仁徳陵古墳百科
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仁徳陵古墳とは
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仁徳陵古墳(南から) | 仁徳陵古墳(西から) |
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世界三大墳墓比較模型(展示学習フロア) |
今から1,700年程前の西暦3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。全国に20万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳陵古墳です。
墳丘の大きさでは全長486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。
古墳の陵域は濠を含めて47万平方メートルと、甲子園球場が12個も造れる広さです。古墳を造るには、毎日2,000人の人々が働いても16年以上かかったといわれています。
古墳を上空から見ると、円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました。
古墳は、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で最も重要な文化遺産です。しかし、古墳は北の反正陵古墳と南の履中陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます。また、堺市博物館には、仁徳陵に関する資料を展示しています。ぜひお越しください。
仁徳天皇について
『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神宮皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳天皇は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死語に送る称号〉)です。『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313)1月3日に即位し、仁徳87年(399)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。
父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫(なかつひめ)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かつらぎのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうけます。民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。
同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。
「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した英初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。
「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳陵古墳−応神陵古墳−履中陵古墳−ニサンザイ古墳−仲津姫陵古墳となります。これを時期順に並び替えると、仲津姫陵古墳−履中陵古墳−応神陵古墳−仁徳陵古墳−ニサンザイ古墳となります。しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中陵古墳−応神陵古墳−仁徳陵古墳−ニサンザイ古墳−仲哀陵古墳との説が一番有力なようです。
ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれません。
仁徳陵古墳のデータ
1.古墳の名前
大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。
2.古墳の大きさについて
| 古墳の最大長 | 840メートル | 古墳の最大幅 | 654メートル |
| 墳丘の全長 | 486メートル | 墳丘基底部の面積 | 103,410平方メートル |
| 後円部の直径 | 249メートル | 後円部の高さ | 35メートル |
| 前方部の幅 | 305メートル | 前方部の長さ | 237メートル |
| 前方部の高さ | 33メートル |
3.周濠について
周濠の数−3重
| 周濠と堤の幅 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 1重濠 | 前方部側70メートル | 後円部側71メートル | 最大120メートル | 面積131,690平方メートル |
| 第1堤 | 前方部側35メートル | 後円部側25メートル | 面積 65,800平方メートル | |
| 2重濠 | 前方部側25メートル | 後円部側10メートル | 面積 44,580平方メートル | |
| 第2堤 | 前方部側18メートル | 後円部側20メートル | ||
| 3重濠 | 前方部側15メートル | 後円部側18メートル | ||
4.陵域の総面積
宮内庁の陵墓図での総面積 478,572平方メートル
(陪塚と飛地を含む)
宮内庁の陵墓図の本陵面積 464,123平方メートル
(甲号−茶山古墳、乙号−大安寺山古墳、丙号−樋の谷古墳と飛地計539平方メートルを含む)
5.古墳の外周
2,718メートル(現在整備されている周遊路の全長 2,850メートル)
6.古墳の墳丘の総容積
| 現在の墳丘 | 1,367,062立方メートル |
| 築造当時の復元 | 1,406,866立方メートル(10トンダンプカー27万台分) |
参考文献
- 梅原末治「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と営造」『書陵部紀要第5号所収(1955年3月)陵墓関係論文集』宮内庁書陵部陵墓課編 1980年
- 大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』 1985年
- 大阪府立近つ飛鳥博物館「仁徳陵古墳−築造の時代」『平成8年度春季特別展図録』 1996年
仁徳陵古墳の陪塚のデータ
陪塚とは、大きな古墳(主墳)の周辺に造られた小形の古墳の中で、主墳に付属するような位置に計画的に配置され、かつ同じような時期に造られた古墳をさします。古墳の形は方墳や円墳が多いのですが、帆立貝形の前方後円墳もあります。元々は中国の陪葬墓のような、主墳に葬られた人に、死後の世界でも付き従うために葬られた近親者や従臣、お供の人々の殉葬墓と考えられていました。しかし、最近の研究では、百舌鳥御廟山古墳の陪塚で、多量の滑石製模造品を埋納したカトンボ山古墳のように、特定の副葬品のみを埋納した古墳が多く確認され、本来主墳に副葬するはずのものを、周辺に造った小形の古墳に種類別に副葬品のみを分納した場合もあることがわかってきています。帆立貝形の前方後円墳では人体埋葬が認められる例が多く、近親者や従臣の古墳とみられます。それに対して方墳や円墳では特定の副葬品を多量に埋納した古墳が多いようです。
1. 陪塚の数
A.宮内庁指定陪塚−12基
| い号飛地 | 孫太夫山古墳 | 1,380平方メートル | 後円部墳丘のみ指定 |
| ろ号飛地 | 竜佐山古墳 | 1,828平方メートル | 墳丘のみ |
| は号飛地 | 狐山古墳 | 407平方メートル | 残存墳丘のみ |
| に号飛地 | 銅亀山古墳 | 590平方メートル | 残存墳丘のみ |
| ほ号飛地 | 菰山古墳 | 804平方メートル | 残存墳丘のみ |
| へ号飛地 | 丸保山古墳 | 2,399平方メートル | 後円部墳丘のみ |
| と号飛地 | 永山古墳 | 5,458平方メートル | 墳丘のみ |
| ち号飛地 | 源右衛門山古墳 | 870平方メートル | 墳丘のみ |
| り号飛地 | 坊主山古墳 | 167平方メートル | 残存墳丘のみ |
| 本陵内(甲号−茶山古墳、乙号−大安寺山古墳、丙号−樋の谷古墳) | |||
B.仁徳陵古墳の周り(陪塚の位置)にあった古墳−19基(消滅した古墳を含む)
C.仁徳陵古墳の周り(陪塚の位置)に現在残っている古墳−16基
2. 仁徳陵古墳の周り(陪塚の位置)にあった古墳の概要
(1)孫太夫山古墳(まごだゆうやまこふん)−宮内庁い号飛地−百舌鳥夕雲町2丁
墳丘長56メートル、後円部径48メートル、前方部幅30メートルの前方部が西を向く東西主軸の帆立貝形(後円部に比べて前方部の幅が狭く小さい)の前方後円墳です。
古墳の名は所有者であった中筋村庄屋の南孫太夫に由来します。今ある周濠と前方部の一部は大仙公園の整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたものです。
(2)竜佐山古墳(りゅうさやまこふん)−宮内庁ろ号飛地−大仙中町
墳丘長67メートル、後円部径55メートル、高さ7メートル、前方部幅30メートルの前方部が西を向く東西主軸の帆立貝形の前方後円墳です。もと良佐山の字があてられていたようです。
今の周濠は孫太夫山古墳と同じく大仙公園整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたものです。
(3)狐山古墳(きつねやまこふん)−宮内庁は号飛地−大仙中町
径23メートル、高さ4メートルの円墳で、周濠の有無は不明です。古墳の現状は、墳丘の裾が削られ方墳状になっていますが、墳丘は高く残存度は良好です。
(4)銅亀山古墳(どうがめやまこふん)−宮内庁に号飛地−大仙町
一辺26メートル、高さ4.6メートルの方墳で、周濠の有無は不明です。古くは堂亀山とも記されていたようです。
墳丘は高く、2段築城がよく残るなど残存度は良好で、下段は南側が造り出し状に張り出し、長方形を呈しています。
(5)樋の谷古墳(ひのたにこふん)−宮内庁丙号−大仙町
仁徳陵古墳の三重濠の西側面のほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47メートルの不整形な古墳です。古墳は濠を浚渫した時の土を盛ったものとも言われ、古墳かどうかは疑問視されています。
(6)一本松古墳(いっぽんまつこふん)−削平消滅−陵西通1丁10他
仁徳陵古墳の西200メートルに位置していた直径20メートル程の円墳です。仁徳陵古墳の周濠と旧市街の環濠の土居川を結ぶ樋の谷に面し、径13メートル、高さ2メートル程の墳丘が最近まで残っていましたが、1987年に宅地造成により削平されてしまいました。この時に緊急発掘調査が行われ、埋葬施設は確認出来ませんでしたが、古墳を飾っていた埴輪や古墳を築く際に行われたマツリに使われた須恵器や土師器が出土しています。
(7)菰山古墳(こもやまこふん)−宮内庁ほ号飛地−南丸保園49他
現在は住宅に取り囲まれた円墳状の墳丘が残るのみで旧状をとどめませんが、もとは墳丘全長36メートル、高さ3メートルの前方部が南を向く小規模な帆立貝形の前方後円墳でした。
(8)丸保山古墳(まるほやまこふん)−宮内庁へ号飛地−北丸保園31他
墳丘全長87メートル、後円部径67メートル、前方部幅40メートルの前方部が南を向く帆立貝形の前方後円墳です。墳丘の周りには幅10メートル程の濠が巡ります。後円部は宮内庁が仁徳陵古墳の陪塚(へ号飛地)として管理しているためよく残っていますが、前方部は近年まで民家と耕作地であったためかなり平坦に削平されています。
前方部と周濠は昭和47年(1972)7月25日に国の史跡に指定されています。
(9)永山古墳(ながやまこふん)−宮内庁と号飛地−東永山園41他
墳丘全長104メートル、後円部径63メートル、高さ9メートル、前方部幅67メートル、高さ8メートルの前方部が南を向く中形の前方後円墳です。墳丘は2段に築成され、くびれ部の東側には造出しがあります。墳丘の周りには幅15メートル程の盾形の周濠が巡ります。墳丘は宮内庁が陪塚(と号飛地)として管理していますが、造出しがあり前方部と後円部が同じ大きさの前方後円墳であることから、独立した古墳とみられます。
伝承では応神16年に百済から来日し「論語」や「千字文」などを伝えた王仁(わに)の墓といわれています。
(10)茶山古墳(ちゃやまこふん)−宮内庁甲号−大仙町
仁徳陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの西側にある径55メートル、高さ8メートルの円墳です。
茶山の呼称は、「堺鑑」に豊臣秀吉が仁徳陵古墳で狩りをした時に、陵の上で仮の居宅を構えたあとを茶屋山と呼んだという記事があり、これに由来します。
(11)大安寺山古墳(だいあんじやまこふん)−宮内庁乙号−大仙町
仁徳陵古墳の後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの東側にある径60メートル、高さ9.5メートルの円墳です。
古墳の名前は、古くは大安寺の所有地であったことに由来し、別名、寺山とも呼ばれていたようです。
(12)源右衛門山古墳(げんえもんやまこふん)−宮内庁ち号飛地−向陵西町4丁
現状は直径40メートル、高さ5メートルの円墳の墳丘部が仁徳陵古墳の陪塚に指定され宮内庁が管理しています。平成元年(1989)に行われた発掘調査で幅5メートル、深さ1.8メートルの周濠をもつ墳丘径48メートルの円墳であることが確認され、この時に確認された周濠の外周を、現在道路上にタイルで明示しています。
古墳の名前は江戸時代の古墳の所有者名に由来します。
(13)鏡塚古墳(かがみづかこふん)−百舌鳥赤畑町5丁90他
現状は径15メートル、高さ1.5メートル程の円墳状の墳丘が残っています。一時は古絵図などから墳丘長49メートルの東西主軸の帆立貝形古墳ではないかと考えられましたが、平成7年(1995)に行われた発掘調査で周濠をもつ墳丘長径26メートルの円墳であることがわかりました。
(14)塚廻古墳(つかまわりこふん)−国史跡−百舌鳥夕雲町1丁27他
現状は直径35メートル、高さ4.5メートルの円墳状の墳丘だけが残っていますが、大正15年(1926)宮内庁測量の仁徳天皇百舌鳥中陵陵墓図や、近年の周濠の部分発掘調査成果から、南北主軸の帆立貝形古墳の可能性も考えられます。
明治45年(1912)の発掘で木棺とみられる埋葬施設が発見され、銅鏡2面と鉄剣をはじめ硬玉や碧玉製などの勾玉や管玉、棗玉などの玉類が多量に出土しています。その後、昭和33年(1958)5月14日に国の史跡に指定されています。
平成元年(1989)に行われた墳丘裾部の発掘調査で確認した幅10メートル深さ1.8メートルの周濠跡を道路上にタイルで明示しています。
(15)百舌鳥夕雲町1号墳(もずせきうんちょういちごうふん)-百舌鳥夕雲町1丁
大正15年(1926)宮内庁測量の仁徳天皇百舌鳥中陵陵墓図に記された古墳で、同図では長(東西)辺17メートル、短(南北)辺15メートル、高さ3メートル程の小形の方墳として描かれています。しかし、現在はその痕跡すらなく、内容や正確な位置については全く不明です。
古墳の名前は所在した地名で名付けています。
(16)収塚古墳(おさめづかこふん)−国史跡−百舌鳥夕雲町2丁149他
現状は径35メートル・高さ4メートル程の円墳状の墳丘だけが残りますが、元は周濠が巡る墳丘長65メートル程の前方部を西に向ける帆立貝形の前方後円墳でした。墳丘には埴輪が巡り、墳頂部から短甲片が出土していますが、詳細は良くわかりません。昭和33年(1958)5月14日に国の史跡に指定されています。
平成元年(1989)に行われた墳丘裾部の発掘調査で確認した幅7.5メートル深さ1.8メートルの周濠跡を道路上にタイルで明示しています。国の史跡に指定されています。
(17)鼬塚古墳(いたちづかこふん)−百舌鳥赤畑町3丁
古地図の畔道の形から古墳があったと推測されますが、かなり昔に削られ宅地になっているため確かなことはわかりません。古地図の畔からは全長64メートル、墳丘長46メートル、後円部径37メートル、前方部幅15メートルの前方部を西に向ける帆立貝形の前方後円墳が復元されます。
(18)坊主山古墳(ぼうずやまこふん)−宮内庁り号飛地−百舌鳥赤畑町2丁
仁徳陵古墳の東260メートルに位置する径40メートル程の円墳であったと推定されますが、現在は一辺20メートル前後、高さ2メートル程の三角形状の墳丘が残るのみで、かなり古い段階に大規模な削平が行われています。
(19)長塚古墳(ながつかこふん)−国史跡−百舌鳥夕雲町2丁260他
仁徳陵古墳の南南東約150メートルにある墳丘全長100メートル、後円部径55メートル、高さ7.5メートル、前方部幅67メートル、高さ8.5メートルの前方部が西を向く中形の前方後円墳です。墳丘は2段に築成され、くびれ部の南側には造出しがあります。墳丘の周りには幅12メートル程の盾形の周濠が巡っていたことが発掘調査で確認されていますが、現在は完全に埋まり、墳丘の裾まで家が建ち並んで囲まれています。
墳丘は昭和33年(1958)5月14日に国の史跡に指定されています。本古墳は造出しがある前方後円墳で、陪塚を従えていることから独立した古墳と考えられます。伝承では武内宿禰の墓と伝えられています。
仁徳陵古墳の陪塚についての補足
以上19基の古墳を形から分類すると、前方後円墳2基、帆立貝形の前方後円墳6基、円墳8基、方墳2基、不定形墳1基になります。不定形墳の(5)樋の谷古墳は、濠をさらった時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されています。(6)の一本松古墳(いっぽんまつこふん)と(18)の坊主山古墳(ぼうずやまこふん)については陪塚というには少し距離が離れています。また、墳丘の長さが100メートル程の(9)の永山古墳と(19)の長塚古墳については整った前方後円墳であることから陪塚ではなく独立古墳とみられます。以上より仁徳陵古墳の陪塚は14基と考えられます。なお、この14基のうち塚廻古墳は、調査などから埋葬施設があることがわかっており、従臣の墓の可能性が考えられます。また、大安寺山古墳や源右衛門山古墳などの円墳と銅亀山古墳などの方墳については、既往の発掘調査例からみて副葬品のみを埋納した倉庫的な陪塚であると考えられます。
(写真)百舌鳥・古市古墳群 航空写真パネルより(常設展示場)
仁徳陵古墳で発見されたもの
1.後円部の石棺
堺のことを書いた江戸時代の「全堺詳志」宝暦7年(1757)刊に後円部の頂上に「石ノ唐櫃」のあることが記され、石のふたのサイズが、長さ1丈5寸(3メートル18センチ)、幅5尺5寸(1メートル67センチ)、厚さ8寸(24センチメートル)であるとされています。重さはわかりませんが、石材が凝灰岩として比重計算すると 30〜50トンはあると思われます。
(写真)仁徳陵古墳 後円部石棺復元模型(展示学習フロア)
2.前方部の石室と石棺
明治5年(1872)に前方部の前面の斜面で発見された石室と石棺を、堺県令の税所篤(さいしょあつし)が絵師に描かせています。絵図から推測すると、石室の長さは東西方向におよそ1丈2〜3尺(3.9メートル)、幅が南北方向におよそ8尺(2.4メートル)あまりで、20〜30センチメートル程の丸石(自然石)を積上げて造られ、大石3枚で覆っていたと記されています。石室の中に納められていた石棺は蓋の大きさが幅4.8尺(1.45メートル)、長さ8〜9尺(2.4〜2.7メートル)、高さは3尺(0.9メートル)で、石棺の全体の高さは推定で5尺3寸(1.6メートル)程とみられ、石材が凝灰岩として比重計算すると30トンはあると思われます。石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようだと記されています。また石棺を据える時に縄を掛けた縄掛け突起が径1尺4寸(42センチメートル)と大きく、前面に朱が塗られているのが特徴です。
仁徳陵前方部 明治5年出土石室石棺図 (常設展示場) |
前方部 石棺復元模型 (常設展示場) |
3.前方部の石室と石棺の間で発見されたもの

ガラス碗と皿(復元)(常設展示場)
明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間には甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりがあったと記されています。
4.前方部の石室と石棺の間で発見された甲冑
明治5年(1872)に発見された石室と石棺の間にあった副葬品のうち、甲冑については詳細な絵図が残されています。それによると、細長く延ばした銅板を組み合わせて鋲で留めた横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)と、長方形の銅製小札を組み合わせて鋲で留め、透彫模様のある庇や金製の歩揺(ほよう)を付ける小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)がセットで描かれています。大きさは横矧板鋲留短甲が背の高さ1尺5寸(45.5センチメートル)、前部が1尺1寸2分(34センチメートル)、幅が1尺6寸(49.5センチメートル)あまりで総体銅鍍金と記されています。小札鋲留眉庇付冑は幅が6寸7分(20.3センチメートル)、高さは不詳ですがシコロが2寸(6センチメートル)冑本体が3寸3分(10センチメートル)ほどと考えられ、同じく総体銅鍍金と記されています。大きさは普通の甲冑ですが、銅に金メッキしたきらびやかな甲冑は、大王の持ち物にふさわしいものです。
仁徳天皇大仙陵石郭之中ヨリ出シ甲冑之図 堺市指定文化財(個人蔵) (常設展示場) |
復元甲冑模型(常設展示場) |
5.埴輪・その他
円筒埴輪、形象埴輪−人物・馬・犬・水鳥・家形埴輪・蓋形埴輪などがある
| 女子頭部(巫女)埴輪 | 現存高19.4センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
| 馬埴輪(頭部) | 現存長31.8センチメートル 現存高21.0センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
| 馬埴輪(頭部) | 現存長35.6センチメートル 現存高25.6センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
| 馬埴輪(鞍部) | 現存長75.0センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
| 犬埴輪(頭部) | 現存長31.9センチメートル 現存高21.4センチメートル |
宮内庁所蔵 | |
| 水鳥埴輪(頭部) | 現存高32.5センチメートル | 宮内庁所蔵 | |
| 馬埴輪(頭部) | 現存高15.0センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | |
| 馬埴輪 | 現存高17.0センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | 仁徳陵古墳北方古墳周濠 |
| 家形埴輪飾り | 12.5センチメートル | 京都大学総合博物館所蔵 | |
| 人物埴輪 | 現存高17.0センチメートル | 個人所蔵 | 仁徳陵古墳周辺出土 |
| 馬埴輪(頭部) | 現存高17.5センチメートル | 個人所蔵 | |
| 須恵器・甕 | 口縁部径36センチメートル 器高62センチメートル 胴部復元最大径62センチメートル |
宮内庁所蔵 | くびれ部東造出し上面から出土 |
出土埴輪(常設展示場) |
出土埴輪(常設展示場) |
6.ボストン美術館所蔵伝仁徳陵出土品
| 細線文獣帯鏡 | 径23.5センチメートル | 細い線で繊細な模様と銘文を持った中国鏡 |
| 環頭太刀柄頭 | 長さ23センチメートル | 金象眼の環頭の中央に鳳を飾り、彫り物を施した金板と銀線巻きで柄を飾る大王の持つ太刀です |
| 三環鈴 | 高さ6.3センチメートル | 大王の乗る馬や大王自身が身につけて、鈴の音により存在を誇示した威儀具です。 |
| 馬鐸 | 高さ18.7センチメートル | 三環鈴と同じく、大王の乗る馬や、興につけて大王の存在を表す鐸です。 |
百舌鳥古墳群について
百舌鳥古墳群は日本最大の仁徳陵古墳をはじめ、第3位の履中陵古墳や第8位のニサンザイ古墳など、250メートルを越える巨大古墳を擁する日本を代表する中期古墳です。古墳は現在47基残っていますが、消滅した古墳を含めると100基以上の古墳が築かれていたことがわかっています。古墳群が築かれている場所は、大阪湾を望む標高20〜30メートルの平坦な台地の上で、この地は『日本書紀』にでてくる「百舌鳥野」に比定されています。
現在わかっている107基の古墳は、前方後円墳が15基、帆立貝形古墳が28基、円墳が54基、方形墳が5基で、残りの5基の形状は不明です。また、中心となる大型前方後円墳のほとんどが陵墓や史跡に指定され、発掘調査がほとんど行われていないため多くが謎につつまれています。このような中で、塚廻古墳・大塚山古墳・七観古墳・カトンボ山古墳など少数の古墳で発掘調査が、また、最近では御廟山古墳や反正陵古墳・ニサンザイ古墳などの大型前方後円墳でも周濠の発掘調査がなされ、少しずつ資料が追加されてきています。
これらの発掘調査によると、まず、大型前方後円墳の築かれた時期が4世紀末から6世紀前半で、乳岡古墳→大塚山古墳・履中陵古墳→いたすけ古墳→仁徳陵古墳・御廟山古墳→反正陵古墳→ニサンザイ古墳の順に築かれていることがわかりました。ただ、この順番では仁徳天皇と履中天皇の在位時期と古墳築造の順が逆転するので、現在の宮内庁の陵墓比定に問題を投げ掛けています。また、周濠は乳岡古墳・大塚山古墳・いたすけ古墳が一重で、仁徳陵古墳・履中陵古墳・御廟山古墳・反正陵古墳・ニサンザイ古墳が二重以上の濠を有すことがわかっています。この二重以上の濠を持つ古墳については、「倭の五王」に代表される大王墓と考えられます。また履中陵古墳は二重濠を有する最初の頃の古墳です。
次に中形や小形の古墳では、仁徳陵古墳などの大型古墳の廻りに築かれた陪塚と呼ばれる古墳があります。人体埋葬を伴わない七観古墳やカトンボ山古墳などは、主墳に付随する倉庫的なものと考えられています。また、塚廻古墳など人体埋葬を伴なう帆立貝形古墳については、主墳に従う陪葬墓とみることができるようです。これらの他に、主墳と築造時期の異なるものや前方後円墳については、陪塚といった付属施設ではなく、独立した古墳と考えられます。
大型前方後円墳から離れて築かれた古墳のなかで、百舌鳥川流域の両岸に同流域を擁護するように等間隔に築かれた御廟表塚古墳・定の山古墳・陵南赤山古墳・城ノ山古墳や、ニサンザイ古墳と美濃川に挟まれた地域に築かれた湯の山古墳やこうじ山古墳などは、周辺に営まれた百舌鳥陵南遺跡や土師氏の集落と目される土師遺跡などの古墳築造集団の首長墓と考えられます。
百舌鳥古墳群復元鳥瞰図(常設展示場) |
百舌鳥古墳群立体模型(常設展示場) |
仁徳陵古墳 Q&A
Q1.仁徳陵古墳ってなんですか?
1500年以上前の5世紀に造られた古墳で、日本全国に30万基はあるといわれる古墳の中でも最大の面積です。
Q2.前方後円墳ってなんですか?
1700年前から1400年前に造られた古墳とよんでいるお墓のなかで、円形と四角形を組み合わせてカギ穴の形に作った日本独特の形をした古墳のことです。日本にある多数の古墳のなかで、この形の古墳を造ることができた人は、支配者の中でもヤマト政権に認められた限られた人だけだったようです。その中で一番大きいのが仁徳陵古墳で、このような巨大な前方後円墳を造ることができた人物が日本の頂点にいた大王であると考えられます。また、巨大な前方後円墳を頂点として、その下に位置づけられる大きさや、幾種類かの形に分けられた古墳が分布していることから、この大王が日本をある程度まとめていた、つまりその当時ある程度のまとまりのある統一国家ができていた証しと考えられています。
Q3.仁徳陵古墳にはどのような人が葬られているのですか?
仁徳陵古墳に葬られている人がだれか、本当はよくわかっていません。伝承では、『日本書紀』という日本で一番古い歴史書に出てくる第16代天皇の「仁徳天皇」の墓と伝えられ、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)・仁徳天皇陵」として宮内庁が管理しています。古墳は今から1500年以上前の5世紀に造られた日本最大のお墓(古墳)で、当時の日本(倭)を治めていた大王(おおきみ)が葬られたことは確実です。しかし、当時は天皇という名前がないので、後の天皇と同じ様な人だったかどうかはわかりません。
Q4.仁徳陵古墳から出てきたといわれる甲(よろい)や冑(かぶと)ってどのようなものですか?ほかにどのようなものが埋まっているの?
仁徳陵古墳から見つかった甲と冑は、明治5年に古墳の斜面が崩れて出てきた物です。しかし、これらの甲や冑は、出てきてすぐに埋めもどしたので、今は本物を見ることはできません。ただ、甲と冑については見つかった時に描かれた絵図が残っていて、形や作りがわかります。それから見ると、甲と冑は銅で作られ、その上に金メッキしていることがわかります。このような銅の上に金メッキした甲と冑は当時とても貴重な物で、かなりくらいの高い人しか使えない、権力を表す持ち物だったようです。ほかにも、ガラスの器、太刀金具、鉄刀などがあったようですが、今まで本格的な発掘調査をしていないので、ほかにどんなものが埋まっているのかよくわかりません。
Q5.仁徳陵古墳から出てきた甲(よろい)や冑(かぶと)は誰が作ったの?
現在、実物を見ることができないのでどこで誰が作ったのかよくわかりません。ただ、作り方が当時の最先端技術で作られていることが絵からわかるので、朝鮮半島や中国で作られたか、またこれらの地域の技術者が渡って来て作ったと思われます。
Q6.仁徳陵古墳から出てきた物から国際交流がわかるって本当ですか?
金銅製の甲冑は銅に金メッキしたものなので、すでにこの時代に金メッキの技術があったことがわかります。これはアマルガム法という当時の最先端技術が使われています。また金銅板を接合するのに鋲留めという釘の両端を叩いて留める技法で作られています。これも当時の最先端技術で、両方とも5世紀に大陸から伝わった技術です。また、当時の日本にはガラスの器を造る技術はなかったので、ガラスの皿と器は遠くペルシャ(今のイラクやイランのあたりにあった国)からシルクロードを経てもたらされたものと考えられ、今から1500年以上前に、シルクロードをとおして西アジアとも交流があったことがわかります。
Q7.甲(よろい)や冑(かぶと)の他に巨大な石棺や鉄の武器や道具から何がわかるの?
大きな石棺は凝灰岩という石で出来ていて、兵庫県から運ばれてきたことがわかっています。また、その重さは合計で30トンから50トンはあると計算され、これだけの重さの石を運ぶ運搬技術があったことがわかります。また、鉄製の武器や道具は、その原料となる鉄のほとんどが朝鮮半島からの輸入品で、それを集中的に調達し管理できる力を持つ支配者がいたことがわかります。
Q8.仁徳陵古墳みたいな巨大な古墳をなぜ作ったの?
当時の日本の支配者である王は競うようにして大きなお墓(古墳)を作って、自分の力を誇っていました。なかでも、日本全体を治める王の中の王である大王(おおきみ)は、当時一番大きな墓(古墳)を造って、日本を治める最大の力を持つことを、示したと考えられています。
Q9.仁徳陵古墳には大山古墳とか大仙古墳など名前がたくさんありますが、本当の名前は?
仁徳陵古墳は、日本最古の歴史書『日本書紀』などで4世紀(313〜399)に在位していたと記されている仁徳天皇のお墓として宮内庁によって管理されています。しかし、最近の研究で古墳の造られた時代が5世紀だとわかってきたので、本当に葬られた人がわからなくなっています。そこで、今は単に古墳の名前として仁徳陵古墳、大仙古墳などと呼ぼうという意見が多いので、博物館では一般に親しまれている仁徳陵古墳という名前を使っています。
ちなみに、仁徳陵古墳の名前には大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。またこれらの名前に仁徳御陵などの「御」や伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。
Q10.仁徳陵古墳を造るのに何人の人が働いて、何年かかったの?
古墳を造るのに積み上げた土の量は約1,406,866立方メートル(運搬土量に換算すると1,998,000立方メートル、10トンダンプカーで27万台分)で、古墳に巡らした埴輪の数は約15,000本。古墳の墳丘が痛まないように表面に貼り付けた葺石が14,000トン(ダンプカーで1,300台分)として計算すると、古墳を造るのに働いた人は延べ6,807,000人で、一日当たりピーク時2,000人が働いたとして工事期間は15年8ヶ月以上かかった計算になります(以上、大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』1985年より)。また、これらの人が働くには食料や道具などが必要です。それらを供給する人も多数いたことになります。当時の日本の総人口が5〜600万人位といわれている時にそれだけの人々を、個人のお墓を造るために集めて支配できた、それだけ大きな権力を持った人がいたという証拠になります。
なお、別の説によると、盛土土量が1,405,866立方メートルで運搬距離250メートルを一人一日1立方メートルは運ぶとして、土の運搬だけで 1,405,866人が必要で、それに要する期間は毎日1,000人が働いて約4年弱かかるという計算もあります(以上、梅原末治「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と営造」『書陵部紀要第5号所収(1955年3月)−陵墓関係論文集』宮内庁書陵部陵墓課編1980年より−高橋逸夫氏の計算)



