお世話になり、児童養護施設(以下、養護施設)に入ったという経緯があります。
 私は一般家庭の生活も知りながら、児童相談所も知っていますし、養護施設も知っているし、里親も知っているという、児童養護の辺りはすべてを経験してきた人間かもしれないです。私は里親さんにお世話になろうかと思ったきっかけがあります。まずは、自分の将来を考えて、里親さんという道を選ぼうと思ったのが1つと、私、とても野球が好きで、けがをして高校で野球をやめてしまったんですが、大学も野球推薦をいただけるほどまで頑張ってきたという自負があり、どうしても野球がやりたいと思っていました。ただ、養護施設だとどうしても難しい。野球って道具も必要ですし、お金がすごくかかるんです。私の高校は神奈川県の中でも結構有名な高校で、公立高校ではあるんですが、週末は家に居ない状態でした。関東圏内、あと静岡など東海地方まで、毎回泊まりがけで遠征に行っていました。それだけ野球に打ち込める環境がどうしても欲しかったというのがあり、里親さんを選んだという経緯があります。
 野球はやめてしまいましたが、今は、横浜高校の方々にお誘いをいただき、川崎から横須賀まで、だいたい片道70キロ、車で1時間半掛けて、毎週末、時間があるときは、中学生の子どもたちに野球を教えに行っています。そのクラブチームが13年ぶりに今年の秋、関東大会に出ました。2対0と善戦しましたが惜しくも1回戦で負けてしまいました。けれども、その相手チームがなんと優勝しました。公式戦では、確か4年間チームとして勝っていなかったと思います。スタッフも一新してみんなで気持ちを入れ替えてやった結果です。野球をプレーすることはできなくなりましたが、教える側としての喜びを体験できたのは非常によかったと思います。
 先ほどお話ししたように9歳から児童養護のほうで暮らさなければいけない環境となってしまい、14歳まで養護施設にいました。養護施設の中でも、2歳の子から一番上の子ですと高校3年生まで、本当に幅広い年代の子が50人ぐらいいました。これが多いほうなのか少ないほうなのかは、私は分からないですが、年代ごとで寮が分かれていました。その寮の中には、男の子も女の子も、みんな同居しているみたいな感じで集団生活をしている環境でした。
 里親さんを最初に知ったのは、私のことを育ててくれた川崎市あゆみの会(里親の会)の会長さんがお見えになられた時です。それが10歳くらいのときです。それで里親さんの存在を知りました。
 養護施設の子どもたちは、一応、家族はみんないるわけで、冬とか夏に家庭に帰ります。ただ、家庭で一緒に生活ができないために養護施設にいたりとか、いろんな状況の子がいました。私は、週末であったり、夏や冬に家庭に帰るのを見ていてうらやましいと思っていました。私は、全くそういうのはありませんでした。母親側のおばあちゃんが、養護施設に入っているというのを聞きつけて、それで初めて一時帰宅ができたのが中学1年の時でした。
 家庭で育つというか、温かい料理とか、何げない会話ができる環境というのがすごくいいなと思った。ただ、自分の家族では望めないなと思い、真剣に川崎市の児童相談所の担当の方に、そういう方法はないかと相談していました。私はやはり野球がやりたい。野球がやりたいから、それを実現できる環境が欲しい、とずっと訴えていました。話をしていたら、川崎だと「ふるさと里親」と呼んでいる制度があって、私の場合は夏冬だけ里親さんのところにお世話になって、実際生活を体験し、それがよかったので、じゃあ高校からは里親さんのところでお世話になってみようという話になりました。
 ただ、これもまた問題がありました。最初に引き取ってくれる里親家庭があったんですが、その家庭の里親さんが転勤になるということで、もう面倒を見られないという話になってしまい、それで一回里親さんの話が終わってしまいました。
 次の里親さんが決まるまでの3、4カ月間、私が進路を決めるために児童相談所に一回戻ったんです。その間にいろんな里親さんのところに面会しに行ったときに、年齢も年齢で、思春期を迎えるころというのもあり、ずっと断られ続けてきました。8組くらい断られ続けて、「ああ、これはまずいかもしれない。もう一回養護施設に戻らなければいけないのかな」と思っていると、ある里親さんが、一度もお会いしないで「そういう子がいるのだったら、短期でもいいから、引き取るから、明日から来なさい」と言ってくれました。すごく嬉しくて、転校の手続きとかもすぐ取って迎え入れてくれました。
 そういう経験もあって、私としては、皆さまにやはり里親さんになっていただきたいという思いがあります。今も思い出すと本当に泣けてきてしまうんです。私は14年間、家庭の環境を知らなかったのですが、15歳から18歳にかけて里親さんと一緒に過ごした経験は、今の人生でとてもプラスに生きている部分があります。
 まず1つは、養護施設と比べると、どちらもいいところも悪いところもあると思いますが、一番大きな違いは料理が温かいんです。私がいた養護施設ですと、料理は完全に作り置きの状態で、温かいのはご飯だけでした。でも私は、ふるさと里親と、1年間の短期の里親さんと、今お世話になっている里親さん、3組経験しましたが皆さん必ず手作りで料理を作ってくれて、それはとても嬉しかったです。
 それと、私の生きていく環境の中で自分の居場所があるというのが本当に嬉しかった。私の場合、養護施設とかにいると自分の居場所がなかったんです。みんな一緒で、寝る所も一緒。何をするにしても一緒という環境の中で育ってきたので、社会を知らなかったという部分もあったかもしれないです。社会に出ると、里親さんでの生活体験というのは非常に大きかったなと思います。
 私が24年生きてきた人生体験の中で、里親さんというのは本当に切っても切り離せない部分です。
 高校に上がる前に1年間お世話になった里親さんの所から、次は川崎市あゆみの会の会長さんの所にお世話になりました。そのときの大前提として、私は野球がやりたい。野球を思う存分やらせてもらえる環境が欲しい。それだけだと伝えると、「それだけ自分のやりたいことが決まっているのであれば、ぜひ、うちにおいで」と言っていただき、一度お会いして、その場で決まってしまいました。それは人の縁なのか、私が頑張ってきたから神様がくれたものなのか分からないですが、恵まれている部分なのかもしれません。そこでお世話になり、高校入学してずっと3年間、毎日迷惑を掛けながら生活をしていました。
 私の高校生活は野球のみ。朝5時に起き、通学にはバスと電車を乗り継がないといけない所なんです。里親さんの家が山の上ということもあり、バスに乗らないと駅まで出られないという環境で、毎朝5時に起きて準備をすると、もうお母さんは起きているんです。私、野球をやっていたからか、成長期なのですごくご飯を食べていました。
 実はこの話のために、「どのくらいご飯を食べていたか」と聞いたら「1日1人で5合食べていた」と。「そのためにお釜を買い直したくらいだ」と。そんなに食っていたんだと思ったのと同時にそれくらいご飯を食べないともたなかったというのもあったと思います。
 私の通学鞄の中には、ユニフォームとグローブとお弁当が2つしか入っていなくて、教科書はもうどこかに行ってしまっている状態でした。スポーツクラスだったというのもあります。毎朝起きたらお弁当が出来上がっていて、朝食も、時間が無い中だったので、おにぎりを握っておいてくれて、私はそこから1時間自転車で通っていました。
 毎日帰ってくるのは、夜9時くらいでした。これがまた人の縁かもしれないと思うんですが、スポーツクラスは1クラスしかなく3年間クラスが替わらないんですが、里親さんの家の向かいが、そのクラスの担任であり顧問の家だったんです。私が9時から9時半くらいに帰ってきて、そこから素振りとかをするんです。そうするとだいたい11時くらいになると、必ず監督が家の前から見ているんです。そういう環境でずっと野球をやっていたんです。それが月曜日から金曜日まで続くんです。
 土曜日、日曜日は先ほどもお話ししたように県外遠征になるんです。学校に45人乗りのマイクロバスがあるので、それで週末は泊まりがけで遠征に行っていたんです。そうすると、朝起きるのが朝の3時か4時。そのときには、お母さんは、もう起きて全部準備してくれていました。泊まりがけの日曜日は、向こうで昼食が出ますが、土曜日の分の朝食とか昼食は全部用意してくれていました。さすがに朝3時とか4時だと自転車で行く気もないので、毎回車で送り迎えをしてくれていて、本当に感謝しきれなかったです。
 養護施設では行き届かないところ。もしかしたら「野球をあきらめなさい」と言われていたかもしれないです。里親さんの生活に携わったからこそできた経験かもしれないです。私もしんどかったのに、里親さんは今数えで63歳になるはずですが、相当しんどかったと思います。お母さんが全部やってくれていた。お母さんも看護師として働いていたので、仕事もある中で私のために土日を休んでくれていたんです。それくらいかけてくれていたというか、そういう部分は幸せだったなと思います。
 今、私は、中学生を対象に野球を教えていますが、常々、子どもたちに言っているのが、「おまえら、野球やらせてもらっているんだよ」と。その野球をやる環境をおまえたちが選んだかもしれないけれども、道具は誰が買ってくれているんだ。そのクラブに払うお金は誰が払ってくれているんだ。全部親だぞ。親には感謝しなきゃ駄目だぞ」というのを、この里親さんの経験から、自信持って子どもたちに伝えられています。そんな生活をずっと続けていましたが、あるとき、左足の靱帯を切ってしまったんです。後遺症があり足首の動く範囲が少し狭くなってしまいましたが、そういう時も助けていただきました。
 腰椎といい、骨と骨の間に椎間板というクッションがあるんですが、そこが私は生まれつき少なく、小学校6年生のころからヘルニアだったんです。それを隠しながらずっと野球をやっていました。高校1年の春から、ずっとレギュラーで野球をやっていましたが、夏の大会前に歩けなくなってしまいました。もう本当に痛くて、起き上がることすらできなくなってしまい、毎週月曜日朝から、神経に直接痛み止めの注射を打ちにいきました。それもわざわざ送り迎えをしてくれていました。
 一昨年、「働き過ぎだ」と医者に言われたんですが、気付かないうちに肺炎になっていました。実はその肺炎になっていたのが、旅行先で。話が飛んでしまいますが、来年の7月に入籍をしようと思っていて、時間ができたのでその子と旅行に行ったら、その旅行先で高熱になってしまいました。その前から体調が気だるいなと思っていたんですが、人生で経験したことがない39度の熱が出てしまい、近くの病院へ行ってもたらい回しにされました。「ちょっとおかしいんだけれど」と母親に電話したら、「声がおかしいから、すぐ帰ってきなさい」と言われ、再度病院へ行ったら肺炎になっていて、左の肺が真っ白に。「すぐ入院してください」と言われる状況で生活をしていたようです。それを電話で聞き分けられるくらい、母とは濃い時間を過ごしていたんだなと思いました。それが2年前ですから、22歳とか23歳くらいのときですよね。そのときになって里親さんのありがたみというのを分かるようになりました。
 数えきれないくらい迷惑を掛けてきてしまって、感謝もしきれないことばかりなんですが、自分が人生の中でこんなに人に感謝すると思っていなかったです。里親さんは、そう思わせてくれる、人間的な成長もさせてくれる場でもあると思います。これは私の実体験で、子どもたちがどう感じ取ってくれるかというところもあるかもしれないですが、私は成長して本当にそう思いました。
 彼女とはもう一緒に住んでいるんですが、肺炎になった時は、うつしてしまうと申し訳ないので彼女を1人残して、私は実家(里親宅)で療養しました。自宅では、何から何まで全部やってくれました。18歳を過ぎてしまうと、児童養護の法的範囲から外れてしまいますが、そういうのを取っ払って今でも面倒をみてくれ、2週間に1回は顔を出したり、ざっくばらんにいろんな話をしています。人生の先輩でもあるので、「こういうときだったら、お父さん、お母さんだったらどう対処する?」とか、意見交換もさせてもらい、感謝しても感謝しきれない関係になっています。
 私は、自分の親のことを「お父さん、お母さん」と呼んだことが一度もないんです。それくらい存在価値がない。皆さまがどう思うか分からないですが、私の中では、生んでくれたことに対して感謝しています。でないと、私の人生が始まっていないからです。ただ、一度たりとも「お父さん、お母さん」と呼んだことがないんです。
 この感情というか思いは皆さまにはちょっと伝わないのかもしれないですが、私はそう呼べない親だと思っています。ただ、里親さんは「お父さん、お母さん」と呼べる関係です。児童養護を受けている子どもたちが自分の親に対してどう思っているか分からないですが、少なからず私と同じような感情をもしかしたら抱いているかもしれないです。「お父さん、お母さん」と呼ぶのに抵抗があり、最初は、里親さんを何て呼んでいいか分からなかったです。「お父さん、お母さんと呼んで」と言われても、こちらとしては心の中で壁があるから、「絶対呼べない」と思い、最初は「ねえ」でした。「ねえ、これ、どうすればいいの?」とかそういう疑問形で問い掛けて、関係がどんどん縮まっていって、今「お父さん、お母さん」と呼べるようになったという感じです。
 養護施設で育つとどうしても、親の愛情は受けられない部分があるんです。一時、おばあちゃんのところに、夏と冬に帰ったときは、嬉しかったんですが、今まで4、5年間一度も顔を出しに来なかったし、おばあちゃんは、私が養護施設に入っているということすらも知らなかったくらいで、それほど家族間でのつながりがなかったのに今さら顔を出しに来てもと思い「何しに来たの」と言ってしまったんです。その時の一言一句を、今もずっと覚えている。去年、おばあちゃんが亡くなってしまい、もうその言葉に対しての謝罪はできなくなってしまいました。
 だから、少なからず養護施設で今育っている子たちは、自分たちの親に対してはまず間違いなく不信感のような感情を抱いていると思います。
 それが、私が養護施設を出て里親さんのところでお世話になって少しずつ解消されていった部分です。「お母さん、お父さん」と呼べるようになり、自分の親に対してのわだかまりも少しずつ、和らいできている感じです。それを全部気付かせてくれたのは里親さんです。
 おばあちゃんが死んだときに、自分の生い立ちをどうしても知りたくて、なぜ児童養護を受けるようになったのか自分で調べました。ただ、どうしても調べられない部分もあって、生みの母親の妹に無理を言って戸籍を取ってもらいました。
 私は、全然知らされていなかったんですが、戸籍に母親の名前はありましたが、父親の名前がなくて、衝撃を受けました。「じゃあ、私が小さいころ見ていたお父さんは結局なんだったんだろう」、「一緒に家庭で過ごした9年間は何だったんだろう」と思いました。
 もう頭が混乱してしまい、それも全部里親さんに相談しました。おばあちゃんが亡くなったことで親族が全員一回集まった時に、そのときの親族たちを見て、「結婚式とかに自分の親族を呼べないな」と思うようなひどい出来事が葬式の中でありました。それも全部相談しました。里親さんは、親身になって相談に乗ってくれました。
 ある時、自分の母親に家を探し当てられました。母親が住民票を取り、その住民票から母親が私を頼りにしてお金をせがみに来たんです。その時も、「この先、僕はどうすればいいと思う?」という相談をしたら、親身に相談に乗ってくれ、今ある戸籍の中から自立して自分で籍を立てられるから、法的に関わりがないようにしたらいいんじゃないのと、除籍という方法を教えてもらいました。何においても頼りにしていて、それもちょっと依存しているみたいでどうなのかと思う部分はありますが、私の中ではかけがえのない存在になっています。
 結婚しようという話になり、その結婚式で、里親さんは私の父親、母親としてお呼びしようと思っています。最初抵抗があるかなとは思ったんですが、私の婚約者は、中学校の時に出会っているので私が養護施設にいるころからの生活を知っています。私は私の生い立ちからすべて話しているので彼女の親に結婚をするというニュアンスの話をしたときにも何も抵抗がなく、「じゃあ、娘をよろしく。結婚おめでとう」と言ってくれました。
 私はそれにちょっと拍子抜けをした部分がありますが、児童養護を受けている人は、それを隠したがるんです。後輩で、一時期養護施設にいた子がいます。私は包み隠さず養護施設にもいたし、里親さんといて、私は生みの親と育ての親が違うと話しました。それを負い目にはしていないよという話をしてから、その子も表情がすごく変わりました。その子はずっと養護施設で過ごしてしまったがために帰る場所がない。相談できる相手がいないんです。皆さまにはぜひ里親さんになっていただきたい。
 川崎市は里親の普及率が30%くらいと高いようです。私の里親さんも、私が行く前に4人育てているんです。留学生とかも入れたらもっと育てています。今も、たくさん子どもが来ている状況です。
 先ほど里親さんの数が少ないというお話も聞きました。私が本当にいいなと思ったのは川崎市では「ふるさと里親」と呼んでいる制度です。週末であったり、休みの間に、児童養護の子どもをぜひ引き取ってみてほしいんです。
 ぜひ、短い時間を利用してでも、子どもたちを引き取って、家庭の味や雰囲気というのをぜひ体験させてもらいたいなと思います。苦労することもあると思います。私は、反抗期で、ほんと野球しかやっていなかったので、勉強なんか全くしていませんでしたから。やりたい放題やっていたのでとても迷惑を掛けて、大変な部分もあるとは思います。
 これから里親さんを始めようとしている方にも、里親さんをやられている方にも1つお願いがあります。
 例えば、子どもが興味を持って1つでもこれをやりたいと言ったことに関しては、徹底的にやらせてあげてほしいなと思います。なぜかというと、これは私自身がずっと野球を続けてきたからというのもあるかもしれません。けれども、それによって頑張ることを知ると思うんです。努力することを覚えると思うんです。
 何か1つやりたいと思ったら、やり通すための助言をしていただければなと思います。あきらめないように「頑張れ」と背中を押してもらえるだけでも、子どもはすごく嬉しく思うと思います。実際、私もそうだったので。辞めたいと思いましたが、里親さんの一言、「野球頑張りなさい」と言われて野球を続けられたので。
 やりたいと思っている事をやらせて、それを応援してあげてください。それだけでその子が大人になったとき「おれはこれだけやってきたんだ」という自信と誇りになると思います。私は、野球をやってきたからという自信と誇りがあるので、今、プレーはできませんが、子どもたちに野球を教えることができます。ぜひ、背中を押してあげてください。

第二部 里親からのメッセージの要約

 堺市養子縁組里親 Aさん

 私はずっとお母さんになりたいと思っていました。そして、息子と出会って、ようやくお母さんになることができました。私は「ただのお母さん」という言葉がとても好きでよく使うんですけれども、お母さんって地位も名誉も肩書きも何も要りません。おもろいおかん、怖いおかん、家族を見守るお母さん、家庭の中では派手なことなど何一つありません。でも、力を合わせたら「ただのお母さん」は世界を変えることができます。私は、そんな「ただのお母さん」になることができました。
 私は、子どもを望むようになってからなかなか恵まれず、8年間不妊治療をしてきました。日本産婦人科学会が指導する最新治療はすべて行いました。治療の経過で、おなかに静脈瘤があって、それを傷つけてしまうと命の保証がないと主治医に言われたことがありました。それでも治療を続けたくて、今思えば、とても大げさなんですが、夫に遺言状を渡して治療に挑んだりもしました。
 幸い何事もなくここにピンピン立っているんですけれども、不妊治療をしていた当時のことは断片的な記憶であまりよく覚えていないんです。不妊治療は精神的にも肉体的にも経済的にも負担がとても大きい治療で、今思えば不妊治療は、患者自身をとても追い詰めて、冷静さを失わせる両刃の剣だと思います。
 望んでいる結果が出ないまま8年間が経過して、治療の手だてもなく、産婦人科学会が承認していない代理母や卵子提供の治療を勧められて、これはもう医師から引導を渡されたなと思って、ようやく40歳を目前にして治療をやめることができました。
 子どもを望んだときに、同じ女性からとてもよく聞かされた言葉は、「なんでそこまでして子どもが欲しいんや。意味分からん」。放っておいてくれという感じなんですよね。たいがいそういう人には子どもがいるんですよ。携帯の待ち受けが子どもなんですよね。あまりにも度々そういうことを聞かされると、イラッときて、これがマタニティハラスメントじゃないのかと、そういう不快な気持ちになることも度々でした。どうかこの会場にいらっしゃる皆さん、子どもを望まれるカップルがいたら、何も言わずに温かい目で見守ってあげてくださればなと思います。
 では、なぜ人は子どもを欲しがるのでしょうか。家の中に子どもがいるとにぎやかで楽しくなる。跡取りが欲しい。老後の面倒を見てもらえる。いろんなことをイメージすると思いますが、これはとても難しい質問なんですよね。
 私は、子どもを産み、育てるのは、生命の営みだと思っています。動物の持つ本能なのです。私は子ども産むことはできませんでした。しかし、私の「育てたい」という本能は、日に日に増していきました。こうなったらもう本能に従っていこうと、養子を迎えることを考えました。
 私たち夫婦は、はじめ絶対的愛情のもとで愛情を独占し、「帰ってくる場所、帰ってくる家はここ」と言える特別養子縁組にこだわりました。特別養子縁組とは、養子が戸籍上も、実の親との関係を断ち、育ての親と実の子と同じ扱いになる法律で認められた縁組のことです。
 でも、子どもの置かれている状況や環境を知っていくうちに、籍を入れることや入れないこと、血のつながりや血のつながらないこと、あるいは養子や里子、そんなことは関係なくなりました。どの子もみんな同じようにかわいくて、どの子もみんな同じようにいとおしいということに気付いて、私は今では形態のこだわりを持つようなことがなくなりました。
 私は結婚してから初めて堺に行きました。職場はずっと大阪市内だったので、職場と家庭の往復で、堺市のことは全く分からずに過ごしていました。なので、養子を迎えようと思っても、行政にどういうふうに連絡をとっていいのか全く分からなくて、いきなり関係のない大阪市の部署に問い合わせをしました。それから2回ほど電話をつないで、堺市の子ども相談所にたどり着きました。子ども相談所に問い合わせをすると、定期的に行っている里親地域相談会があるとお誘いを受けて、相談会に出掛けました。このとき初めて里親さんと出会って、とても親切にしていただいたことを今でもよく覚えています。
 それから、子ども相談所で面接をして、さあ、研修というところまできたんですが、実は私、この研修が嫌で嫌でたまりませんでした。研修を受けないと自分は子どもを育てることもできないのかと。じゃあ普通に生んでいるお母さんは研修を受けているのかと。そんなに自分は劣っているのかということで、恐ろしく駄目駄目サイクルのネガティブモードに入っていました。でも、夫から「前に進まないと何も始まらない」と説得されて、引きずられるようにして渋々研修に行きました。
 でも、子どもの置かれている現状を目の当たりにする過程で、大人として知っておかなければならない大切なことに自分は目を背けていたことに気づき、何も知らなかった自分を恥じるようになりました。そして、ちょっぴり前向きな気持ちになって、研修の意義を私の中で見いだすことができて、何とか乗り切ることができました。
 そんな問題児だったのですが、堺市の温情を受けて、何とか養子里親の認定を受けることができました。
 私がごちゃごちゃ行くだの行かないだの言っている間に、息子は元気に産声をあげていたのです。
 養子を迎えようと活動していたときに、私は、夫に「子どもはご縁とよく聞くけれど、いったいどういうものか。そんなスピリチュアルなことは分からへん」と言ったことがあります。そのとき夫は、「子どもとの出会いは、たとえ1%でもうちらより条件がいいところがあって、子どもがそこを選べるのだったら、喜ぶべきことじゃないか。子どもにとって生みの親に育ててもらうのが一番いいに決まっている。でも、そうはいかないのだったら、子どもは育ての親を決めてもいいのだから、うちらが子どもらに決めてもらうのを待ったらいいんや」と。夫にそういうふうに言ってもらえて、私は、子どもから選ばれる夫婦になろう、子どもから選んでもらえるお母さんになろう、という覚悟を持つことができました。
 里親認定を受けてからパートをしながらご縁を待っていたときに、子ども相談所から電話がありました。私は「覚悟ができた」と言いつつも、電話を受けたときに高まる気持ちが抑えられず、男の子か女の子か、何歳かなど、相談所の担当の先生にしつこくきいて困らせたこともありました。そして、我が家にもようやくコウノトリがお出ましになったのです。
 後日、子ども相談所へ夫婦二人で赴いて、子どもの写真を見せていただきました。その写真といったら、かわいくて、かわいくて、本当にかわいくて、すぐ待ち受けにしました。胸もキュンキュンしました。その日の帰りは、解禁となったベビー服やベビーグッズをたくさん買い込み、抱えて帰ってきました。家の中が明るくなって、赤ちゃんのにおいでいっぱいになりました。
 それからは息子を我が家に迎えるために友人も準備を手伝ってくれて、お下がりを届けてくれたりしました。チャイルドシートやベビーベッドを……。チャイルドシートがすごく高いんですよね。それを友人が貸してくれると言うので、仕事が終わってから夫と二人で取りに行って、大阪中縦断しました。誰もが、まだ見ぬ息子との出会いを本当に祝福してくれました。
 乳児院にいる息子を初めて見たとき、あまりのかわいらしさと神々しさで私は涙があふれて感動の対面がキラキラとぼやけてしまいました。そして、この瞬間、死ぬかもしれないとまで言われた私の8年間が息子との出会いのためにあったんだとわかり、すべてを肯定することができました。
 外泊も含めて約3週間、私たちは、親子になるために毎日乳児院へ息子に会いに出掛けました。ミルクを作って飲ませ、おむつを替えて、お風呂に入れて、たっぷりだっこをしました。絵本を読み聞かせ、童謡を歌い、これからのことをたくさん息子と話しました。
 初めての出会いから9日目で1泊2日の外泊をしました。外泊から乳児院に戻るとき、私は、息子を乳児院に帰したくなくて、「このまま息子を連れて帰る」と息子と一緒に大泣きをして、乳児院の先生をあきれさせてしまったこともありました。
 安心して私たちに身を任せる息子がとても頼もしくて、何があっても全力で小さな息子を守ると自分に誓いました。息子を抱きながら乳児院の先生とした会話や、喧騒を忘れてゆっくりした時間は、今でもとても大切な思い出です。窓から見える風景に二人で思いをはせて、空に浮かんでいる飛行船に一緒に乗ろうと初めての約束をしました。
 息子が生まれる前から今まで、たくさんの方が息子のために関わってこられました。この場でお礼を申し上げます。
 息子が生まれてきたことにはとても深い意味があります。私は、痛いと思うくらい、苦しいと思うくらいに愛することができる存在があることを初めて知りました。大人は過去を振り返って生きがちですが、子どもは限界のない未来へ大きな可能性に向かって生きています。小さな息子が私にこれらの大切なことを全身全霊で教えてくれました。私は、息子のお母さんになれてとても幸せです。そして、夫をお父さんにしてくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。
 私が息子との出会いと同じように感謝している、もう1つの出会いがあります。それは堺市の里親会である「つながり会」です。 いきなりひょっこりと顔を出した私に、会員の皆さんは何も聞かずに温かく迎え入れてくださいました。本当にとてもうれしくて、肩肘を張って「息子を育て上げる」と力んでいた私の力が抜けました。そして、地域相談会で初めて会った里親さんと再会することもできました。
 これから息子の成長とともに真実告知や、幼稚園、学校の入学など、社会がどんどん広がっていきます。多くのことを経験されてきた先輩里親さんからいろんな助言を受けながら、楽しく育児をさせていただいています。私たち家族の成長を見守ってくださる仲間はとても心強く、これからどう進めばいいか、つながり会は私たち家族に道しるべを示してくれました。
 ちなみにつながり会は、定例会や里親サロンのほかにも楽しくておいしい活動もしているので、ご興味のある方は、この後の地域相談会でお問い合わせください。
 息子が我が家に来てから半年後に家庭裁判所へ特別養子縁組の申立をしました。縁組をされた先輩ママさんからレクチャーを受け、滞りなく手続きを進めることができました。
 といいつつも、やはり裁判所なんて人生ただの一回も行ったことがないので、書類の不備はないか、申立の内容に物言いがないか、毎日ドキドキとしていました。幸いにも、裁判所の担当書記官が、私たちの特別養子縁組に対して当初から「妥当」という姿勢を示してくださったので、親身になって関わってくださり、滞りなく裁判を進めることができました。
 申立中に息子は1歳の誕生日を迎えました。誕生日に東京ディズニーランドに遊びに行きました。息子と一緒のディズニーランドは、今までの何十倍もの楽しさで、「こんなに楽しい所だったんだ」と改めて実感し、緊張が和らぎました。
 そして、裁判の審議が終わった日が、息子と初めて乳児院で会った1年後の同じ日になりました。あらかじめその日だと担当書記官から聞いていたので、書類がすべて間に合い、その日に入籍ができるようにとても頑張り、高熱の息子を抱えて役所に手続きに行き、特別養子縁組で息子と入籍をすることができました。私たちは法律で認められた正真正銘の親子となったのです。
 これから里親になろうと考えられている方へ。
 ずっと前から先輩里親さんは多くの子ども育て、里親啓発活動をされてきました。私たち夫婦が何事もなく息子と出会えたのも、先輩里親さんが築いてこられた道をそのまま歩むことができたからです。これから里親になろうと考えておられる方、里親になるのを迷っておられる方、道はあります。子どもたちのためにどうか進んでくださいますようお願いいたします。
 私たち家族は、社会によって家族をつくることができました。社会が私たちを家族にしてくれました。これからは、私たち家族が社会にお手伝いをする番だと思っています。これからどうすれば良いか、息子が導いてくれました。一人でも多くの子どもが里親宅で養育されるよう、施設が小規模化し家庭に近づくよう活動していくことを。世界中の子どもたちが幸せになるよう祈ることを。これが私たち家族の幸せのカタチです。
ご清聴ありがとうございました。

 堺市養育里親 Bさん

 里親として初めて子どもを迎えさせてもらってから4年もたちました。「4年も」ですけれども、その間お休みしたところもあるのですが。
 我が家では実子が3人おりまして、そのときの年齢が23歳を頭に21歳、そして、少し離れた12歳の女の子ばかり3人です。上2人は手が離れたんですけれども、12歳というのはちょうど難しい年齢で、預かるにあたって私は気持ち的に「どうしようかな」という思いも少しだけあったんですけれども、子どもたちが「お母さん、頑張って」と背中を押してくれまして決めることができました。
 我が家は次女が生まれながらの聴覚障害だったもので、自分の描いていた子育てとは180度違ったかなと思います。言葉を教えるというのはとても大変で、まず目を合わせなくてはいけない。タイムリーに「今、こう思ったでしょう」と、思ったことを言葉にして伝えてあげないといけない。そんな細かいことを四六時中気を遣いながら育ててきたので大変でした。
 でも、聴こえない子を育てたということが里親をさせてもらうというきっかけというか、「親に育ててもらえなかった子を迎え入れてあげたいな」という思いにさせたのかと思います。そういう聴こえない子の子育てを通して、落ち込んだときに人の優しさを感じました。皆さんにすてきな出会いをいただいたりして、子育ての楽しさというのを本当に教えてもらったような気がします。
 障害のあった次女が大学へ進むようになって私の手から離れまして、そうすると、社会から取り残された感から、何か仕事でもしてみたいなという感じになりました。しかし、仕事が向いていなかったようで、あれこれと習い事をしてみたりしました。結局里親のきっかけになったのはNHKのドラマです。『瞳』というドラマをご覧になった方いますか。西田敏行さんが父親役で里親をやった、あのドラマを見た頃から私は施設とかで働きたい、そういう仕事をしたい、と思うようになったことを思い出しました。
 前後しますけれども、我が家には猫が4匹と、犬が1匹いて、里親をさせてもらっています。次から次へと猫を拾ってくるもので、「もう無理」ということを言って一番下の娘にストップをかけたくらいです。これもきっかけです。もう1つに主人が重い腰を上げてくれたというか、いろいろと地域活動に参加するようになったこともあります。そこで主人が学校の事情を色々と耳にするようになりました。お母さんのネグレクトで、食事を作らない、お世話をしない、お風呂を入れてもらえていない。もう見るからに分かるそんな子どもがたくさん増えてきている、そして夫婦間のDV。とても安定した地域なんですが、そういう子がたくさんいるというのを聞いてきて、主人が「何とかしてあげたい。何とかならないか」ということを言いまして、私が「ずっと思っていたんだけれども、里親というのをやってみない?」ということで里親登録をさせてもらいました。
 登録が済むとすぐに依頼がありました。初めに迎えた子は9歳でした。家庭にさまざまな問題があって、我が家にいたのは4カ月余りだったんですけれども、その間、我が家でもいろんなことがありました。
 この里子は、預かるときに元気な子だと聞いていたんですが、ぜんそくで犬猫が駄目だったんです。それで大発作が出てしまって、年末年始に緊急入院したり、生命の危険があるくらい重症だったんですが、親権がある親が「治療をお願いします」と言えば問題ないのですが、里親は親権がないのでそういう権限がなかったんです。命にかかわることがあったときに、なかなか手を差し伸べてあげることができないんだなということを感じました。
 里親として一生懸命やらせてもらっていたつもりなんですが、やはり里子は愛情に飢えていました。そして、私を里母として試してくれるんです。本当に私を愛してくれる? 本当に私を受け止めてくれるの? ということでお試し行動がたくさんありました。
 いつも使っている車の鍵とかちょっとしたものを隠したりとか、ごみ箱に捨ててしまったりとか。もちろん、うそをついたりとか。イライラしてくると怒鳴りまくったり、泣いたりとか、そういう行動がたくさんありました。我が家では子どもたちがものすごく関わってはくれていたんですけれども、それで子どもたちがストレスを感じて病気になったり、私も体調を崩してしまって、大丈夫かなという状態が続きました。
 一回いろんなことがあったので、主人と一緒に「次は何だろうね」と何かすごく楽しみになって、というのはおかしいかもしれないですが、「何でも来い」と言いますか、よく言えば覚悟ができたんじゃないかなと思いました。
 私がおなかを痛めた子ではありませんが、9歳までは確かに親がいて、親と一緒に生活していました。その親も複雑だったんですけれども、大人の都合であちらに行かされ、里子は子どもなりにものすごく頑張っていたんだと思うんです。本当に里子がかわいそうだなと思いました。
 その私たちが覚悟ができるまでは、ビクビクと何か怖いというか、親としてあってはいけないのかもしれないですが、振り回されていたという時期がありました。いろいろあっても里子を守る、受け止められるという心構えができたのは、いろんなことを見せられて、いろんなことがあったから、しっかり抱えてあげたいという気持ちになったと思います。
 張り詰めた里子の心、背中に大きな荷物を背負っていたなと思うと、本当にかわいそうでなりませんでした。
 里子は体調を崩したのをきっかけに、転地療養や薬によるぜんそくの発作の治療を優先的にしてあげたいという気持ちで、大阪の郊外にある施設で生活することになりました。長い目で見れば、病気から立ち直るというか、病気があるために何かできないというような弱い方に気持ちに流されないように、強い大人になってほしいなという思いもありました。なので、これが一番の選択肢だというふうに思って、里子を手放しました。その何とも言えない、ぽっかり空いた心の穴を埋めることがなかなかできず、しばらくは里親活動を中止していました。
 でも、子ども相談所の方から「短期でいいんだけれど、やってみない?」という声を掛けていただいたのがきっかけで、短期で2人の女の子を預かりました。今預かっている里子は、生後6カ月で乳児院から我が家に来ました。我が家は女だらけで、犬も猫も女なんですけれども、初の男の子で、みんな飛び上がって喜んでくれまして、ちょうど今月で1年が過ぎました。今1歳半ですが、走りながら壁にぶつかったら、壁に「ごめんね」と言うくらいかわいいです。
 次女が聞こえなかったので手話を教えていましたので、里子には、一番下の三女のときのように、ベビーサインというのをずっと教えています。今使っているベビーサインは、「お願い」とか、「ちょうだい」とか、「ありがとう」っていうようなものですけれども、「お願い」の最上級が「お願~い」(手振りで)って。もう本当にかわいいです。
 2カ月のときにはうちに来る予定だったんですが、肺炎になったりと2ヵ月入院してしまい、対面してからすぐ預かるつもりだったのが、面会ができなくなってしまいました。青白くていつもゴロゴロ言っている里子を私に育てられるかな、という不安は少しありました。
 1日、2日はとてもおとなしくて、なんとやり易い子なんだと思っていたんですけれども、そこから3時間4時間抱いても何をしても泣くんですね。どうして泣くのか、私は、3人育てたんですが、こんな子はいなかったなと。でも、泣くんだからどうにかしてほしいんだろうと思うんですが、ミルクをあげてもまた泣くし、眠れない日々が続いて、とうとうベビー用品屋さんをウロウロしてみたんです。「あ、これかもしれない」と思って買って試したものがおしゃぶりでした。入院生活のときにおしゃぶりを入れてもらって、これでうまくいっていたんだと思うんですが、またそのおしゃぶりを買ったことによってマイナスなこともあって、それがポロッと落ちるとウエーンと泣いて、それが夜中じゅう続き20回も30回も起こされるという日もありました。
 1歳の声を聞くようになってから、やっとぐっすり寝てくれる。おしゃぶりもなく寝られるという日々になり、今、まさしく子育て真っ最中でかわいくてしょうがないです。私が生んだわけではないのですが、この事がもしかしたらお試しだったのかなと思います。
 里子のママは週に1度面会に来てくれます。この里子もママがしばらくすると引き取るということになっているので、別れるのは寂しいです。
 同居している主人の母は、6人の子どもを生み、孫が18人、ひ孫が7人。とてもにぎやかなことが大好きで、子育てはお手の物でした。でも、この里子を預かる直前に帯状疱疹になりまして、一時、もう寝たきりになるかなと思っていたんですけれども、里子を預かるとみるみる元気になりまして、「私、抱けないの」と言っていたのが、すっと抱いて、おむつも替えてみたいな感じです、子どもからいただくパワーはすごい物がありますね。優しさ、笑顔、しぐさ、全てが愛おしく思います。
 子どもは学び、マネをします。親が暴力的なことをすればやがて同じことをするときが来ます。我が家は天理教の教会です。子どもたちには毎日生かされていることへの感謝を教えています。食べられること、元気なこと、学校に行けること、これは当たり前ではないんだよということを教えています。また、そのことに喜び、世界中の人が幸せになるようにみんなで祈っています。
 そのことを通して里子たちは、預かったときよりも心の安定感を得たなと実感できています。会場の皆さまも、子育てをされた経験などを生かして、里親になってください。ほおずりをしたり、抱いたり、話しかけたり、頭をなでたり、褒めてあげたり、できることがたくさんあります。
 生んでもらっただけでちゃんと育ててもらえなかった、愛してもらえなかった子どもたちは、本当に今増えています。大人になってから愛着障害という心の病になるということを聞きました。そんな病になることもたまにあるらしいんですけれども、そんな子どもたちを救ってあげてください。預かってから出るお試し行動というのは、ほんの一時の通過点にすぎません。そのお試し行動を通して里親としての自覚も生まれてくるだろうと思います。たくさんの方の支援を必要としているのが現実です。疲れたときや大切な人とのお付き合いがあるときには子どもたちを預かってくれる支援制度もあります。里親同士のつながりもとても強いです。一人で抱え込まないで、みんなで育てていくつもりで、ぜひ、この里親活動にご協力いただきたいと思います。今日はありがとうございました。

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