このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
堺市
  • 音声読み上げ・文字拡大・ふりがな
  • サイトマップ
  • くらしの情報
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉
  • 観光・歴史・文化
  • 産業・ビジネス
  • 市政情報


本文ここから

平成27年度 第2回 堺市博物館活性化戦略会議 議事録

更新日:2015年10月24日

日時

平成27年8月27日(木曜) 午1時30分から

場所

堺市博物館 地階 博物館ホール

会議録

ミュージアムディレクター(市長)挨拶

竹山市長

 7月28日にユネスコ世界遺産国内推薦の発表があった。百舌鳥・古市古墳群は、残念ながら今年の国内推薦をいただくことはできなかったが、「百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を応援する堺市民の会」の会長である前田寛司 ・堺商工会議所会頭も「来年めざして機運を盛り上げていきたい」と話しておられるように、市としても、堺の「シビックプライド」を高めていくための大切な取り組みとして進めていきたい。そして、1600年を超えるこの古墳群をしっかりと守っていきたいという決意表明もしていかなければならない。そのためには、堺市博物館のガイダンス機能をより高めていくことが必要だ。博物館というものの果たす役割、そして「どう活性化していくのか」について、引き続きこの戦略会議でしっかりと議論していきたい。
 本日は、淺井 允晶(あさい のぶあき)堺女子短期大学名誉教授をお招きして、ご提言をいただく。淺井先生は、本市の歴史文化に関する有識者として数々の施策事業でお世話になっている。1989年の「ダッハらんど `89大阪」の開催においては、企画委員として参画いただいた。1989年の市制100周年記念誌「フェニックス堺」の発行では、総合監修者として参画していただき、堺の歴史文化の発展に大きく寄与された。感謝申し上げる次第だ。堺市博物館協議会委員としても今、ご助言をいただいており、2013年7月からは会長としてそのまとめをしていただいているところである。今回の戦略会議では、先生と堺市博物館のめざすべき方向やあり方について意見交換をさせていただき、市民の皆さんにもっともっと親しまれる博物館、そして市外の皆さんも興味をもって見にきていただける博物館にしていきたいと考えているので、よろしくお願いしたい。

案件 淺井 允晶 堺女子短期大学名誉教授による博物館活性化への提言

淺井名誉教授

 堺市博物館の活性化は博物館だけでは解決できない課題だと、従来から私は考えていた。施設だけの問題ではなく、周辺環境や都市政策といった全般的な課題、つまり、まちぐるみの活性化がなければ博物館は活性化しない。そこで、「温故知新」というか、これまでの堺の流れを少し確認していきながら、そこからどんな問題が見えてくるかを考えてみたい。

1.都市・堺の歴史的性格-仁徳天皇陵古墳から都市・堺の成立と展開-
 冒頭で市長が話された仁徳天皇陵古墳を中心とする百舌鳥古墳群、東にある応神天皇陵古墳を中心とする古市古墳群、そして、その中間にある黒姫山古墳、これらはすべて5世紀を中心として造営され、「鉄の文化」としてつながっている。このような堺を核とする文化遺産は、今回は残念ながら世界遺産登録は叶わなかったが、必ずや登録が実現すると思う。
 その後、奈良時代になると、行基によって仏教文化がこの地に根付いていった。平安時代、京都のお公家さんが熊野街道を通って熊野詣をするようになると、例えば、藤原定頼(ふじわら・さだより)が「さか井」の「しおゆあみ」、海水浴あるいは温泉浴というリゾート地としての堺を歌うという形で、ひとつの足跡を残していく。鎌倉時代から南北朝時代には、後醍醐天皇の南朝、吉野との結びつきなどから、港としての意味合いが出てくる。
 そういう流れの中で、堺は港町としての機能を発展させていき、室町時代には、中国の明との勘合貿易で、遣明船の発着港としての役割を担うようになる。そして戦国時代に入り、濠をめぐらせた環濠都市としての堺が姿を見せてくる。この点は重要で、堺は環濠都市として、町民による自治と経済活動をベースにしたまちづくりを始めていく。もともと堺は京都の相国寺の荘園であったが、次第に町民が自立し自治権を獲得していく。もちろん、戦国時代であるから、バックには、阿波の三好一族の勢力がついていた。
 やがて、戦国大名の中から天下統一をめざす武将が出てくる。織田信長だ。信長の登場が堺を大きく変えた。これは有名な話だか、永禄11年、1568年に、足利義昭を室町幕府の15代将軍に据えるために上洛したとき、義昭が「望みの褒美を取らせる」と信長に告げると、信長は「ほしいものは堺、大津、草津。この地に代官を置く権利をいただきたい」と答えた。支配したい地のトップに挙げられたのが堺だった。信長が見抜いていた堺の魅力は、鉄砲の生産拠点としての堺、明や東南アジアとの貿易で莫大な利益をあげ富を蓄積した貿易港としての堺だった。この二つを狙って堺を獲得しようとした。この要望が叶えられるやいなや、信長は自治都市・自由都市の堺に2万貫の軍資金を要求した。当時、大坂で大きな力を持っていたのは石山本願寺で、浄土真宗、一向宗の拠点であった。この壮大な拠点に五千貫という要求だったのに対して、堺には二万貫だった。堺の評価を示すものである。この要求を堺衆は当然のように突っぱねていくのだが、信長の力は、従来の戦国武将よりもはるかに強かった。

 それを見抜いたのが、堺の茶人であった今井宗久(いまい・そうきゅう)だった。宗久は、大切にしていた茶道具を信長に献上することによってよしみを通じた。堺の茶人たちは信長の実力を見抜いていた。結果的に堺の町衆は二万貫を支払うことになるが、平和的に交渉し話し合いを進めていった宗久の尽力があったので、戦火は生じなかった。信長は松井友閑という代官を置き、堺を支配下に置く一方で、宗久を非常に大事に取り立てた。宗久に二千二百石を与え、今の大阪市の我孫子や杉本町あたりの土地の支配権を与えた。そこには鉄砲の生産に必要な拠点があった。さらに、生野銀山の開発を任せた。茶の湯の宗匠である今井宗久は、単なる茶人ではなく、非常に優れた技術につながる者でもあった。そして、今井宗久と同じように茶の湯を通して、津田宗及(つだ・そうぎゅう)や千宗易のちの千利休といった人たちが信長とつながっていった。つまり、貿易による利権や軍事技術的な特性を持つ町衆たちが精神文化としての茶の湯を通して信長とむすびついたのだった。
 堺の特性は、実はここにある。軍事・産業技術的な特性と精神文化の特性を絡めながら一体化して、語り合い、相談し合い、これからの問題を考え物事を解決していく力、これを町衆たちは創り上げた。信長に結びつきながら、堺のまちづくりを進めていくことになる。
 ところが、信長は本能寺の変で倒れる。後を継いだのは、豊臣秀吉である。秀吉は大坂に拠点を置いた。信長に滅ぼされた石山本願寺の跡地をうまく活用して大坂城を築城して、大坂の町を同時に開発していく。堺から商人を連れてきて堺筋をつくり、伏見の商人を連れてきて伏見町をつくるなど、大坂のまちづくりを強引に進めていった。このときに、秀吉は堺の自治都市のシンボルともいえる環濠を埋めてしまったが、それはなぜか。いろいろな考え方がある。ルイス・フロイスの『日本史』に書かれているように、「堺の自由を奪った」ということがこれまでの解釈だった。しかし、最近もう一つの考え方が出てきた。それは「秀吉が大坂のまちづくりをしていくなかで、欠けていたものが一つある。それは港である。当時の大坂には港の機能がなかったので、堺の港に目をつけた。だから、四天王寺から堺までの街道をものすごい勢いで整備して、堺の周りの濠を埋めて、貿易港としての堺を大坂へ取り込もうとしたのだ」いう考え方である。
 そのような観点から見ていくと、秀吉は「貿易港」としての堺、「軍事・産業技術都市」としての堺の意味合いを重視して大坂と一体化させ、掌握したかったのだろう。こうして、信長から秀吉まで、堺というまちは、まさに「天下人が狙う最大の拠点都市」だった。千利休に代表される「茶の湯文化」、あるいは「軍事技術」、あるいは「貿易港としての国際性」、これらを秀吉は何としても掌握したかった。

 少し後の話だが、秀吉が亡くなった後、慶長5年、1600年には、堺の港にオランダ船であるリーフデ号が入ってきている。豊後の臼杵に漂着してきた、沈みかけていたリーフデ号を、当時大坂城にいた徳川家康が堺の港へと回航させた。家康は、そこに乗っていたウイリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンを国際的な政策展開のための顧問に取り立てた。このときも、大坂には船は入らなかった。港としての機能は堺にあり、今でいうと国際空港的な機能を果たしていた。堺は国際性豊かな都市であるから、フランシスコ・ザビエルや、「堺はベニスのようだ」と書き記したガスパル・ビレラあるいはルイス・フロイスなどのキリスト教宣教師たちも次々と堺を訪れ、入国していた。
 ただし、秀吉の政策は、関西を震撼させた慶長の大地震でガラッと変わった。秀吉はそのとき京都の伏見城にいたが、天守閣が倒壊して中庭でわなわなと震えていたという言い伝えがある。この大地震によって、堺の港の取り込みをあきらめ、大坂の港づくりに精力を尽くすことになる。船場や港の開発である。これで堺は秀吉の夢からは解放された。
 この秀吉の死後、後を継いだのは、関ヶ原の戦いで勝利し実権を握った徳川家康である。家康は、秀吉以上に堺をとても重視した。慶長8年、1603年に征夷大将軍になるとすぐに、堺をベースにした朱印船貿易、東南アジア貿易を再開させた。さらに、長崎に入ってくるポルトガルやイスパニアの船に積み込まれていた生糸を幕府の力で統制し全国に流通させる糸割符制度をつくったときに、京都と長崎には百丸(ひゃくがん)ずつを与えたのに対して、堺には百二十丸を与えた。「貿易港」・堺、「軍需産業」の拠点・堺、「精神文化」の拠点・堺、これを秀吉と同じように家康は掌握した。

2.大阪と対峙する堺の独自性
 その後、皆さんもご承知のように、家康は大坂城に残っていた豊臣秀頼や淀殿を中心とする旧大坂の勢力を大坂冬の陣と大坂夏の陣で壊滅させる。この戦いのときに、堺は豊臣方と徳川方が狙う最大の拠点となる。軍事的補給基地としての役割を担っていたのが堺であったからだ。豊臣方の大野道犬が堺に火を放ったのは徳川方に利用されては困るという思惑ゆえのことであった。当時の宣教師の記録では、堺には二万軒の家があったと記されているが、それが全焼してしまった。
 しかし、家康は、その後すぐに堺の再生に取り掛かる。今の堺の旧市街地のベースになっている「元和の町割り」を行った。南北の大道、東西の大小路、これを主軸としながら、これまでの堺よりも一回り大きな環濠都市をつくった。大坂に対する監視機能を持たせようという考えも入っていた。再生された堺には、「貿易」「産業」「文化」が再び花開き、大坂に対峙する堺の独自性が形作られていく。百五十の寺院を核とする景観が出来ていったのもこれ以後のことである。
 宝永元年、1704年に、大和川が堺の方向へ付け替えられる事態が起こった。堺は港で持っていたのだが、これによって土砂が流れ込んで、堺の港は浅瀬を構成するようになる。大きな船が入れない港になってしまい、港の機能が縮小されて堺は衰退していく。元禄期、堺は約7万人の人口だったが、享保年間には約5万人になり、さらに、天保年間には約3万8千人にまで激減していく。しかし、逆に大坂と分離されたため、その影響を受けずに堺の独自性がさらに進んでいった利点もあった。
 それはものづくりの面だ。5世紀の百舌鳥古墳群や黒姫山古墳から始まる「鉄の文化」「金属加工の文化」を見ていくと、丹南鋳物師を経て戦国時代の鉄砲の生産、江戸時代の包丁や刀の生産、やがては明治時代の自転車産業へとつながっていく。時代の流れの中で時代に即応しながら、鉄と共存する伝統が生かされていく。鎖国後も、長崎とのつながりは生きており、鍋島藩から天保年間に緞通の技術が堺に入ってきて、藤本荘左衛門が堺緞通を開発していくような流れも見える。洋風の技術や感覚をどんどん吸収して堺らしい独創的なものをつくっていった。幕末には開国の流れの中で、砲台が築かれ港が整備されていく。やがて鹿児島藩の戎島堺洋式機械紡績所が堺に造られた。
 近代に入り、明治18年に我が国初めての民間鉄道が難波から大和川まで開通する。明治21年には堺に吾妻橋ステ-ションができる。つまり南海本線の原型ができる。鉄道そのものは明治5年に新橋からスタートし、その2年後に大阪-神戸間が開通するが、これらはいずれも官営鉄道だった。民間の活力が難波から堺まで鉄道を開通させた。これは非常に大きな意味を持つ。当時の大阪は確かに大きく発展していた。その大阪が堺を見逃さなかった。民間鉄道の開通は、堺がいかに重要視されていたかの現れである。
 明治36年に、政府が第5回内国勧業博覧会を開催したときは、大阪の天王寺が第一会場で、堺の大浜が第二会場だった。大阪と堺がタイアップしながら近代化を進めていった。大浜には水族館が造られ、さらに大きく発展していった。大浜の潮湯ができ、少女歌劇も生まれた。堺が持っている土地柄というものを世間にアピールする活動がどんどんなされていった。人々を楽しませるリゾート地をつくりあげていった。大浜からは飛行機まで飛ばした。水上飛行機で四国や九州まで行けた。民間航空の先駆けだった。後に政府が航空産業をまとめ上げていく中でなくなってしまったが、港に変わる機能をどんどんつくっていった。
 残念なことに、堺は太平洋戦争において昭和20年7月10日の大空襲などに見舞われ、文化遺産が壊滅的に焼失してしまった。しかしそこから、戦後、堺はまた再生する。戦災復興道路であったフェニックス通りの名前そのもののように。臨海工業都市として性格を変えて発展しながら、国際性豊かな文化都市、人権を尊重するまちづくりなどを進めていく。

3.堺市博物館の開設と堺
 こういう点から見ても、「先を読む」「先を考える」「時代をリードしていく活動を展開していく」、これが堺の特性と言える。
 明治10年に洋式灯台が堺に生まれた。日本で初めて町衆がお金を寄附して建造したものだった。政府や行政がつくったわけではない。必要なものは町衆がやるということだった。
 この堺市博物館も、昭和55年、1980年に、堺の人々の要望と寄附によって建設された。建設費総額は約25億円だったという。市民からは8億円を超える浄財が集まった。堺市のために、そして、市民自身の願いをかなえるために、自分たちの力でつくりあげていこうという意思の中で生まれたのが堺市博物館だった。当時としては時代の最先端をいく素晴らしい博物館だった。「市民が一緒になってつくりあげていく博物館」と、すごく大きな話題、ニュースになった。戦前の昭和6年に大阪城の天守閣が建設されたときも市民の浄財を集めてつくられた。こんな事例も思い出される。こうして、市民の誇る堺市博物館ができ、さらには伸庵、黄梅庵という茶室も移築された。
 実は、これには前提がある。昭和6年の『堺市史』の完成だ。これは大正時代から編纂が始まっており、日本で最も早く刊行されただけでなく、規模的にも大きく、内容的にも非常に優れているという、当時の日本を代表する市史だった。大事業だったと思う。ここに描き出されている内容や成果を集約し、多くの実物でもって形にしたのが昭和55年に完成した堺市博物館であった。当時の学会でも大きな評価を受けた博物館だった。堺の歴史全般を総合的に見ることができ、理解ができ、さらに疑問点を研究をしていける、本来の総合博物館が生み出されてきた。堺の市民であるというアイデンティティが見学や学習を通して発展していくことになった。

4.博物館施設の役割分担と活用
 その後、美原が堺と合併して、みはら歴史博物館、黒姫山古墳や丹南鋳物師の「鉄の文化」をクローズアップする、専門的な歴史博物館が仲間に加わった。さらに今年は、「さかい利晶の杜」という一般の人々を啓発するような内容を持つ博物館施設あるいは観光施設が開設された。堺には、総合博物館があり、それぞれのエッセンスを凝縮した個性的な博物館などが複数ある、さらには、ミュシャを展示する文化館も備わっている。
これらをどういうふうに役割分担しながら活用していくのか。これが課題となるが、私は役割分担ということをあまり強く考える必要はないと思っている。最近、出版社の方と話をする機会が多くなり、編集者からは「今は大きなものをつくってもだめなんです」「電車の中で、10分か15分で読み切れるような5ページ以内で完結するような内容でなければだめなんです」「どこから読んでも中身が分かるものがいい」という声を聞く。テレビのCMと一緒で、10秒から15秒の同じ内容のものを反復させながら、何度も何度も繰り返し人々の頭の中に入れていただく。この方が教育的効果や宣伝・広報効果として非常に大きい。
 こうなると、重複するほうが、むしろ大きな効果を持っている。役割分担に過度にこだわらず、教育の原点である「反復と重複」をうまく活用していくほうが社会的には大きな武器になるのではないかと、私は考えている。ただ、個々のとらえ方や表現などに異なった位置づけや方向を与えることは必要になるだろう。

5.リピーターの確保と博物館の企画性
 博物館にとって一番大切なリピーターの確保という問題がある。これは全国、各地どこでも大きな問題になっている。総合博物館の場合、企画展や特別展を開催して、個性的な部分を打ち出し、教育、研究や文化事業のベースにしている。みはら歴史博物館や「さかい利晶の杜」でも、企画展をちょっと味付けしてあげなければいけないだろう。このような観点が必要である。新しい観点を見せていくことが求められる。
 新聞社などとの共催展で目先を変えていくことも必要だろう。他館との共催、それぞれの館が持っているものを交換しながら展示したり巡回展のような形で回していったりするという相互協力など、さまざまな工夫が必要だろう。
 堺市博物館でも実際に実施しているスポット展示など、常設展示の一部のスペースを活用して、毎月少しずつ展示を変えていくことは、見る人の感覚、見る人の接点を変える手法であり、大切なものだ。お茶に関していうならば、月替わりの茶掛けなどを実施していくことも効果的だろう。所蔵品や借用品を活用しながら少しずつでも展示を変えていくこと、ここに一つのポイントがある。
 さらに、堺市博物館は、伸庵、黄梅庵という茶室を活用していくことが必要だ。最近は外国の人々との結びつきの中で、「ティーセレモニー」を開催する。関空などで紹介して、「堺へ行けば面白い試みに接することができます」「お茶の文化を体験することができます」というものを積極的につくりあげていく。これをまちづくりと並行しながら実施していくと非常に重要な意味を持ってくるのではないか。無形文化遺産との連携、土曜寄席や夕方のコンサートなどの試みも進めていけばいい。目先が変わるだけでなく、参加型博物館、参加することができる博物館が今要請されていると思う。
 総合博物館の場合は、研究という機能が大切だ。それとともに博物館の哲学というものを土台に議論していく必要がある。私は、奈良県立美術館の開館以前の準備室の段階から参画させていただいた。昭和47年度の開館後は、県民の方々といろいろな意見交換をしながら要望をお聞きしたが、本当にびっくりさせられたことがある。奈良には仏像や仏教美術、伝統的な美術や遺産が数多くあるが、「奈良では常に接することができないようなもの、奈良とは無縁なものを展示・紹介してほしい」という声があった。例えば「ヨーロッパの印象派のコレクションの展示などを誘致してほしい」という声だ。つまり、「今の奈良にはない新しい未知の文化を紹介して、市民に提供してほしい」というものであった。そこで、新聞社とタイアップしたりして国際的な美術展を取り込んでいった。1カ月半で24万人が入った美術展もあった。県民や周辺地域の人々が待ち望んでいたということだ。
 つまり、博物館や美術館は、地域のアイデンティティを常に学び研究する場であると同時に、全く無縁なもの、未知なる新しいものを誘致、紹介し提供する場でもあるということだ。使い分けをしながら運営していかなければならない。それは博物館とまち全体が一体化して取り組まなければならないことだろう。

6.情報発信の課題
 問題は、そういうものを一体的に展開していく中で、どうやって情報発信していくのかということだ。広報の問題、宣伝の問題は一番難しい。もうほとんどのことを堺市でもやっていると思う。修学旅行の誘致なども各地へ出かけてやっていると思う。そこで、旅行会社、ツーリストへの働きかけが重要で、「堺が面白い」ということを理解していただかなくてはならない。そこから、まち全体への流れをつくっていく。博物館への流れをつくっていく。先ほど触れた外国の人たちを呼び込んでいくにしても、旅行会社とタイアップしなければならない。旅行会社が持っている海外拠点、バンコクで、ハワイで、ニューヨークで、堺の魅力や面白さをPRしてもらう手立ても必要になる。
 博物館はまち全体、都市全体の流れの中で構成していかなければならない。まちの魅力は博物館の魅力だ。博物館で学び、知りえた知識で、「あのお寺にいってみたいな」となる。あるいは、「堺の灯台の実物をみてみたい」と思ったり、逆に「堺の灯台にいったので、堺市博物館へ行ってもっと深く勉強したい」と思ったりする、史跡や遺産と博物館との間での立体的な反復、相互に結びつけていくという視点が、これからは大事になっていくのではないかと思う。仁徳天皇陵古墳と博物館のガイダンス施設などは、その好例だろう。

7.歴史的・文化的遺産を活用した街ぐるみでの取り組み
 では、そのために何が必要かというと、例えば、自転車でいうとヨーロッパのような自転車専用道路だろう。今の環境の問題とも結びつく。堺は自転車産業の拠点でもあるので、産業とも結びつく。市外から来た観光客に堺の自転車を使ってもらって走り回ってもらう。史跡から史跡、博物館から史跡、そういう繋がりを街ぐるみで構成していく必要がある。また、この素晴らしい大仙公園をもっと活用しなければいけない。
 このためには、門前町の整備や小林一三の手法に学ぶと良いと思っている。浅草へみなが行くのは浅草寺だけを目当てに行くのではない。門前でいろいろと食べたりお土産を買ったりすることを楽しみたいからだ。「さかい利晶の杜」がそうなってほしい。有名なお蕎麦屋さんが隣にある。近くに和菓子屋さんもある。なんとかそういうものを結び付けながら、駅までの間に、「あそこへ寄りたいなあ」「ここがいいなあ」というルートをつくっていただきたい。小林一三さんは阪急電鉄をつくったとき、梅田から一番遠い宝塚に歌劇場をつくって、その間を段階的に整備していった。それが今では優れた住宅地となっている。都市開発における小林一三方式、阪急方式を東京でうまく使ったのが、東急だった。堺駅から利晶の杜までの街の整備、かつては繁華街だった宿院の盛り上げなどもしていただきたい。知的ニーズに味付けをしてもらいたいものだ。
 神戸であれば「北野あたりでちょっと洒落たお食事をしましょう」となるように、「堺へ行ったらあそこであれが食べたい」というようになったらいい。従来だったら堺湊の桜鯛だ。しかし、今はもう名前が消えている。全部大阪へ流れていってしまっているが、何かがほしい。「街ぐるみ」での取り組みが博物館の活性化に結びついていく。あるいは博物館を核にして「街ぐるみ」で取り組んでいく。
 阪堺電車は東京の知人がわざわざ乗りにくる。あの面白味をもっと前面に出せないものだろうか。単なる移動手段ではなくて堺を象徴するものとしてとらえたい。そういうラインを大切にしながら門前町の整備の発想で取り組む姿勢が必要だ。

8.将来構想の策定
 博物館の活性化は、都市の活性化と必然的に結びついていくものだ。今の堺には、堺の歴史文化を研究していく機構が見当たらない。堺の都市の課題を研究していく研究所があるが、実態としては、専任研究員を置いていろいろな人々に集まってもらい研究して構想を見出していくというシンクタンクになっているだろうか。
 これまでの流れを考えながらこれからの問題を考えていく、論語の「温故知新」に根ざした考え方をしていくことができるのが博物館だ。都市のアイデンティティについて考え、それをもとに、これからの堺を考え想定し生み出していく活力は、実は博物館の展示室にある。ものがすべて語りかけてくれる。博物館をベースにした都市の将来構想を博物館の活性化、都市の活性化の中で大きく展開していく必要があると思う。その中から、博物館の20年先、30年先のグランドデザインも描き出すことができるだろう。
 30年ほど前に、堺市で市立大学の構想が出回ったことがある。私も相談を受けたことがある。「大規模でなくとも研究機関を設置できるような大学を」という構想だったと思う。いつのまにかこの話は消えてしまったが、今から考えると、この研究機関が「堺文化研究所」とでもいうものに相当したのかなという気もする。博物館はいろいろな問題を考えさせてくれる場だと思う。学び、人と人との語り合いを通して、これからの堺を生み出していく原点になるのが博物館だと思っているので、ぜひ、博物館そのものを、都市の活性化と結びつけて大きく展開させていただくことをお願いする。研究機関とタイアップさせていただくことも望ましい。
 最後にひとつだけ検討してほしい課題がある。堺市博物館は総合博物館として非常に優れた内容を持っているが、企画展示室がない。そのために、大きな企画展を開催しようとすると、常設展示を取り外して展示替えをしなければならい。非常に不都合な問題で新しいスペースの検討も必要だろう。ただ、このドーナツ型の博物館というものは、開設当初からいろいろと話題になった建造物で、ひとつの文化遺産的性格を持つかもしれない。将来、新しい博物館ができたとしても、あるいは企画展示室が別にできたとしても、いまの施設を残すことも一考したい。はみんなに見ていただく価値のある建物かもしれない。

意見交換

竹山市長

 私は、この博物館を活かすためには、「どのようにして多くの方に来てもらうか」が大事だと思っている。
 そのためには、まず、「さかい利晶の杜」に来てもらった人がここへも来るというルートを確立していくことが今、私たちが考えなければならないことだと思う。利晶の杜はまさに「ゲートウエイ」だ。堺の文化や歴史を知るこの「ゲートウエイ」から、ここまで来ていただくためにどうするのかを考えなければならない。そのためには、私は先ほど先生からお話があった旅行会社の活用が大事だと思う。私は毎月、観光ボランティアのニュースを読んでいるが、特定の旅行会社、確か5社くらいは、利晶の杜に行っていない。直接、仁徳天皇陵古墳や伝統産業会館や他の場所に行っている。これらの旅行会社には利晶の杜に来てもらうように仕向けなければならない。この対策をしっかりとやることだ。そして、利晶の杜で「面白いものが他にもあるな」と感じた方々が博物館などにリピーターとしてきてもらいたい。
 二つ目は、せっかくつくった新しいガイドブックについてだ。「さかい利晶の杜」ができたので、観光部で新しいガイドブックをつくったのだが、全然読まれていないのではないか。なぜそう思うかというと、観光ボランティアのニュースがいろいろと指摘しているからだ。観光ボランティアの方々が「字が小さい」「地図がまずい」という感想を書いている。つくっているときから、私もいろいろと指摘をしてきたが、部分的な手直ししかできていない。あのガイドブックをつかって、食べ物屋さんを回るとか、買い物のルートを調べるとか、こんな使い方はできていないだろう。極めて役所的に全体を網羅しているけれど、二兎も三兎も追っているけれど一兎も捕まえ切れていないのではないか。もっと戦略的に考えないといけない。もう少し的を絞ったもの、例えば「食べ歩きルート版」「伝統産業見学版」「文化財探訪版」などをパート2、パート3としてつくっていくことだ。
 それから、私は、親子で博物館などに来てもらうことが絶対不可欠だと思っている。子どもの頃に、親から歴史や文化について話してもらったことは、生涯覚えていると思うからだ。親子で「さかい利晶の杜」に行く、山口家住宅に行く、あるいは清学院に行くことで、堺の歴史文化に対して誇りを持ってもらえると思う。夏休みの7月、8月でどれくらい来館者があるか、夏休みの「ミュージアムパス」の今年の集約がまた楽しみだ。教育委員会も注視しておいてほしい。「親子で文化を語る」「親子で勉強する」という視点を大切にしたい。これがなくなっているから、子どもの学力が伸びてこないのだと思う。例えば、親が子どもに本の読み聞かせをすることによって子どもが本を好きになる、親が子どもに九九を教えることによって子どもが算数が好きになるというように、歴史も同じだと思うので、それをやっていただきたい。
 最後に、「堺へ行けばおもしろい」というキャッチフレーズを使えないものか。和田竜の小説『村上海賊の娘』には、村上海賊の娘・景がなぜ瀬戸内海から堺へやってきたかといえば、「堺に行けばおもしろいから」だと書いてある。もう一度、このキャッフレーズを使って、堺のおもしろさをまだわかってくれていない人に伝えてほしい。観光ボランティアのニュースにも、「来てよかった」「こんなに深く歴史を学べるとは」などという感想をもらった経験をたくさん書いてくれている。ぜひ、JRや南海と連携を取って「堺に行こう」キャンベーンをやってほしい。「利晶の杜へ行こう」キャンペーンもいい。

淺井名誉教授

 「おもろい堺」ということだろう。付け加えたいことは、外国の方や市外の方が泊まれる場所が少ない。

竹山市長

 私は町屋に注目している。町屋に泊まることができるような仕組みがほしい。外国の方ならば絶対に喜ぶと思う。今あるものを活用したい。百舌鳥古墳群が来年国内推薦をいただければ人が大勢来ると思うが、それに追いつかないおそれがある。だから、関空に到着したら大和川以南の泉州をぐるっと回ってもらって、その泉州で泊まってもらうようなツアーづくりを今、泉州9市4町で考えている。大和川は渡らなくてもいい。

狭間副市長

 「門前町をつくらなければ」という考え方は本当にそう思った。来訪者が堺の歴史や文化を理解したうえで、旅の楽しみを感じてもらえるようにしたい。東京でいえば、都心ではなく、都心からすぐ近くの吉祥寺や下北沢などのように美味しいものがあって楽しめるまちが参考になるのではないだろうか。食べ物やお土産でも、今あるお店の一押しのものがあると思うので、それをもっと伝える工夫をすればいいと思う。山之口商店街は開口神社の門前町といえるが、さかい利晶の杜の「門前町」になってもらってもよい。もちろん、行政が直接つくるわけではなく、「自分たちのまちをおもしろくしたい」と思う人が集めてくる力がいるのだろう。

淺井名誉教授

 そのときには女性の視点が大切だと思う。食べ物にしてもお土産にしても、女性の視点から、何か一ついい噂が出れば、堺そのもののイメージも変わると思う。伝統文化も生きてくる。

竹山市長

  「るるぶ」の地域版は、大阪府内版では堺と八尾が売れるらしい。

広報部長

 観光コンベンション協会が近々利晶の杜周辺の飲食マップを発行するということをお聞きした。

竹山市長

 私が子どもの頃の山之口商店街は、大勢の人で賑わっていた。だから、今は寂しい思いがする。今、商店街の人もかなりやる気になってくれている。事業者と行政とが連携して賑わいを再生できるようにしたい。

狭間副市長

 「まちづくりに関わりたい。堺をもっとおもしろくしたい」という若い人が出てきている。何か一つでも小さな成功体験ができれば、おもしろい展開になっていくと思う。そういう芽をつぶさずに大切にしていきたい。

商工労働部長

 私たちの部で、山之口商店街の活性化に取り組んでいる。いろいろな事業の企画は出てくるが担い手が少ないという問題がある。商店街の人たちも、NPO団体といっしょに事業を進める、商店街だけではなくまちづくりまで考えて輪を広げていくなどの方向で動いている。私たちもそれを支援している。先ほど、女性の力というお話をいただいた。部では起業家支援の取り組みを進めているが、そこには女性が多いので、「女性の視点から見た観光や産業」といった提案が出てくるような投げかけを私たちの側からしていってもいいのかなと思った。今、女性の起業意識がとても強いので、なんとかこれを活かしていき、次のステップへつなげていきたい。

狭間副市長

 堺の飲食店はネットでの情報発信力が非常に弱い。「ぐるなび」や「食べログ」などのサイトでもなかなか上位に出てこない。ちょっとした仕掛けで若い女性が来るようになれば変わる。行政が公式情報で「ここの店は良い」などとは書けないので、民間の工夫で盛り上げていけるように働きかけていきたい。

報告事項

1)堺市博物館・みはら歴史博物館 平成27年4月から7月までの入館者数について

竹山市長

 夏休みの親子のミュージアムパスは、どのような集客数が出ているのか。山口家住宅や清学院にも親子できている姿があると観光ボランティアのニュースには出ていた。

副館長

 現段階の速報値だが、小学生中学生保護者すべて含めて約3,500人となっていて前年の数を上回っていくと考えている。実施施設が昨年度から増えているので、前年比では増という結果になる。入館者数は、博物館、利晶の杜、山口家住宅の順番になっている。

竹山市長

 成人招待事業のほうは伸びているか。「二十歳になれば博物館に行こう」「二十歳になって堺の歴史文化を知ろう」という取り組みは大事なことだと思う。

文化観光局長(博物館長)

 新成人招待事業は、昨年度実施分は実施までの仕込みの期間がなかったので、今年度の実施にさいしては、各区の成人の日の実行委員会メンバーを博物館ツアーに招待して、良さを知ってもらって情報発信してもらうことを考えている。

竹山市長

 冬場にもう一度3Dマッピングをやることもいいかもしれない。

PDF形式のファイルを開くには、Adobe Reader(旧Adobe Acrobat Reader)が必要です。
お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。
Get Adobe ReaderAdobe Readerのダウンロードへ

このページの作成担当

文化観光局 博物館 学芸課
電話:072-245-6201 ファックス:072-245-6263
〒590-0802 堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内 堺市博物館

このページの作成担当にメールを送る

本文ここまで



以下フッターです。
Copyright © Sakai City. All Rights Reserved.
フッターここまでこのページの上へ戻る