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堺市
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平成28年度 第3回 堺市博物館活性化戦略会議 議事録

更新日:2017年4月17日

日時

平成29年(2017年)3月1日(水曜) 午後1時30分から

場所

堺市博物館 地階 博物館ホール

会議録

ミュージアムディレクター(市長)挨拶

竹山市長
 今日は大和ミュージアム館長の戸高さんをお迎えして博物館の活性化についてお話を伺う。年間100万人の来館者があるとお聞きしており、どのような魅力づくり、どのような工夫で博物館を活性化させているのかについて、色々なヒントがいただけると思っている。今お聞きしたら来客の8割以上は県外の方ということだった。どのようにして県外からの入館者を引き付けるのか、楽しみに聞かせていただきたいと思う。また、これからは博物館と共生する地域について考えていかなければならないと思っている。
 百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録されたときには、博物館を中心としたまちづくりを視野に入れなければならないと考えているところでもあり、その部分も含めて今日はお話をお聞きしたいと思う。よろしくお願いいたします。

案件 戸高 一成 呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム 館長による博物館活性化への提言

戸高館長
 今日は簡単なお話をという程度で思っていたが、かくも凄い場にきて緊張している。私の話がどれくらい役立つのかは保証の限りではないが、大和ミュージアムを作ってから現在までの話、また大和ミュージアムを作る前は厚生省の依頼で昭和館設立にも関わっていたので、博物館に対する考え方などをお話ししたい。参考になれば幸いだ。

◆造船のまち・呉のミュージアムとして
 まず現状の大和ミュージアムがどのようなものか、来られた方もおられるかとも思うが、簡単に説明させていただきたい。一番初めの大和ミュージアムの企画は1980年に始まった。地域の博物館は何をやりたいかを考えたときに、呉では地域の若い人に地域の歴史を知ってもらいたい、若い人が自分の生まれ育ったまちの歴史をちゃんと知ってほしいと考えた。それで初めて自分のまちに愛着を持つことができる。まちの歴史を次に伝えることが必要であろうということがずっと根底にあった。
 ところが呉は明治以来海軍のまち、軍港のまち、そして軍艦を建造していた造船のまちということで、深く戦争の歴史に関わってきた部分があり、それをどのように扱うかは非常に難しい面があった。どのような“ものかたち”が世の中に受け入れられるかということで、なかなか話が纏まらなかったが、とにかく造船技術に関することであれば、これは普遍的な問題だから、技術のまちであるということを根底において博物館をつくっていけばいいのではないかということになった。自前でお金を出すということが苦しいまちだったので、最初は県立の博物館として誘致できないかということもあったが、結局うまくいかなくて、呉市独自の海事に関する歴史技術博物館としてつくろうとスタートした。

◆海軍技術を伝える史料調査会から昭和館、そして大和ミュージアムへ
 平成6年から7年に博物館資料収集業務というのがあるが、この当時、私は財団法人史料調査会という海軍の歴史資料だけを保管している財団法人の主任司書をしており、呉市から海軍時代の歴史資料を頻繁に調査に来ていた。頻繁にやってきて大量なコピーを持って帰るということをしていた。私は「呉市さんは大変貴重な仕事をしているな」と第三者の立場で気楽に思っていた。広島に作るのは難しかろうと感じていたが、一生懸命資料集めをされているので、私は資料を提供するという立場でお手伝いをしていた。地域の歴史を残すということは重要なことだと思って、お手伝いしていた
 当時私がいた史料調査会は、終戦時に、米内海軍大臣が終戦を迎えて海軍の作戦部長だった富岡定俊氏に「日本の海軍はこれで消滅するが、日本の海軍は多くの失敗もあるけれども後世に残すべきものもたくさんある。君は戦後日本の海軍の歴史を伝える仕事をしてくれ」といわれて戦後文部省の財団法人としてつくった研究所だった。そこには海軍のオリジナルの貴重な資料が大量にあったが、予算がないので少ない人数でやっていた。そこで仕事をしていた。会長も私の直属の上司も連合艦隊の参謀のOBで、山本五十六さんの参謀をやっていたような人だった。
 平成5年になると、厚生省から私に「戦時下の労苦を伝える博物館をつくりたい、今年、準備室を立ち上げるので、担当者になってくれ」という話が来て、いろいろ考え、史料調査会にも相談して、平成6年に移籍して担当になった。その時に「博物館の専門家はほかに誰がいますか」と聞いたら「あなたひとりです」と言われて、「随分乱暴なことをするもんだなあ」と思った。その間も、呉市へのアドバイスも続けていた。平成11年に昭和館はオープンした。靖国神社の筋向いにあるお堀端にたっている博物館だ。苦労してやっとできてほっとして図書情報部長をやっていた。
 すると、今度は呉市から「昭和館が落ち着いたら新しい博物館を手伝ってくれないか」と話があり、生まれてから50何年仕事で東京から離れたことがないので、随分遠いなあと悩んだが、貴重な仕事だと思っていたので、平成16年に呉に着任して、開館準備をして平成17年に大和ミュージアムがオープンし、初代館長になった。

◆どこにもないものがある博物館に
 この時、博物館について私が考えていたことは、昭和館をつくるときにもずっと考えていたことだが、新しく施設をつくるということはどういうことか、これは「どこにでもあるようなものをつくってはいけない」ということだ。「どこにもないからつくる」「どこにもないものをつくる」、こういう考えがなければ他の似たようなものをいくつつくっても、それは単に同じようなものをつくる、屋上屋を重ねるというか無駄なこと。新しくつくるからには、「そこに行かなければ無いもの」をつくる。似たようなものが日本中どこにでもあれば、わざわざそこに行く人はいないから。そういう形でつくった。ところが、何をもって「そこにしかない」というのかは色々考える余地がある
昭和館の時には、今と同じで強制連行や従軍慰安婦の問題が国会で取り上げられていて、「厚生省はどんなものをつくろうとしているのだ」と国会で議論になり、厚生省は腰が引けて「問題になるような展示は一切したくない」と考えたようだ。例えば、野戦病院のジオラマを作って警備の兵隊の人形を置こうとしたら、「兵隊は置くな」「鉄砲は持たせるな」など想像を絶するような縛りができた。私は「厚生省の方針ならば仕方がない、それに合わせた展示を」と考えた。
 ものをつくるにはいろいろな方法があると思う。厚生省から提案されたのは、戦時下の食べるものがない生活や苦労した生活のストレートな展示だった。私はそういうものはあまり見て楽しくない、人が見に来るかどうかもわからない、同じ苦労を伝えるにも開き直って考え方を変えることができないかと考えた。そこで私が提案したのは、戦争前の昭和期の楽しかった資料、子どもの文化とか遊芸娯楽に関して「面白かった」「楽しかった」「豊かだった」資料をたくさん展示しよう、そして、こんなに豊かで楽しかった生活が失われてしまうのが戦争なんだと、そういう展示にしよう、と提案した。
 要するに、ものを展示するというのは実際に具体化しなければいけない。痛いものを痛いと伝えるのではなく、同じものを違う表現で表わさないといけないと考えた。そのうえで、日本にここしかないものとは何かと考えたときに、昭和期の国民生活に関する資料を徹底的に集めようと、かなり大量に集めた。映像資料などもワシントンに何度も行って、終戦直後に米軍が撮影した日本中の都市のムービーフィルムを1000タイトル以上コピーを取ってきて、写真も1万枚以上、後には5万枚くらい戦前戦後の写真を集めて集積した。また、図書資料では、『少年倶楽部』のような子ども雑誌から『婦人画報』『主婦の友』のような生活にまつわるものを集めてきた。
 ところが集めるだけでは使えない。どういうふうに使うか考えたときに、検索のシステムで日本唯一のものにしようと考えた。ムービーのほかに戦前のSPレコードも3万枚以上集めて、これは日本一のコレクションだと思うが、これらを全部一括して検索できるシステムをということで、全部を図書の目次もすべてテキスト化してキーワードで検索できるようにした。人名で引いたり項目で引いたりできる。例えば「下駄」と入力すれば、下駄に関する全ての項目が端末上に表示され、ボタンを押せば内容が見られる、音が聞こえる、ムービーが始まるという検索端末を作った。そういうことで、外からは見えないけど、実際に行ってみればここにしかないものが見られるというものを作った。

◆未来永劫世界一の戦艦大和をシンボルに
 同じように考えて、大和ミュージアムに呼ばれたときにも、他と似たようなものはいらないと。では、造船の博物館をつくるときに、何をもって日本唯一を言えるのかと考えたときに、それはやはり戦艦大和だろうと思った。みなさんもそう思われると思うが、最初はさすがに戦艦を中心にした展示で周囲の認知や納得を得られる展示ができるだろうかと疑問視されていた時期があった。戦後、呉市は世界トップクラスのタンカーを造っていた時期があったので、「タンカーをメインにしたものをつくってはどうか」という意見もあった。しかし、私は「それはだめです」と言った。世界一のタンカーを造ったと言っても、ある日世界一でなくなるということが起こりうるからだ。ところが戦艦大和は、もう巨大戦艦をつくる時代が終わっているから、戦艦大和は未来永劫世界一だ。日本人が作ったもので未来永劫世界一が保障されているものは、そうたくさんあるものではない。日本にそういう技術があったことは事実であり、それを堂々ときちんと出すべきであるということで、戦艦大和をメインにすることに決定した。
 ただ、ベースは技術の歴史なので、展示内容は淡々としている。明治以降の日本の技術導入、これが素晴らしいスピードで日本に定着して明治維新からわずか70年ほどで、全くのゼロスタートから世界一の戦艦をつくった素晴らしい日本の歴史を伝える博物館にした。歴史展示の部分は非常に地味だ。館内の最初の展示品が煉瓦2個。これは、明治20年代に海軍が呉にくるときに、ここに鎮守府と海軍工廠を作るというオーダーが来るが、当時は本当に何もない、建物を作れと言われたら煉瓦を焼くところから始めるのが建築だ。その当時、サンプルで作った煉瓦が残っていたのを展示している。見た目にはその辺に転がっている煉瓦だが、これが持っている歴史的背景が極めて面白い。その他の展示も同様に、技術の歴史はお宝はない。ケースの中にハンマーやスパナが展示してある。それぞれが活躍した時代の歴史的背景の面白さを伝えるきっかけだ。
 しかし、地味なものばかり見ていると飽きてしまうので、入ってすぐの所に戦艦大和の巨大模型を置いた。最初に「わあ、すごい」「面白い」というインパクトがあって興味が掻き立てられる。当初は100分の1とか50分の1とかのサイズを予定していたが、結局は10分の1、26.3メートル重さ27トンになった。材質も、木製という案もあったが、子どもたちが叩いてポクポク音がするようでは権威も何もなくなるので、船体は護衛艦と同等の材質を用いて、現存する武蔵・大和に関する資料を基に可能な限り忠実につくっている。手を抜くとすぐにわかってしまう。本気でとことん作りこんだものは「すごい」と感じてもらえると思っている。

◆疑問が解ける博物館に
 私が一番感じてもらいたいのは、模型のすごさではない。「70年以上前によくぞこのようなものを造ったな」「アメリカもイギリスも造れなかったものをよく造ったな」という驚きと併せて「どうしてこのようなものを造らなければならなかったのだろう」という疑問、また「工員さんたちはどのような教育を受けた人たちが造ったのだろうか」「お金はどのくらい掛かったのだろうか」という疑問など、いろいろな疑問を感じてほしい。その疑問を抱えて地味な展示をみるうちに、だんだん疑問が解けくるような流れになっている。そのためには、やはり、ここにしかないものを展示できる施設であるということが重要だ。展示スペースに限りがあるから、表に出てくる資料はさわりの一部だけ、興味を持った人がもっと知りたいと思ったときには資料的な背景がなくてはいけない。疑問があった時に展示の中では細かいところまでわからないが、わからないまま帰ってしまったら博物館に来た意味がないと思う。
 そこで文献資料、図書室、書庫の面積を大きく取ってもらった。展示をフォローするのは文献史料であると考えている。日本の造船、海軍の造船に関わる博物館、特に大和に関わる博物館であるからには、一次資料が全部なければいけない。オリジナルの資料はなくてはいけない。でなければ日本一とは言えない。私の史料調査会当時の上司だった福井静夫さんという技術少佐の方が戦後集めた図面と写真や戦艦大和の設計主任だった方が秘蔵しておられた当時の資料、また大和の基本計画をした時のスタッフだった方から当時の資料をいただくことにした。大和に関する現存する資料はおそらく99%大和ミュージアムにあると思う。大和に関してうちで分からなければもうわからないというくらいやって初めて大和ミュージアムと言えると思っている。そういう気持ちでやらせてもらっている。偶然、私は戦艦大和の二代目の艦長だった方からお話聞かせていただき、大和の設計に関わった方からオリジナルの資料をいただき、乗組員だった方など関係者100人くらいからお話聞いている。そういう背景があって巡り合わせで大和ミュージアムに着任することになったと思う。「うちはこういう博物館だ」というものを打ち出したら、可能な限りそのテーマに関してはその博物館に行かない限りわからないというくらいの姿勢を持っていなければならないと思う。博物館というのは知的な情報提供施設、文化の発信施設としてそれだけの権威があってしかるべきと考えている。

◆あらゆる機会で広報活動を
 「博物館をつくりました」といっても、周りの人は知らないことが多い。事前に市の広報などには載せていても、一体どれくらいの人が読んでいるだろうか。私は1年前に着任した。まず周囲の人に知ってもらうのが仕事だと思っていた。議会では最後まで反対する会派があり、「戦争を肯定するような施設ではないか」という質問があって、議会で「きちんとした平和教育をする施設です」という答弁も行った。どういう施設であるかを知ってもらうために、希望があればどこへでも説明に行った。100人単位の集会から4~5人の老人会の集会まで、1年間で40~50くらい出向いて話をした。
 ただし、地元と言っても人口25万人の市なので限界がある。広報について考えたときに、知り合いのいる出版社で戦艦大和について新書を出版したら帯にオープニングの日を書いて宣伝してくれることになり、オープン時には本を持ってきてくれる人が多数あった。日本国中で告知することができ有効な広告を打つことができた。また作成した図録を単行本として販売した。博物館が全国の書店で図録を売ったというのは初めてではないだろうか。これは、大学の友人などが広告代理店や出版社に勤務していたところから協力を得ることができたということがあった。新聞や雑誌に広告を打っても、なかなか読んでもらえない。同じお金を使うなら、記事にしてもらうこと。記事にしてもらえるような情報を供給することだ。例えば、大和の新しい資料が出たらトピックとして記事にしてもらうというやり方を常に考えてきた。これは自治体では難しいかもしれない。自治体は平等に記事を発信しなければならない。民間では、その都度、相手を選び限定の記事を載せてもらうことができる。

◆毎年100万人近くの来館者
 来館者数は、平成23年の東日本大震災の年は落ち込んだが、初年度の貯金があったので平均で100万人という数字になっている。100万人というのは大変な数字だ。1年の開館日数は約300日だから、毎日3,000人来ても年間90万人だ。では、どんなお客さんが来ているのか、来館者分析をすると、ほとんどが近畿、中国地方だが、日本中から来られている。次にどなたと、これは家族連れが多いですので男女比にも表れている。年齢も各年齢層均等だ。次にリピーターについては、はじめての人が80%だ。分析するとほとんどの人は遠くからわざわざ1回だけ来る。リピーターという言葉を同じ人が興味を持って何度も来るというように使うことが多いが、うちのリピーターは1回しか来ない。例えば東京から来て、面白かったよと友達に言えば4人5人10人の人が来てくれるかもしれない。それを私は「拡大再生産型リピーター」と言っている。このように1回しか来ない人がほとんどだから、職員にも「1回で満足してもらえるように応対するように」と言っている。
 私は、博物館というものは、企画があって準備して設計して建設して草臥れた頃にやっとオープンすると思っている。オープンしたときに完成したと思う人が多いと思うが、そうではなくて、博物館はオープンしたときはまだ半分だ。博物館はオープンして人が来て、中を見て、「面白かった」と満足して出口から帰っていって初めて終わり。博物館はお客さんが満足して帰ってそこでワンサイクルだ。ハードウエア、箱は半分であると考えていかないと運営はできないと思う。自動車でも同じ。自動車も納車して終わりということではなく、乗って運転して能力を発揮して自動車なんですね。そしてちゃんと能力のあるドライバーが運転しないといけない。そのドライバーが職員ですね。どんなに高級な最高の性能を持った車でも、いきなりペーパードライバーが運転してぶつけたら何もならない。程度の高いものを造ったらそれに合わせたドライバーである職員が乗り組んで運転してはじめて本来持っている博物館としての機能を発揮できるんだと思う。つまり、博物館はものだけでもない、企画だけでもない、職員だけでもない、全部がそろって博物館としての機能が発揮できる。

◆投入予算の10%は回収を
 そしてやはり元をたどれば税金で公費だ。昭和館の頃はまだバブルの名残で年度末に予算を使い切っていたらご苦労さんという時代だったが、今はそうではなく、公的な施設で利益を追求する施設ではないけれども、金銭的利益は追及していないけれども、設立の趣旨である目的は達成しなければならない。そうでなければつくった意味が十分に達成されていない。それは博物館の共通の評価だ。社会的に立派な施設である、教育的に良い施設である、地域のために貢献している、そういうことも重要だけれども、やはり金銭的な部分も重要な要素である。いわゆる純粋な意味で収益を上げる必要はないが、運営費の10%くらいは回収しないといけないと思う。博物館のスケールにもよるが、投入予算に対して入館料とかいろいろで10~20%は回収したい。入館者も博物館のスケールに合わせて、10万とか20万人とかは確保したい。館ごとの目標を持って運営していく必要がある。きちんとしたものをつくってちゃんと運営していれば来る人が見ればいいんだという時代ではない。
 ただ、博物館はやりたいことがたくさんある。あれもやりたい、これもやりたい、どんなテーマであってもどこまででも広がる。例えば、大和という船一隻でも、技術の歴史のなかでどんなポジションだったのか、工員はどんな教育体系だったのか、工員はどんな暮らしをしていたのか、どんな国家的作戦計画に基づいて製造されたのか、あらゆること、鉄に関しても大和のために開発された鋼鉄があるわけで、そういうことを考えると際限がない。しかしそれを全部展示するということはできない。どんなに巨大な施設を造ったところで歴史の方が大きいからだ。どんな小さいテーマでも、それにまつわる歴史,背景、資料をたどれば、やっぱり歴史の方が大きい。
 ではどうするか。歴史を伝えるときに博物館で何もかも伝えることはできないということを事前に認識しなければいけない。しかし、興味を持ってもらうことができる。来館した人が展示を見て、「面白いな」「もっと知りたいな」と思ってもらって、自分で勉強する人が100人に1人でも出てくればいいわけだ。博物館の役割は、興味のきっかけを提示するというのが大きな要素だと思う。面白い興味を提示し続けることができれば、どんな大きな博物館であっても、どんな小さな博物館であっても、同様の成果が挙げられる。そう考えてやらないと、小さな博物館は巨大な何10億と使える国立博物館を眺めながら、予算がないからできないで終わってしまう。予算はあった方がはるかにいいけれど、無くてもできることはあるだろうと。スペースもあるに越したことはないけれど狭くてもできることはあるだろうと。

◆知的サービス施設としての運営を
 次に運営だが、昔、博物館は公立がほとんどだったので、公務員として採用された学芸員、管理職が管理するというものだった。博物館というのは専門性が高い、そのテーマに関しては日本有数のレベルを持たなければいけない、また目指さなければいけない。そう考えると職員として採用した人の中にそういう人が都合よくいるかと考えるのは難しい。一方博物館というのは一種のお客商売の部分もある。
 私は「知的サービス業」だと認識している。サービス業であるので純粋に公務に馴染まない部分がでてくる。簡単な例でいうと、もののスピード。大和ミュージアムがオープンしたときに館内にベンチがなかったので、役所に言うと「来年の予算に計上します」ということになる。そういう時に管理運営を民間がやっていれば、すぐに発注・納品の可能性がある。そういうお客に対応する反応速度が民と公の差だ。どちらがいい、悪いでなくそれぞれの運営の仕方だ。
 大和ミュージアムはオープンと同時に「民営にします」とのことだったが、3年くらいかかった。なぜかというと、最初の年からずっと100万人以上の来館者があったため、議会から「調子がいいときに民営にするのはおかしい」と反対された。3年後に指定管理者制度を導入し入札の結果、トータルメディアが落札した。実際の問題として理想的な結果になったかといえばなかなかそうでもない。市の方としても市の施設なので全部民間に運営してもらうのはよくないということで、学芸部門は市が直営し、管理運営・広報は受託した運営グループがやるというスタイルになった。市と民間が同じ建物の中で仕事をすると何か問題が起きたときに、グレーゾーンが必ず出て調整が必要になる。やはり接客の部分は民間でいいという部分もあるし、この形が最善かということではなく、頑張って、苦労して調整した結果だと思っている。

◆収支が良好で評価も高い大和ミュージアム
 事業収支に関しては大体年度経費が売り上げで相殺されている。若干黒字が出ると市に戻入するが、最初に大変な額の黒字が出ているので、呉市は建築費は別にしてランニングコストはほとんど使っていないのじゃないかと思っている。
 次にモニタリング評価は、4年連続AAをいただいた。これは当館だけだ。これは私から見れば、客観評価というのは収支とか、来館者数とか、アンケートでクレームがあるとかないとか、そういうところであって、博物館としての内容をじっくり見れるかという評価とは別だと思っている。博物館は博物館として立派だといわれなければいけない。博物館として立派とはどういうことかというと、そこにしかない、そこでしか発信できないものをどれだけ持っているかということ、そしてそこがテーマに関しては最後はその博物館に行きつかなくてはいけないというくらいの情報のレベルを獲得しなければいけないということだと思う。そこまでたどり着いてはじめて来館者が多くてよかったということになるので、博物館としてきちんとしたものを展示して、最後に周囲のまちがどのように使うかという問題になる。
 大和ミュージアムに100万人の人がきているが、呉市はそれだけのお客さんを受け入れる宿泊施設が足りないために多くの人が広島に泊まる。これは地元の人にとって残念なことだ。1泊してくれたら、500円の入館料の100倍のお金を地域に落としてくれ、周辺を観光してくれる。よく相談されるのですが、それは行政が考えることだろう。博物館の者はそこまで考えたらいけない、博物館の人間は博物館をきちんとする。それに対して来館者を足止めして周囲の賑わいにどう使うかは周囲の人が考えなければいけない。お互いに守備範囲というか、棲み分けをきちんとすることによって、周囲の発展に貢献できる施設になっていくと思う。博物館としてはお手伝いはするけど、館の仕事はきちんと館を固めることだと考えてやっているというところが現状だ。

意見交換

藤田観光部長
来館者の分析について、お越しになった方がどういったこと、どういったものに満足されて帰って行かれるかその部分の分析はいかがか。
戸高館長 
やはり一番面白かったというのは中央の大きな戦艦大和が多い。私は若干不満がある。あれは看板なので、どこのお店でも看板だけ見られて帰られると困るので、本当の商品は歴史展示のところにあるのでね。なかなか難しいなと感じているところだ。

笠谷館長
年度別の来館者の推移をみるとオープン時をピークに減少していって大震災の23年を底に、昨年はまた100万人超えにV字回復している。ここは何かカンフル剤のようなものがあったのか。
戸高館長
広報に力を入れたことと、終戦70年を目途にイベントを考えたことだ。ハワイでは、戦艦ミズーリは、日本軍が開戦時に撃沈した戦艦アリゾナと並んで展示してある。開戦のシンボル、アリゾナと、終戦の調印をした終戦のシンボル、ミズーリ。ハワイの真珠湾には開戦と終戦のシンボルが並んでいる。見事な博物館的発想の置き方だ。大和とミズーリの姉妹艦提携をしましょうという活動を始めた時期でもあった。それと終戦時に、アメリカが日本の技術資料をたくさん持ち帰って保存しているが、スミソニアン航空宇宙博物館にある日本軍が大型爆撃機に使っていたエンジンを交渉して譲り受けることができた。今、当館で収蔵しているが、スミソニアンが日本に対して収蔵品を譲渡した例はない。こういう具体的活動が絶え間なくニュースになるということがあった。
昨年は海底の戦艦大和を撮影する調査事業を国の予算9,000万円かけてやらせていただいて、これもニュースに取り上げていただいた。この成果は4月から企画展をするのですが、事前の撮影が決まった、「撮影しています」「こんな発見がありました」というプロセスが新聞に載ったりすることが客足に影響すると思っている。忘れられるということはないにしても、常に小さくても刺激を与え続けるということが大切だと思う。

副市長
フロア全体は常設展示で埋まっているようだが、企画展、特別企画展の企画について、また学芸と指定管理者の役割分担はどのようになっているか。
戸高館長
学芸だけではマンパワー的にきついので、学芸がやる企画は地味なもの、研究に沿ったものをコンパクトにやって、集客を期待できるようなもの、少し派手にやるようなものは、ノウハウの面からいっても運営グループの方がアピール能力があるので、そういう棲み分けをしているが、現実には一緒にやっている。
副市長
企画展はきっちりと年間計画でやっておられるか。
戸高館長
一応年間計画はあるが、お客が途切れない場合には期間を伸ばす。一番伸ばした例は1年くらい。そういう場合には、小さい企画展は先に送るとかやりくりしている。また、ホールで企画展をやる場合は講演会などの使用ができなくなるので、可能であれば企画展専用のスペースを増築するなど将来に向けて考えたい。

田所商工労働部長
建設には一時期に多額のお金がかかると思いますが、呉市の市内企業からの寄付とか市民からの協力とかはいかがだったか。
戸高館長
商工会議所が企業から5億円くらい集めてくれた。あと、呉市はあまり財政に余裕がないので、市長が頑張ってありとあらゆる助成金を集めてくれたり、市としても苦労してくれた。ただ、防衛省の助成金などは使用目的に制限があって、例えばそこは無料コーナーでなくてはならないとか縛りがあるのでそこをクリアしながらやっていかないといけない。
田所商工労働部長
私も2年くらい前に行かせていただいて楽しませていただいた。すぐ近くに「てつのくじら館」などもあるが、連携はされているか。
戸高館長
もともとは一緒にやる計画だったが、お金が足りなくなったので諦めて防衛省や海上自衛隊と相談して海上自衛隊が潜水艦教育隊を持っているので、教育施設の一環として造ってもらった。当館に来たお客さんの半分くらいはそちらに行っていると思う。以前、「事業仕分け」で、国の施設の入館者数が国会で問題になった時にも、「てつのくじら館」は少しも責められていない。

大丸文化部長
展示の関係で教えていただきたい。先程のお話の中で「何でも全てを展示できないので、興味関心を呼び起こすきっかけになればいい」とあったが、疑問が起こって答えが得られなければ不満を持って帰ることになる心配がある。考古の博物館などへ行くと並んでいるけれども、何故かという答えはなかなか得られない。一定のレベルの人はわかるのかもしれないが、学芸員のトークを聞いて初めてわかるということもあるので、自分としては素人でもわかるような解説があればいいなと思うことがある。展示の中でキーになる展示はどのようなところか。
戸高館長
展示の中では、2つ重要なところがあると思っている。1つは大和の建造から沈むまでのコーナー。なぜ大和を造らなければいけなかったから大和の最期、亡くなった人のところまで。戦死した人3千数百人全員の名簿を出身県別に載せている。これは技術系の博物館ではあまりないことだが、技術は、同じ技術が人を幸せにするし不幸にもするということを見てもらうために造ったコーナーだ。
 もう1つは、一番、造船技術が進んだのはワシントン軍縮条約で戦艦の建造が禁止されていた時期で、ここは一番地味だが重要なところで、私が一番力を入れて説明をするコーナーだ。戦艦を造らないという条約を締結した時に、日本が何を考えたかというと、条約が更新されて20年造らないと次に造るときに造れない。「造らない」と「造れない」は違う。「造らない」とは造れる人にしか言えないこと。だから海軍は造れる力を維持したまま、造らないということをやらなければいけないということで教育に徹底して力を入れた。その時期に徹底した技術教育を受けた人たちが戦後の復興の主力になった。そういう意味で、このコーナーが一番重要なコーナーだと思っている。
大丸文化部長
説明もされているか。
戸高館長
説明している。ただ、とことん説明するには文字数が足りないので、土日には20人ほどのボランティアさんが出てくれていて、疑問を感じられたらそこで聞いていただいている。

垂井広報部長
広報戦略について教えていただきたい。
戸高館長
できるだけマスコミに記事にしてもらうことだ。マスコミが喜びそうな情報を見つけたりして提供すること。パンフレットなどは、学校などにも送ったりするが、なかなか見てもらえず、DMに混じって捨ててしまわれることが多いのではないだろうか。
垂井広報部長
専門雑誌に対してどのように売り込んでいるか。
戸高館長
売り込みはあまりしない。「何かありませんか」と聞かれることが多い。

宮前世界文化遺産推進室長
ミュージアムショップは、最近はどこでも充実していて、そこを目当てに来るという来館者もいる。それについてはどうお考えか。
戸高館長
ミュージアムショップは本当に大切で、単純に館の売り上げの半分近くはそこの売り上げになるので力を入れている。最初の設計より倍くらいの面積を割いている。よそにはない館のオリジナルのものを置かなければいけない。事業者から相談があった時は、大和の資料を提供したりして結果的によい商品になっていることが多い。「大和関係の商品を作ったのでショップに置いてください」というオファーもある。月に一度程度、サンプルを揃えて商品選定会議をやっている。ショップに出してからも売れない商品は入れ替えをしている。お客さんもそこにしかないものがあるから買って帰っていただけるわけで、図書なども売れている。地元の産品なども、地域貢献という観点から一定のスペースを提供している。
副市長
当初からそういう品揃えなのか。
戸高館長
当初は全然なかった。お煎餅屋さんが赤字覚悟で製作して出店してくれた「大和煎餅」がオープン後にはすごく売れて、お店の経営者ご夫婦が倒れたということもあった。結果的に「売れてよかったね」ということだが、当初は事業者は誰も乗ってくれなかった。公募したが誰からも応募がなくて、しかたなく呉の古手の海運業者さんが赤字覚悟で受けてくれた。オープンしたら売れて売り場も拡張するということになった。するといきなり周辺の事業者から「なぜあの事業者がやってるのか」とクレームが来た。最初から協力的だということではなかった。

田所商工労働部長
ちなみに今、呉を舞台にした「この世界の片隅で」という映画をやっているが、影響はあるか。タイアップはしているか。
戸高館長
明らかにあれを見てきたという人はわかる。あの監督は5~6年、当館にも通っていた。街並み調査や戦時中の呉の生活など、「ここの四つ角の酒屋さんの様子がわかりませんか」とか「当時の様子がわかる絵葉書を見つけました」とか、長い間そういう話ばかりしているので、私は本当にこの映画ができるのかと疑問に思っていが、やっとできて、しかもあれだけ力を入れて作った作品だけによくできていて、地元の人が見てもみんなが感心するようなきちんとした本当に素晴らしい映画だ。ただし、タイアップはしておらず、資料提供した程度だ。

外山学校教育部長
呉の小中学校の利活用率はいかがか。
戸高館長
小学校の5年生が校外学習として1度は来館している。来てもらうまでに10年近くかかった。原則的に呉の小、中、高校生は無料なので、いつ来ていただいてもいいが、やはり集団で来てもらった方が教育的にいいので、必ず1度は来てもらうようにしている。

ミュージアムディレクター(市長)挨拶

竹山市長
 運営状況やモニタリング資料を見せていただくと、満足度が高く、リピーター度が80%、みなさん方の情熱がきちんと伝わってくる。我々も1600年の歴史の情熱をもって博物館の運営に取り組んでいかなければならない。本日はありがとうございました。

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