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堺市
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平成24年度 里親シンポジウムの報告

更新日:2013年12月27日

 里親支援機関・堺市里親会・堺市の共催で、堺市里親シンポジウムを実施しました。NPO法人キーアセットの渡邊守さんの講演と、現役里親さんの体験発表を行いました。
 以下里親シンポジウムの報告を掲載しています。

開催日時等

 堺市里親シンポジウム「子どもの幸せを求めて~里親のことを知ってください~」  
 日時:12月8日(土曜日)、午後1時30分から午後4時00分
 場所:サンスクエア堺 2階 第1会議室

プログラム 

第一部

  講演「里親制度-地域社会が親となる」~堺市の子どもを堺市で育むために~ 
  NPO法人キーアセット ディレクター 渡邊 守 氏

  講師紹介:NPO法人キーアセット(子ども中心の里親養育を支援することを目的に
        活動する団体)のディレクター
        IFCO(国際フォスターケア機構)理事

第二部

 里親からのメッセージ

第1部講演 「里親制度-地域社会が親となる~堺市の子どもを堺市で育むために~」の要約                                

 本日は里親のことを知っていただいて帰るだけでなく、もう一歩踏み込んで、里親になろう、里親になることを考えてみようという気持ちで帰っていただきたいと思います。
今日のメインは休憩後の里親の体験発表ですので、自分は前説だと思っています。
 今日は4つのポイントで話をしたいと思います。
(1) 私たちの目に触れない子どもたちの現状
(2) 選択肢の重要性
(3) 家庭の力、子どもの力
(4) 誰が地域社会の子どもを育むのか

 まずは自己紹介から始めます。私は養育里親として5年間に2人の若者を養育してきました。一人は女の子、一人は男の子です。
 里親になった理由は、両親も里親だったからです。母親から「里親になろうと思うけどどう思う?」と聞かれたことがありましたが、当時は「冗談じゃない。人様の人生を預かることは簡単なことではない。」と思いましたので、「絶対無理だからやめてくれ。」と言いました。でも実はこれは相談ではなくて決まっていたことでした。登録後数ヶ月で子どもが家に来ました。
 両親は全国を転々としていました。私は両親を通じて里親制度を見てきました。今は里親制度が充実していますが、昔はたいへんで、里親が報われない部分が多くありました。だから「自分は大人になっても絶対ならない。」と決めていました。
 なのに里親になろうと思ったのはどうしてかについて、少し説明させていただきたいと思います。自分が児童福祉の勉強にオーストラリアへ留学していたころ、指導教授から「子どもの声に耳を傾けよ。」とよく言われました。子どもが何を望んでいるのかに耳を傾けることであり、これが子どもの意見表明権であると説明を受けました。
 留学から帰ってきたとき、両親は、子どもの長期養育をしていました。男の子で、小さい頃から養育をしてきて、その子が思春期になり、いろいろ問題行動が出てきていました。親への暴力、家のお金を盗る、学校に行かないという状況でした。
 母は最後まで手放すことのないよう育てあげようとしていました。両親は地域でも民生委員をしていて、よい人でした。学校関係者も、「なぜ里親の言うことを聞かないのか?」と子どもに責めるばかりで、誰も彼の声に耳を傾けませんでした。母はストレスで病気を患いました。私が彼に何を望んでいるのか聞くと、彼は「一分一秒でも早くここから出ていきたい。」と言いました。紙にいろいろ選択肢を書いて、ここから出ていくと住む場所はないよ、とリスクを書いても、それでも彼は「出て行きたい。」と言い張りました。ついには妻が、私に里親になってあげたらどうかと言いました。でも妻は、助けはするが主体はあなただと言うんです。結局私たち夫婦が里親登録して彼を受け入れることになりました。母からすると私は人さらいでした。その時彼は高校2年生の夏休みで、この子にとったら待ったなしの18歳です。母との関係はいずれ修復できても、彼との関係は待ったなしの人生です。どうしたいのか聞くと「F1レーサーになりたい。」と非現実的なことを言うんです。
 母は20カ月後から体調を崩し、そして亡くなってしまいました。本当に母は命を削って養育してきました。
 里親はよかれと思いずっと愛情を与え続けたんですが、それが子どもにはプラスに作用せずに、「早くここから出ていきたい。」と言う。彼を見てこんな悲劇はないと感じました。これは私の両親が悪かったのでもなく、子どもが悪かったのでもないんです。児童相談所も、地域の皆様もよくやって支えてくれましたが、結果的に悲劇が起きました。こんな悲劇は自分の親だけでよいと思いました。そこから何かできないかと思い、国内でキーアセットの立ち上げをしました。本部はイギリスです。里親制度を質の高いものにして里親の養育するエネルギーが子どもに成果のあるものにしていこうというNPO法人です。
 現在は自分は里親養育はしていません。

 それでは、本題に入っていきます。
(1) 私たちの目に触れない子どもたちの現状
 有名な女優アンジェリーナ・ジョリーはカンボジアの子どもを連れて帰り、自分の子どもとして育てています。他にはマドンナなどがいます。国際養子縁組とは、国籍を超えて他国から子どもを連れてきて自分の子どもとして育てる制度です。海外へ子どもをよく送り出している国々としては、中国、韓国、インド等があります。そういう子どもたちが欧米や西側諸国へ渡っています。
 実は日本も子どもたちを海外へ送っています。これを頭ごなしに否定することはできません。たとえば日本の障害のある子どもたちを、わが子として積極的に引き受けて育てていきたいという外国の方がいるのも事実です。メディアの報告では年間40人~50人ぐらいの子どもが、主にアメリカに行っています。これをどう思うかはその方の価値観です。50人ぐらいならなぜ経済大国の日本で育てあげることができないのか、と思う人もいるかも知れません。
 私が今住んでいる豊中市では、年間約70人以上の社会的養護を必要とした子どもがいます。しかし児童福祉施設が豊中市内には1つもないんです。豊中市で生まれても豊中市で育つことができない子どもがいます。里親は何組かはいるので、何人かは豊中市で育つことができますが、それ以外の子どもたちはほとんど市外に出るしかないんです。こういった現状に違和感を覚える人がいるかもしれません。どの程度から違和感、抵抗感を覚えるのか考えていただきたいんです。一方で恵まれた環境ならどこへ行ってもいいのではと思う方もいらっしゃるでしょう。
 子どもたちは、生まれた直後からすぐにこの土地に順応しようとします。その例としては、私は生まれが北海道で2歳まで住んでいましが、当時の記憶はないんです。でも人間の汗腺は、寒冷仕様なのか南国仕様なのかがほぼ2歳までで決まるとい言います。無意識に子どもは生まれた地域になじもうとしていることから、生まれた地域で育つことは子どもにとってはとても深い意味を持つと思うんです。
 何らかの大人側の理由で、子どもが自分の地域から分断されるということが豊中市では起こっている。一方堺市はいかがでしょうか。堺市の子どもが堺市で育まれるということが、一人の人としてどういう意味を持つか考えていただきたいと思います。
 社会的養護の子どもたちの将来についても考えなければならないと思うんです。大阪市が興味深い調査をしました。施設退所児童支援のための実態調査報告書というものです。このような調査は東京都と大阪市しかしていません。過去5年間里親家庭や施設を退所した若者たちにアンケート調査を実施しました。回答は25.4%です。返事をくれない若者は、返事をしない理由があるか、返事ができない理由があるか、あるいは面倒くさいのでしょうか。返事をくれる若者は返事をするエネルギーがあると思っています。結果は、就業によって主な収入を得ている若者はわずか4割で、生活保護等の公的扶助が主な収入源が23.5%、収入なしと答えたのは1割でした。公的年金未加入が23.5%、加入しているかわからない人が2割、医療保険未加入者が9.6%です。これが大阪市の現状です。
 しかし、データとしてこういう現実があるだけで、実際はそうではなく、施設で育った若者に聞くと「施設は本当に楽しかった。いい思い出が多く、むかつくこともあったが先生には感謝している。」「施設の先生がいろいろ調べてくれたおかげで私は大学に行けました。」「嫌な先生もいたけどいい先生もいた。」という若者もいました。一概に社会的養護の環境はすべてひどいと考えるのは乱暴な話です。中にはその環境に感謝をし、人生を送るために歩んでいくための支えになり感謝している若者もいます。ではそういった環境を誰が提供してきたかというと、施設の先生であったり里親さんであることは間違いのない事実です。社会に出て一定人生が安定し、自分らしい生き方ができている施設出身の女性が話していたことですが、今どうしてるかわからない施設を退所した若者がいっぱいいるんです。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。

(2) 選択肢の重要性
 日本では、社会保障給付費(福祉医療高齢者等に使うお金)はGDP(国民総生産)の18%に過ぎず、そのうち数年前までは子育てという名目で使われているのはわずか4%に過ぎませんでした。冷静に考えると子育ては子どものためと言いながら、子どものためにほとんど使われていない。こんな現状で社会的養護の子どもたちがすくすくと育っていけないということは、国全体の問題です。
 先程の調査で話をしたように、なぜ施設を退所した若者が、生活保護を受けていたり国民健康保険に未加入であったりしたのかというと、一つは子どもに選択肢がないことが言えます。日本では9割は施設養育であり、里親制度が機能していません。もし施設養育を受けた子どもが他の選択肢があったならば状況が変わっていたかもしれません。里親制度は市民の参加がなければ成り立たない制度です。行政、施設が頑張っても市民の皆様が「私がやります。」と言ってくださらないと成立しない制度です。その結果、選択肢として子どもの為に里親制度が機能していない現実があります。
 オーストラリアでは95%が里親制度で、4%が施設です。しかも施設と言っても大規模なものでなく、4~5人ぐらいの子どもたちが生活しているところです。オーストラリアでは施設の機能が十分でなく、里親家庭で傷ついた子が治療的な施設の数が少なく、治療的な施設に行けない子が他の里親家庭に行き、うまくいかなくてまた別の里親家庭に行っているというふうに、子どもたちがボロボロになっている現状もあります。日本の里親制度の選択肢が少ない中でもきっちり育つ子もいれば、逆の意味で選択肢の少ないオーストラリでもうまく育つ子どもがいます。
 日本で、里親制度として子どもたちに選ばれない理由としては、里親の数が足りないことと、里親家庭で子どもが育つ制度が整っていないことが言えると思います。それに対して、里親制度をよくしていこうという動きがあります。このイベントもそうです。

(3) 家庭の力、子どもの力
 どうして里親家庭なのか。家庭は、子どもが育つごくごくあたりまえの環境で、18歳未満の子どもたちのほとんどは家庭で育っています。ただ家庭はあたり前すぎて気がついていないんです。社会的養護の子どもたちが日本には約4万人いますが、家庭で愛されることのなかった子は、家庭で愛されることが必要です。
 愛情というのは、なかなか子どもに伝わっていかないんです。目から脳、脳から心臓まで距離としては短いけれども、愛情として心に届くのは30年かかる子もいればそれ以上かかる子もいます。一方、人の憎しみ、嫉みを伝えることはいかに簡単か、あっという間で深い傷をつけます。ある重度の認知症のケア施設に勤めている女性の話ですが、おむつ替えをするときに毎回「おとうさんやめて。」と叫ぶ老女がいるそうです。彼女は多分自分の父親から性的虐待を受けていたと推測しますが、自分の名前を思い出せないくらい認知症の状態が進行していても、過去の傷は覚えているのでしょう。この深い心の傷にあらたな愛情を刻みつけていくのは並大抵のことではないと思います。30年かかってもその傷を癒すことはできないかもしれないけれども、やらなくてはいけないんです。誰がやるかというと、本当の家庭はこういうところだよと教えるところはやはり家庭ではないでしょうか。家庭で愛されなかった子は、家庭で愛される経験が必要であるし、家庭で傷ついた子は家庭で癒されないといけない。家庭で不適切な養育を受けた子は家庭で適切な養育を経験しなければならないと思います。
 大切なのは知識ではなく経験だと思います。大切にされる経験を積み重ねるということ。1回傷つけられたら1回大切にされたらいいかというとそうことではないんです。10回、20回、100回、1,000回かもしれない。どこでするのかというと、傷ついた家庭でできないから里親家庭が必要でなんです。必ずうまくいくわけではないけれども、子どもにはリジリエンス(精神的な回復力プラス反発力)というものがあり、うまくいくととんでもない力を発揮します。
 ある里親家庭出身の若者の言葉です。「私を捨てていった最初のお母さん、私を産んでくれてありがとう。次に来た2番目のお母さん、虐待してくれてありがとう。3番目の本当のお母さん、私と出会ってくれてありがとう。そしてたくさんの愛情をくれてありがとう。・・・」この言葉から、大人の愛情がどれほど大切なのかがわかります。
 この話から、「この里親さんはすごい人だ、私には無理だ。」と思う人いるかもしれませんが、そういうことではありません。以前里親のシンポジウムで元里子の話を聞いたことがありますが、元里子のメッセージは感動しますが、里親の体験談はあまりにも退屈でごくごく普通すぎるんです。里親にとって普通なことが里子にとっては普通ではないことで、それが大切なことなんです。
 ご飯どきに、お腹がすいてないというのに、食卓につくと、ご飯を2杯も3杯も食べる里子がいて、何度聞いても同じ反応なのでイライラしていた里親が、あるとき、「それじゃあ、どういうときにお腹が空くのか?」と子どもに聞くと、以前育っていた家庭では、2・3日ご飯を食べさせてもらってなかったので、「2・3日ご飯を食べなかったらお腹が空きます。」と答えたと言うんです。この子にとって空腹という感覚が、一般の感覚とは違うんです。
 私たちがあたり前と思っていることをあたり前じゃないと経験している子に、あたり前なこととして提供していくことが里親さんの役割です。それを家庭の中で示していかなくてはいけないんです。それは、ごくごく普通のことを提供することであって、それがその子どもたちにとっては暖かい素晴らしい経験になるんです。だから崇高な人間であることもないし、皆さんも怖がらずに里親さんになることができると思います。

(4) 誰が地域社会の子どもを育むのか 
 誰がその子どもたちに家庭を提供していくのか、地域で育んでいくのか、中にはそんなのは親の責任だという人がいます。でも責任論の話で言っているのではないんです。親が第一義的な責任を担っているのは当たり前の話ですが、親が第一義的な責任を果たせなかったら、それが子どもにとって不運だったなと終わらせるの、という話です。
 里親にならない、なれない理由を探せばたくさんあります。里親になれない、できないというところに目を向けるのでなく、里親になるための第1歩を踏み出す、やるんだ、やってみるんだ、私がやらなければ誰がするんだと思い、1歩を踏み出すかどうかは皆さんの選択次第です。帰って地域の人に伝えるというのも一つの方法ではあります。
 現在は以前のように、里親さんが何でも抱え込む時代ではありません。里親さんに必要なトレーニングを提供します。経済的な負担のないよう様々な支援をします。行政から手当や生活費が出ます。児童相談所のケースワーカーや心理職がパートナーとして支えてくれます。その他、里親会や施設職員がパートナーと一緒に子どもの育ちを支えていきます。
 どんと里親になる第一歩を踏み込んでいただきたい。まずは、堺市子ども相談所や子ども家庭支援センター清心寮・リーフにお電話をしてください。お待ちしています。

第二部 里親からのメッセージの要約

 週末里親になって早3年が経ちました。

 平成20(2008)年の秋から初冬にかけて里親研修を受け、翌年3月に正式に里親登録させていただきました。それからは、「いつ子ども相談所から電話かかってくるのかな?どんな子が紹介されるかな?」と楽しみにしながら待っていました。そしてその夏のある日、子ども相談所から電話をいただきました。
 施設の応接室へ先生に付き添われ顔をうつむき加減にして入ってきた男の子。お互い緊張しながら顔を合わせたのが、私たちとA君の出会いでした。
 その秋の9月8日、初めてわが家を数時間訪問し、それ以降、月1~2回の週末を過ごすようになり今に至っています。
 当時小学校3年生だったA君も今や最高学年の6年生。わが家での居場所ができるようにと、彼の衣類を入れる引き出しを決めたくらいで、後は私たちの生活リズムの中で家事の手伝いをしながらわが家の一員になりました。しかし、本人の生活基盤がわが家にないために、一緒に遊ぶ友達がいるわけでなく、我々とA君だけの関係になってしまいます。そのため、初めのうちは、「次は何処へ連れて行ってあげようか?一緒にどうやって過ごそうか?」とこちらも戸惑うことばかりでした。振り返ると、
・ 和歌山の博物館、和歌山城へ電車で、
・ 春や夏の高校野球やプロ野球観戦で甲子園球場へ
・ 冬の金剛山へ山登りしたり、
・ 池田にある「日清食品のインスタントラーメン発明記念館」で、インスタントラーメンがどうやって発明されたのかを見学し、A君が選んだ特製の具をトッピングしたチキンラーメンをお土産に持って帰ったり、
・ 大阪市立科学館では、「はやぶさ」の地球帰還の写真をみたり、磁力や歯車、風の力、水の力など色々な理科の実験を体験したり、
・ 今年の夏休みの夜は、今でも国際宇宙ステーションに滞在している星出宇宙飛行士と堺や全国の小学生との交信を体験しました。
・ A君の所属する子ども会のソフトボール練習の応援(今彼は副キャプテンとしてキャッチャー守ってます)
・ 学校への授業参観、運動会の応援
 振り返ると、楽しい時間をA君と一緒に過ごせ、そのときは二人ともタイムスリップして40代に若返った気分になります。本人も「次は何処へ行く?今日は何処へ連れて行ってくれるん?」と毎回楽しみにして聞いてきます。夫も一緒に遊んできたことをとても嬉しそうな顔をして帰ってきます。出かける目的は、A君に社会的な観察や体験をさせたい、人間として豊かに育って欲しいという気持ちからなのですが、それはA君をお客さま扱いにしてしまうことになり、「これでいいのかな?何か違うな?」という気持ちが起きるのでした。
 しかし、1年もするとどこかへ出かけるだけでなく、一緒に生活するということが中心になってきました。自ら家事を手伝ってくれるようになりました。特に料理は楽しそうです。
 また、私たちが誇らしく思うのは、A君は、施設が大好きで、先生が大好きで、友達が大好きだ、ということです。施設の状況を尋ねるときは、いつも楽しげに、生活の様子を話してくれます。A君が話す言葉の中に、地元の子ども会、地域の方々に大切にしてもらっているんだなと感じられ安堵します。
 しかし、しばらくして気づいたのですが、学習の習慣が身についておらず、回りとの関わりや自分一人で判断する状況に置かれたとき、なかなか自信が持てなくて、何をするのもこちらに判断を求めてくるところがあるのです。少しでも本人の自信につながるように、一人で考えられる自立した人間になって欲しいなと思っています。そのためには、やっぱり学習能力を鍛えなくてはと考え、頑張る努力をする、何事も辛抱強くやり遂げる、ということを少し強く本人に対して要求しました。そのおかげかどうか知れませんが、小学校の先生もこの頃は「落ち着きが出てきた。」「辛抱強くなってきた。」と言ってもらえるようになりました。わが家に帰ってきたときも「ただいま!」といって玄関に入ってくるA君です。「大きくなって里親さんに喜んでもらえるように頑張りたい。」ということを作文に書けるようになりました。本人も「私達の期待に応えよう。」と思ってくれているのかと思うと嬉しくなる私たちです。
 週末というわずかな機会の中で、様々な経験を通して、少しでも子ども時代を豊かに過ごして欲しいと思います。「僕を気にかけてくれている大人がここに二人いる。」と思ってもらえれば何よりも幸せに思うことです。
 今は施設の行事や子ども会の行事があれば、やはり優先させないといけませんし、A君の要望に合わせて、来てくれる日を決めています。これからはA君が来たいと思うときには来られるようになればなと思います。     
 私たちには少しさみしいですが、学校や施設、地域での生活が忙しく、「中々、おっちゃん、おばちゃんの顔を見られなかった。」といえるくらい大きくなるA君を夢見ています。                                    
 私たちにとっても、気になる、かけがえのないA君であることは間違いありません。今からどんな青年になっていくのかとても楽しみです。
 週末里親は、生活スタイルを変えることなく、とても受け入れやすい、どなたにでもできるシステムだと思います。何より素敵なことは20年も若返ります。間違いなしです。
 ご紹介したつたない話は、とてもこのような場でご紹介できるようなものではありませんが、それでも、週末里親としての体験をお話させていただく機会を与えてくださった関係者の皆様方に厚くお礼を申し上げたいと思います。有難うございました。
 本日参加されている皆様方の中には、里親として長年やって来られ、何人もの里子を育ててこられた先輩や里子の子どもさんやお孫さんを見ておられる里親がいらっしゃいます。
 私たちも里親さんとの交流が大きな楽しみです。経験豊かな諸先輩方のお話を聞かせていただく中で色々学ぶ事が多く、里親になって初めて得た財産だと喜んでいます。
 最後に、本日参加されている皆様にも週末里親として、更に豊かな人生を過ごしていただければと思います。
 

新しい家族

 私は30歳で結婚し、当初から子どもを望んでいたのですが、なかなか授からなかったので、不妊治療を始めることにしました。結局37歳まで3ヶ所の病院に通いましたが、子どもには恵まれなかったので、養子を迎えるのはどうかと、夫に話しをしたことがありました。夫は前向きに考えてくれました。
 月日が流れ、42歳を間近に迎えたときに妊娠ができない体だと医師に告げられ、そのときはショックを受けましたが、やっと夫と共に、特別養子縁組に向けて気持ちを切り替えることができました。
 そして平成22年7月に子ども相談所に面接の予約を入れました。夫婦一緒だったり、どちらか一方だけの面接が何度かあり、必要書類を提出し、研修を受け、児童養護施設での実習を終え11月末に里親登録ができました。以前ネットでは児童相談所で里親登録をしても、すぐには子どもを紹介してくれないと書いてあったので、私達は年末は夫婦でのんびりしようと考えていました。
 ところが、12月に入ってすぐ、子ども相談所から紹介したい子どもがいると電話がありました。私はドキドキして男の子か女の子か、何歳かも聞けないまま受話器を置きました。そして1週間後に夫婦二人で、子ども相談所に行くことになりました。私たちは2歳位の子どもを希望していたので、実習で関わった小さな子達を想像しながらその日を待ちました。
 そして当日、私たちは子どもに直接会えると思っていたのですが、そうではありませんでした。
 紹介されたのは3歳7カ月のBくんでした。写真を見て以前毎日新聞の「愛の手」に掲載された子だとすぐに分かりました。その切抜きは今でも大切に持っています。でもその当時は、里親登録も済んでいなかったし、希望していた2歳児ではなかったので行動には至りませんでしたが、彼の生い立ちや、一緒に施設で生活していたお友達が里親家庭に引き取られて、寂しがっていたことを聞いて、3歳7カ月でいろんなことを背負っているんだと、まだ会ってもいないのにとても愛しく思いました。
 返事は後日電話ですることになっていたので、私達は心に重いものを抱えて、子ども相談所を後にしました。私は帰りの車で夫にどうだったか聞いてみました。夫は「可哀想だけど、すぐには決められない、もう少し考えたい。」と言いました。しかし、私の答えは決まっていました。子育て経験のない私が、突然3歳7カ月の男の子の相手ができるだろうか、という不安はもちろんありましたが、今回もしもこのお話をお断りしたところできっと、「あの子はどうなったんだろう?幸せに暮らしているだろうか?」とずっと気になり続けることは想像できたからです。
 私達は夜遅くまで話し合いましたが、その日結論は出ませんでした。
 翌日、私は買い物に出かけました、そこには100センチメートルの男の子の服が飾られていました。こんなに小さな服を着る程まだまだ小さい子どもなんだと、さらにBくんのことが愛しくなってきました。
 その夜、仕事から帰宅した夫と再度話し合い、Bくんと私達は縁があったからこそこんなに早いタイミングで引き合わせてもらい、そしてBくんは自分だけを愛してくれる親を待っている、私達にはそれができるんじゃないかと、Bくんを迎えることに決めました。
 後日、子ども相談所からBくんとの面会の日程を知らせる電話がありました。私達は12月20日にBくんのいる児童養護施設に直接会いに行くことになりました。そのときに、「Bくんにどう呼ばれたいですか?」と聞かれたので、さすがに40過ぎた夫婦にパパ、ママはないと思ったので「お父さん、お母さんで。」とお願いしました。また、クリスマスも近かったので、Bくんの大好きだというアンパンマンのサンタブーツを買って行くことになりました。
 そして当日がやって来ました。仕事を早めに切り上げて来た夫と、ドキドキしながら児童養護施設に向かいました。応接室に通され担当の先生と打ち合わせをしていると、なんとBくんがドアからニコッと顔を出して、私達に会いに来てくれました。実際に会うと写真よりもまだまだ小さくて可愛い男の子でした。その後、別の部屋に移動し、私達とBくんの3人だけの時間を作っていただきました。Bくんは絵本を手にすると何の躊躇もなく、私の膝にちょこんと座りました。こちらがあっけに取られていると「ねぇ、ママ」と自然に話しかけてくれました。そして次に夫の膝に普通に座り、パパと呼んでいました。本当はお父さん、お母さんと呼ばせたかったけれど、Bくんがここまで自然に呼んでくれるので、今でもこの呼び方で通っています。
 そして3人だけの時間はあっという間に過ぎました。Bくんはニコニコしながら、玄関まで私達を見送ってくれました。私は翌日から施設に通うことになっていたので「また、明日ね。」と言って、家路に着きました。私達はまさか初日に、あんなになついてくれるとは思っていなかったので、少々驚きましたが、翌日から会いに行くのがとても楽しみになりました。
 そして当日、私はお昼前からBくんと個室で過ごしました。一緒にお昼ご飯を食べたり、テレビを見たり、ブロックを組み立てたり、おトイレをさせてあげたりしていろんなことをしました。Bくんは前日にプレゼントしたサンタブーツのお菓子をおやつに食べました。そしてBくんとの会話の中で動物の話が出たので、私が動物園で撮った写真を見せてあげることにしました。夫が写っていると「これパパ?」と聞いてくるので「そうやで、Bくんのパパやで。」と答えました。そのせいか、次に夫と会うまで、夫の顔を覚えてくれていました。そしてBくんは初めて触るデジカメで私の写真を撮ってくれました。
 翌日も施設で過ごす予定でしたが、家に猫が3匹いることを告げるとBくんは「ママの家に行きたい、猫ちゃんに会いたい。」と言いました。施設の先生に言うとOKが出たので、翌日は家で過ごすことになりました。その日の帰り、Bくんのためにチャイルドシート、着替え、歯ブラシ、食器など慌てて買い揃えました。そして、家に帰ってBくんを迎える準備をしました。
 当日は新しいチャイルドシートにBくんを乗せて、ハンバーガーショップでランチをしました。Bくんはチーズバーガーを半分食べたところで、「うんこ」と呟きました。私は「えっ、うそっ!」と思いましたが、テーブルをそのままにしては行けないので、慌てて持ち帰り用の紙袋に、食べかけのチーズバーガーとポテトを放り込んで、トイレに駆け込みました。子どもがいるとこんなことが度々あるのか、と勉強になったできごとでした。その後、公園で遊んでいよいよわが家へ連れて帰りました。Bくんは探検でもするかのように、家の中を歩き回りました。猫達はBくんの足音に驚いたのか、1匹を除いて皆どこかに隠れてしまいました。
 その日はBくんとカレーライスを作って、一緒にお風呂に入って、また施設まで送り届けました。その日から毎日施設まで迎えに行って、家で一緒に過ごして、また施設に送り届ける日が続きました。
 クリスマスはお泊りのOKが出たので、Bくんの大好きなアンパンマンのクリスマスプレゼントと、仮面ライダーオーズのケーキを用意して楽しく過ごしました。
 そして、2回目のお泊りのとき、Bくんは初めて「施設に戻りたくない。」と泣いてしまいました。そうかと思えば「もう、パパとママとお別れする。」とも言い出しました。私は、Bくんが落ち着くまでもう1泊できないかと施設に電話しましたが、先生はBくんには「ママの所で1回お泊りしたら、また施設に帰って来るのよ。」と約束しているので、「可哀想だけど連れて来て下さい。」と言いました。その日はBくんをなんとかなだめて車に乗せました。
 Bくんは施設に戻る日は、夕方頃からだんだん機嫌が悪くなり、私がリュックに荷物を詰め始めると、駄々っ子のように手足をバタバタさせて泣きました。それでも施設には連れて行かないといけないので、「ねぇ、Bくん、ママと一緒にガチャガチャしに行こうか?」と嘘をついて車に乗せました。Bくんは「ガチャガチャしたらおうちにかえるで。ぜったいおうちのベッドで寝るで。」と言いました。Bくんはガチャガチャを手にすると機嫌がよくなり、その後はチャイルドシートで眠ってしまいました。起こさないように、施設に向かってそっと車を走らせていると、Bくんがひょこっと起きて、「ママ、もうすぐおうち?」と聞いてきました。私はもう嘘はつけないと思い、本当のことを話すと、Bくんは運転席の背もたれをガンガン蹴ってきて、泣き喚きました。他の人が見ると誘拐犯に見えたかもしれません。施設に着いてもBくんは車を降りようとしません。先生がやっと抱きかかえて下ろすと、施設中に響き渡るような大きな声で泣き叫びました。Bくんは私に手を伸ばしてきたので、部屋まで抱っこして連れて行くことにしましたが、それでも一向に泣き止みませんでした。ずっと一緒にいたいのに、帰りは1人きりで家路につく。私はこのときが、今までで一番辛かったです。
 Bくんは車に乗ると、最初の頃はいろんな車を見てはしゃいでいたのに、この頃は、信号待ちで止まると「なんでとまってるの?」とか「どこいくの?」といつ施設に連れて行かれるのか、不安がっていました。
 そして、ようやく1月末に施設とのお別れが決まりました。これでやっと、Bくんに「ずっとお家やで、もう施設に行かなくてもいいんやで。」と言ってあげられました。Bくんはとても喜んでくれました。私ももう、あんな泣き顔を見なくて済むと思うと嬉しくなりました。
 施設とのお別れの日、皆でBくんを見送ってくれました。いつもと違う雰囲気にびっくりしたのか、Bくんはずっと無表情でしたが、一緒にケーキを買って帰ると、いつものBくんに戻りました。
 それからしばらくして、Bくんと私は緊張が緩んだのか風邪で寝込んでしまいました。風邪は1週間ほどで治りましたが、当時は病院で里親や施設に渡される受診券で診てもらっていたので、名前を呼ばれる度に、Bくんは「ちがう名前を呼んでたよ、なんで?」と聞いてきました。私は「今は違うけれど、いつかママと同じ名前になるからね。」と説明しました。こんなときはいつも、早く私達の籍に入れてあげたいと思いました。それから病院に行くときは、いつも私達の苗字で呼んでもらうようにお願いしました。
 真実告知については、施設でも絵本を使って聞いていたようですし、私達夫婦もBくんに聞かれたら何でも話そうと考えていました。Bくんは私と夫の子どもではないことは最初から知っていたので、Bくんがお家にやって来て私達がどんな気持ちだったか、今まで寂しくなかったか聞いてきました。そして何度か私のお腹から生まれたかった、と言ってくれたこともありました。私もBくんを産めなかったけれど、私達の元に来るために、生まれてきてくれたと思っています。だから、いつも「Bくんはパパとママにとって、とても大事なんだよ。」と言っています。
 Bくんが家に来てから、思い出も沢山できました。春にはお弁当を持って花見に出かけ、誕生日を祝って、夏には2年続けて和歌山に海水浴に行きました。秋にはハロウィン、紅葉狩り、クリスマスは一緒にツリーを飾り、初めての冬は雪の中USJに行きました。お正月にはお互いの実家に帰り親戚への顔合わせもしました。初めは固まっていたBくんでしたが、2年目にもなると輪の中心にいました。以前とは違ってずいぶん明るくなったと皆驚いていました。
 初めてのヒーローショーはウルトラマンでした。Bくんは周りのノリについていけず、ずっと黙ったままでしたが、それからはウルトラマンが大好きになりました。今では仮面ライダーはもちろん、親の影響で昔のヒーローやアニメにも詳しくなりました。
 Bくんは年少の年は、まだ迎えて1年目だったので親子の絆を深めるために幼稚園には入れずに、私と一緒に過ごすことにしました。
 そして今年の春から年中さんです。それまでの1年ちょっとでお兄さんになったのか、通園バスでも最初から泣かずに元気に通っています。幼稚園でたくさんお友達ができて、本当に毎日が楽しそうです。
 先日、幼稚園で運動会があり、夏休み明けから毎日頑張っていた練習の成果を、私達に見せてくれました。私達も他の若い親たちに混じって頑張りました。こういう楽しい経験ができたのも、Bくんが私達の元に来てくれたからです。
 たまに聞き分けがなくて、腹の立つこともあり、私がトイレに逃げ込んだこともあります。また、叱りつけて泣かせてしまったことも何度もあります。でもその後必ず、なぜ叱ったのか、どこがイヤだったのか説明するとちゃんと理解してくれます。その後はいつも“仲良しのギュウ”をして仲直りすることがお約束になっています。私自身、Bくんを抱きしめることで、落ち着きを取り戻すことができました。
 里親になる前は、子どもを育てるのはたいへんなことだと、周りの人から言われましたが、自分の子として育てるのだから当然のことだと思っています。
 でも、それ以上に子ども目線の発見や、今まで気づかなかった親の気持ちを気づかせてくれて、B君を迎えて本当に良かったと思っています。
 現在は特別養子縁組も成立し、晴れてBくんは私達の長男になりました。この先もいろんなことがあるかもしれませんが、ありのままのBくんを受け止めていきたいと思います。
 最後に我が家に迎えるまでBくんをお世話してくださった乳児院の先生方、児童養護施設の先生方、そして、Bくんを迎えてからはいろいろ支えてくださった子ども相談所の方々、里親支援機関の方々、本当にありがとうございました。
 そして、Bくん、生まれてきてくれて、本当にありがとう。

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子ども青少年局 子ども青少年育成部 子ども家庭課
電話:072-228-7331 ファックス:072-228-8341
〒590-0078 堺市堺区南瓦町3番1号 堺市役所高層館8階

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