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子育てメッセージ8

子育てちょっといい遊び

はじめに

人権ふれあいセンターでは、毎年11月に「ふれあいフェア」を開催しています。参加された方には「人権の花を咲かそう」との願いを込めて、チューリップの球根が配られます。さっそく、いただいた球根を植えてみました。それから、4ヶ月、地面を破るように新芽が顔をのぞかせました。無限に成長するぞといわんばかりのエネルギーを感じます。

同じエネルギーを、私たちが日頃接している子ども達にも感じることができます。そんな子ども達の健やかな成長を願いながら、児童育成課は毎月発行の堺市立人権ふれあいセンターだより「ふれ愛」に、「子育てちょっといいはなし」を綴ってきました。本冊子「子育てメッセージ」は、これらをまとめて編集したものです。

第8号となる今回は、例年の通りの「子育てちょっといいはなし」に加え、「叱り言葉」についてまとめてみました。子育てや子どもたちとのコミュニケーションの参考になれば幸いです。 今後とも皆様方のご支援、ご協力をお願いいたします。

2007年(平成19年)3月 児童育成課長

目次

間違いだらけの「叱り言葉」

「親の心、子知らず」というのか、なかなか子どもはこちらの思うようにはなってくれません。優しく言っているうちは言うことを聞かない。「子どものため」とは思いながら、ついつい、きつい言葉を使ってしまいがち。しかし、子どもの方はかえって意固地になったり、そっぽをむいたり・・・・。今度はその態度が余計に腹立たしくて、叱る方の声も、段々と荒くなってくる。こうなると、もう後は悪循環。大人の方もストレスばかりが溜まっていくし、叱られる子どもの方もたまったものではありません。これでは「子どものため」どころか、誰のためにもなっていないような気がします。

そこで、大人がよく使う「叱り言葉」を点検しながら、効果的な叱り方を一緒に考えて行きたいと思います。感情に任せて子どもを叱る前に、ちょっと一工夫することで、子どもの心にこちらの思いを届けることができるのではないでしょうか?

間違いだらけの叱り言葉(1)

「権力的な叱り言葉」― お父さんに言うからね

はじめに取り上げるのは、「お父さんに言うからね」という言葉です。ここで言う「お父さん」を、「お母さん」や「おばあちゃん」、あるいは「担任の先生」に置き換えても同様です。

これらは全て、叱っている人が、他の大人の名前を出して、子どもを従わせようとする「権力的な言葉」であるといえます。

問題点1:目の前の大人の言うことを聞かなくなる

子どもが小さい頃に、「おばけ」や「かみなり様」の名前で怖がらせて寝かしつけるということがあったように、その子どもにとって「怖い存在」を作っておくというのは、確かに「即効性」があるかもしれません。しかし、この言葉を多用していると、「お父さん」の言うことしか聞かない子になってしまう危険性があります。小さいうちはそれでも「抑え」がきくかもしれませんが、子どもはどんどん成長していきます。やがて、頼みの綱の「お父さん」が乗り越えられてしまったらどうなるでしょうか?誰の言うことも聞けない子どもになる危険性があります。

問題点2:大人への不信感が増大する

また、叱っている大人に対してはどう思うでしょうか?自分の言葉で叱るのではなく、「怖い存在」を出してくることに対して子どもは「卑怯」だと感じるかもしれません。それだけではなく、名前を出された「お父さん」と子どもの関係は、愛情で結ばれたものではなく、力で押さえつける「権力関係」に変ってしてしまう恐れもあります。

処方箋:子どもの心に訴える

お父さんの名前を出すとしたら、「お父さんが知ったら悲しい思いをすると思うわ」という言い方はどうでしょうか。子どもにとって「憧れ」や「大好きな存在」である「お父さん」への思いに訴えるという方法です。しかし、これも、他の人の力を借りた叱り言葉であることには変わりがありません。何よりも大切なのは自分の思いを自分の言葉で、子どもに伝えることです。

間違いだらけの「叱り言葉」(2)

「子どもの人格を傷つける叱り言葉」− そんな子に育てた覚えはない

子どもを叱っているうちについつい感情的になって「言ってはいけないこと」を口走ってしまうことがあります。それを以下の三つに分類してみました。

〈1〉「全否定の叱り言葉」

「お前なんか、顔も見たくない」「あっちへ行け」「出て行け」など、存在そのものを否定する言葉を言われた子どもは、ひどい場合には「生きる意欲」さえなくしてしまうかもしれません。そこまで行かなくても、叱っている大人への反感が残るだけです。それよりもこのような経験から、腹が立ったときには「相手の人格を否定する言葉」を使ってもよいのだということを学んでしまわないか心配です。自分の知らないところで、我が子が他人を口汚くののしっているというのは、想像するだけでもゾッとしませんか?

〈2〉「決めつけの叱り言葉」

「だから、お前はダメなんだ」「どうせ、お前はそうすると思っていたよ」という決めつけの言葉からは、「前向きに頑張ろう」という意欲は決して湧いてこないでしょう。どんなに頑張っても「どうせ、お前は」と思われているのなら、もう挽回の余地は残っていないからです。

「何回言ったらわかるんだ」「この前も…」「あのときは…」という「過去にさかのぼって責める言葉」も同様です。そのときの「不適切な行動」だけでなく、過去のことまで出してきて、芋づる式に責めたてられたのではたまったものではありません。

〈3〉「他との比較で責める叱り言葉」

「○○ちゃんはできるのに、どうしてお前はできないの?」など、他の子どもと比較して叱るのは、それでなくても自信をなくしている子どもの「劣等感」をさらにかきたてることになります。

特に兄弟姉妹で比較するというのは、比較され、お手本とされる方にもあまり良い影響を与えるものではありません。「相手の失敗」によって「褒められる」ことを学んでしまうと、親から褒められるために「相手がダメである」ことを望むようになるかもしれません。

大人が一番してしまいがちなのは、「自分の子どもの頃」との比較です。「私の子どもの頃はそんなことはしなかったわよ」という言葉は、言われる子どもにしてみれば、単に「大人の自慢話」にしか聞こえないでしょう。

「私はそんな子に育てた覚えはない」という言葉は、親が勝手に描いた「理想の子ども像」に基づいて、現実の子どもに向かって、「お前は私の(理想の)子じゃない。(だから、愛してあげないよ)」と言っているのと同じです。実在する人物ではなく、「理想の子ども像」と比較されたのでは、もはや言い訳する気にさえもならないでしょう。

※ 処方箋1:1%の不適切な行為で、残りの99%まで否定しないで!

※ 処方箋2:昨日よりも今日、今日より明日の『成長』を信じる

子どもは失敗しながら成長するもの。決めつけずに、また他の子と比べず、その子独自の成長を見守るところから始めましょう。

間違いだらけの「叱り言葉」(3)

「叱り言葉」に特効薬はない−

今回はまとめも兼ねて、「叱る」という行為そのものについての処方箋を考えてみたいと思います。

処方箋1.「叱る」と「怒る」の違いに気づいておく

「できるだけ叱らないように」とは言っても、子どものやることには、つい「カッとなる」ということがよくあります。この場合は「叱る」というよりも、大人としての冷静さを失い、腹立ちや苛立ちといった「マイナス」の感情を子どもにぶつけて「怒る」といった方が正確かもしれません。

それに対して、「叱る」というのは、子どもの間違いや不適切な行動を正し、より良い成長を支援する行為です。もちろん、子どもを叱るときには、ニコニコ笑いながらよりも、「毅然とした」態度で接することが必要な場合もあります。しかし、その場合にも、自分の感情に振り回されずに、どうしたら子どもに自分の思いが伝わるかを考えられる「冷静さ」を失わないようにしたいものです。 子どもを叱っているときには、いつも「きちんと叱れているか?ただの怒りになっていないか?」と問いかけるもう一人の自分をもつ必要があります。

処方箋2.「叱る」ときには、「逃げ道」を残しておく

子どもを叱るのは、「どうしたの?」「どんなつもりだったの?」と聞いてからでも遅くはありません。「事実確認」することによって、叱る側が思い違いや決め付けで叱るのを防ぐことができるだけでなく、子どもの「言い分」を認めた上で、余裕をもって叱ることができるからです。

その上で叱るのは八分目、いや六分目くらいで止めておくことをお勧めします。どんなに大人の言うことが正しくても、(いや正しければ正しいほど)とことん責め立てられたら、逃げ道をなくした子どもはかえって素直に反省できなくなるものです。また、子どもの自信ややる気を奪わないためにも、「追い詰めない」ことが大切です。

処方箋3.親の配慮で叱らずにすませる

毎朝保育所に遅れてくるある男の子は、園に着いてもお母さんに叱られっ放しです。そのお母さんいわく「うちの子(こ)はトレンディードラマや深夜番組が大好きでなかなか寝ないから、朝も起きられなくて・・・」(ホントに夜更かしが好きなのは誰なのでしょう?)

子どもが小さいうちは、大人のように「少々寝不足でも頑張って朝起きる」というほど器用でもタフでもありません。基本的な生活のリズムを整えてやるのはまだまだ大人の役目。どのように生活するかという「枠組み」はまず保護者がしっかりと示してやる必要があります。大人の都合でせかされたり、ゆっくりさせられたり。その度に叱られていたのでは子どもはたまったものではありません。日常生活の中で大人がちょっと配慮してやれば、子どもを叱らずに済むことがたくさんあります。「叱る」のは最後の手段。叱らなくて済むなら、それが一番です。大人自身が、生活のリズムを整えることと余裕を持って行動することによって、子どもを「叱る」ことは今の半分以下になるでしょう。「叱り言葉」に特効薬はありません。「叱る」は「褒める」とセットになってこそ効果があります。これまでにお出しした処方箋を参考に、是非それぞれのご家庭で、より良い「叱り言葉」を調合してみてください。

泣いてばかりの子ども

もう50年も前の話になりますが、私が通っていた幼稚園では、「外で遊ぶ時間」があって、そのときは、部屋で遊んではいけないことになっていました。だから、その時間帯は、部屋には鍵がかかっています。

その日は、鍵が開いていました。活発な子どもたちが見過ごすわけがありません。7〜8人の園児が、先生の目をぬすんで、部屋に入り、遊びにふけったのです。その中に私もいました。

誰かが叫びました。「先生や!」その声に子どもたちは一斉に素早くその場を離れました。私も逃げようとしたのですが、部屋の入り口付近に、針先が上を向いた、数個の画鋲が落ちているのに気が付きました。子ども心に『これは、あぶない』と思い、画鋲を取り除こうとしました。その時、なにか圧力のようなものを感じ、ふと横を見上げると、先生が睨んで立っていました。

勝手に部屋に入った私たちは、先生に叱られました。その後、私だけが、その場に一人残されました。「何でおいたの」「画鋲が、誰かの足にささったら・・・」などいっぱい言われました。私は画鋲など置いていません。安全のため、取ろうとしたのです。そのことを先生に言わなければと心で思っているのに、声にでません。出るのは、泣き声ばかり。でもなんとか必死で首を横にふりました。しかし、この行為は、よけい先生の怒りをかったようです。「置いてないというの。周りの子が、あなたが置いたといっていますよ」「ごまかすのが一番わるいのよ」・・・。私はますます泣きじゃくり、あとは、どうなったか覚えていません。5歳の私には、自分の思いを言葉で正しく表現する力が育っていません。特に、怒られて、感情が高ぶっていたので、よけい言葉が出ません。だから、泣くしかなかったのです。先生から見れば、私は強情で、素直に謝れない子に見えたかも知れません。ついに、本当の私を理解してもらえなかったのです。

でも、もし、先生が、私が泣きおわるまで待っていてくれたら、気持ちも落ち着き、言葉をだせたように思います。もし、最初から怒らずに、ゆっくりやさしく行動の理由を聞いてくれていたら、片言ながら答えることが出来たでしょう。それにより、今まで以上に私を理解してもらえたと思います。

大人は、子どものいけない行動に目を奪われて、つい怒鳴ったり怒ったりする場合が多いものです。でも、子どもがなぜそのような行動をとったかを知ることに重きを置くと、また違った子どもが見えてくるのではないでしょうか。

泣いているこどもに、あなたはどうかかわりますか?

あなたはどんなときに泣きますか?

思いが伝えられないとき、要求が通らないとき、自分が分かってもらえないとき、心配なとき、こころ細いとき、うまくことばで表せないとき等、そのくやしさや悲しさをこの人に受け止めてほしいと思い、泣くことが多いと思います。こどもも例外ではありません。こどもなりのくやしさや悲しさを受け止めて欲しくて泣いているのです。

先日、スーパーで泣きじゃくるこどもを親らしき人が叱っていました。 「うるさい!いいかげんに泣き止みなさい」のことばに対して、そのこどもは必死に声を殺し、全身を震わせています。泣いている理由は私には分かりません。親には分かっているのでしょう。でも、取るにたりない理由だと判断したのでしょう。あるいは、泣いているこどもにやさしくすればくせになると思っているのかもしれません。でも、そのこどもは泣き止む術も知らず、ただ耐えているだけなのです。

泣いている理由も知らない私が口出しすべき問題ではないかもしれませんが、こどもはこの体験でどんなことを学ぶのだろうかと気になります。泣いてもだめだと分かり、我慢するということを学べるかもしれません。また、親に従わなければ怖い目にあうのだということを学ぶかもしれません。いずれにしても、泣いている自分を受け止めてもらえなかったと感じるだろうと思います。 泣いている理由が正当でない場合もあるでしょう。それは正当でないですよと理解させてあげようと思うのが、こどもにたいするやさしさでもあるはずです。どのように説明すれば、分かってもらえるかと、こころをくだくのがこどもに対する愛情かと思います。

このようなこどもに対するやさしさや愛情が、人間っていいな、人ってだいじなものだなという気持ちをはぐくみ、人間への愛となるでしょう。人間への愛が礎になって人権感覚が育ちます。

泣いているこどもに、「泣き止みなさい」と命令するより、泣いている理由を聞いてあげ、どうすれば我慢できるか、どうすれば泣いている目的がかなえられるかを説明してあげるてまひまかけたやさしさがこどもの人権感覚を育てるのではないでしょうか。

愛着障害ってなに?

小学校低学年のAちゃんは、「おっさん、きしょい、あっちへ行け」「もう、お前なんかと遊んだれへん」と、自分の面倒をみてくれる人に対して、憎まれ口をいいます。言われた大人は「なんという子だ」と腹が立ちます。周りの子どもたちとは、ちょっとしたことで喧嘩になり、大声で怒鳴りちらします。時には、手を出して相手を傷つけることがあります。盗みを繰り返し、そのつど反省させられ、二度としないことを約束しますが、舌の根も乾かないうちに、また同じことを繰り返します。Aちゃんは、愛着障害のようです。愛着障害とは、親(愛着者)の愛を十分に受けずに育ったことで起こる発達の障害です。Aちゃんは、生まれてまもなくお母さんと離れて暮らさなければならなかったのです。やがて、お母さんと一緒に暮らせるようにはなったのですが、Aちゃんが、何か失敗すると、お母さんは、すぐ怒鳴ったり、叩いたりしました。それが原因で、愛着障害になったと考えられます。

愛着障害の子は、かんしゃくを起こしやすく、心から楽しんだり、喜んだりできません。愛そうとする親や大人に攻撃的、挑発的になります。整理整頓や見通しを立てることが苦手なため、考えることや学習にも影響します。反社会的行動や破壊的行動が目立ち、有名な悪人や犯罪者にあこがれやすいようです。

愛着障害の子は、かんしゃくを起こしやすく、心から楽しんだり、喜んだりできません。愛そうとする親や大人に攻撃的、挑発的になります。整理整頓や見通しを立てることが苦手なため、考えることや学習にも影響します。反社会的行動や破壊的行動が目立ち、有名な悪人や犯罪者にあこがれやすいようです。

なぜ、このような障害になるのでしょうか。脳の発達は、子育てと直結しているといわれています。脳は、不安や恐れがあると緊張します。叩かれたり、怒鳴られたりすることが続くと、脳が常に緊張状態となり、脳の正常な発達が損なわれるようです。親とのスキンシップや、抱かれたり、揺すられたり、優しい言葉をかけられることで、子どもの脳の緊張が和らぎ、脳の正常な発達が促されます。だから、子どもには、笑顔で優しく語りかけ、愛情いっぱいにスキンシップしてあげることが大切になります。

「愛着障害は、親の関わり方の問題だ」と、親だけに責任を押し付けるわけにはいきません。親でもいらいらしたり、子育てがつらくなるときもあるでしょう。親自身が問題を抱えている場合もあります。そんなとき、子育てを温かく見守り、やさしく手を差し伸べる家族や地域、社会の支えが必要になるのではないでしょうか。

※参考資料「反応性愛着障害と虐待」杉山登志郎月刊『実践障害児教育』2,006年5月号

異文化との出会いを

昨年の夏休み我が家に、韓国から中学生、高校生の2人をホームステイに受け入れました。私も家族も韓国語がまたっくできないので、お互い片言の英語での会話です。わからない単語は、お互い韓英辞典と和英辞典を見せ合いながらのやり取りでした。英語のイントネーションも違うので、ずいぶんちぐはぐな会話をしながらも過ごさせてもらいました。

彼らは、とても礼儀正しく、年上の人に敬意を表していました。我が家で食事を一緒にするときは、家事をしている私が座って食べるまで、じっと待ってくれます。「ワタシハ ヨウイスルカラ、サキニ タベテクダサイ」と伝えると、「イッショニ タベマショウ」と言ってくれます。

また電車では、お年寄りやこどもたちを先に乗せ、席が空いていても座りません。「ボクタチハ ゲンキデスカラ」とずっと立っています。私は、順番をぬかして先にすわろうとするマナーの悪い人を見て、彼らと一緒にいてとても恥ずかしかったです。

我が家の子どもたちといえば、彼らと出会う前は、さっさと食べてしまい、電車に乗ると空いている席があれば平気で座っていました。それが、彼らと一緒に過ごし、その後韓国にホームステイさせてもらってからは、食事のときはみんながそろうのを待って一緒に食べるようになり、電車ではじっと立って乗るようになったのにはびっくりでした。

礼儀正しい子どもに育ってほしいという願いで、いろいろ口やかましく「しつけ」してきたつもりですが、なかなかうまくいかなかったのが、違う国の文化に触れることでこんなにも変わるとは思ってもみませんでした。

このように家族、地域の枠を超えて交流することで、自分たちの生活と異なることに出会い、そのいい部分を受け入れてよりよい生活を作っていくことができます。自分たちの生活のすばらしさに気づくこともあるでしょう。子どもに、そういう体験をさせることで世界が広がり、よりよい生活や文化を作っていくことができるのだということを実感できた出来事でした。

子どもを育てるチャンス

私がまだ小学校に行く前の話です。友だちと広場で遊んでいたとき、みんなで池に向かって石を投げようということになりました。誰が一番遠くまで投げられるか、助走をつけて投げたり、プロ野球のピッチャーのまねをしたりと、だんだんみんなが熱中していきました。

その時、私が石を投げた瞬間、近くでガシャン、という音がしました。見ると、車の窓ガラスが割れているのです。

「君が割ったんだ、きちんと謝りに行けよ」誰かが言いました。確かに私はその直前に石を投げたのですが、夢中になっていてどこへ石が飛んだのか、全く見ていませんでした。他にも石を投げていた子がいたので、本当にそれを割ったのが自分なのか、今でもよくわかりません。私は、どうすればよいのかわからなくて、親にも言えないまま時間が過ぎてしまいました。二、三日して、近所の人からガラスの件を聞いた親は、火がついたように怒って私を叱り付けました。「何で黙っていたの!人のものを壊して!正直に言いなさい!」「こんな情けない子どもに育てた覚えはありません!」

親は私の話を聞こうとせず、半日ほども説教を続け、その間私は泣くばかりだったのを覚えています。親の立場からすれば、私のせいで近所の人に恥をかいたうえに、高価な車のガラス代まで払わねばならなかったのだから、感情的になることも仕方のないことです。それに、そんな大切なことをずっと黙っていた私が悪いことも確かです。

けれども、子どものしかり方ということを考えた時、このようなしかり方で本当に効果があるのでしょうか?心の中に残ったのは、納得のいかないことでこっぴどくしかりつけられたという嫌な思いだけでした。

もしあの時、「なぜこういうことになったのか」きちんと話を聞いてもらって話し合うことができていたら、私もきっと納得したでしょう。そして私がガラスを割っていなくても石を投げること自体が危ないこと、物を壊すといろんな人に迷惑がかかること、悪いことをしてしまったらすぐに親に言うことなど、大切なことを理解できたかもしれません。

子どもが悪いことをしたときは、その子がなぜそういうことをしたのかをきちんと確認して、次に同じようなことになった時にどうすればよいのかを一緒に考えることが大切だと思います。そうすることが子どもを育てるチャンスになるのではないでしょうか。

金魚ばちの思い出

少年時代「落ち着きのない子」「ものごとを途中で投げ出してしまう子」というのが私に対する評価でした。勉強も嫌いで、学校に行く楽しみと言えば、家では食べさせてもらえない珍しいものを食べさせてくれる給食でした。

授業中は、「本当のぼくは、さるお金持ちのご子息で、いまにおおぜいの召使たちがぼくを迎えに来るのだ」等という空想にふけったり、「今日はあの池のザリガニをとりに行こう。エサを大きくすれば、もっとたくさん取れるかもしれない」等と放課後の夢を膨らませていたように思います。

「先生、金魚ばちを割ってしまいました」

小学5年生の時でした。教室のうしろの棚には金魚ばちが置かれていて、いつも2,3匹の金魚が酸素を求めて水面をパクパク泳いでいました。虫や魚が友だちだった私は、いつの頃からか、その水を替えるのが日課のようになっていました。

ある日、いつものように金魚ばちを抱かえ、階段を降り、運動場の隅にある手洗い場に置こうとしたとき、金魚ばちが手から滑り落ち、割れてしまいました。はちから放り出された金魚が水を求めてピチピチ手洗い場を跳ね回っています。きっと「おまえは落ち着きがないからだ」!と叱られるに違いない。でも、金魚を放っておくわけにもいかず、近くにあったバケツに金魚をいれ、おそるおそる職員室に報告にいきました。

「きっと叱られるに違いない」「なんて不運な自分なのだ」「ぼくは何をしても失敗ばかりしてしまう」と、情けないような悲しいような気持ちになっていた私に、先生は「あ〜、君か、いつも金魚の水を替えていてくれたのは」「いつも水がきれいで、金魚も大きくなったって、クラスの皆も喜んでいたぞ」と、叱られるどころか、金魚ばちを割った私に感謝の気持ちを伝えてくれたのでした。

子どもたちから教えてもらったこと

このことは、「おとなは私を叱るもの」「私は先生に良く思われるはずがない」そう信じていた私にとって、大きな驚きでした。「この先生はぼくのことを分かってくれるかもしれない」「ぼくもクラスの役にたっているのだ」との思いは大いに私をふるいたたせました。何とか自分の良いところをもっと認めてもらいたいとの気持ちから、嫌だった勉強にまでチャレンジしてしまったのです。

その後、この出来事を長い間忘れていました。カウンセラーの仕事をやり始めて、子どもたちと関わっている中で、「私を大切に思ってくれる人がいる」「私は誰かの役にたっている」と子ども自身が感じたとき、子どもは変われるのだということを子どもたちから教えてもらいました。そのとき、この金魚ばちの記憶が突然よみがえってきたのです。

いつも見守っていてね!

秋の終わりの頃、仕事をもっている私は登校する4年生の子どもより先に家を出るようになりました。出かける前、私は「先に行くよ。忘れ物ないように気をつけて行ってね。鍵ちゃんと閉めてね。」と必ず声をかけるようにしていました。また、帰ったら、「ちゃんといけたね。大きくなったね。」と声をかけていました。

日がたつにつれ、子どもはどうも元気がありません。学校で何かあったのかなと思い、よく聞いてみると「朝おかあさんに送ってほしい。『いってらっしゃい』って言ってほしいねん。」と涙ぐんで言いました。

実は、4年生になって、子どもが登校する時、「外からおかあさんの姿が見えるとはずかしいから、見えないようにあっちへ行って」といわれるし、自分で準備をして登校できるようになったから見送らなくてもさみしくないのだなあとかってに思っていたのです。しかし、よく考えてみると、以前は「いってらっしゃい。がんばってね。」などその日ごとにいろいろな声掛けをしていました。そんな毎朝の私の送り出す言葉が、「今日もがんばろう」という子どもの心の支えになっていたのでしょう。

「そう、送ってほしかったんやね。わかった、朝、あなたを送ってから家を出るわね。」というと「うん。」とうれしそうに応えていました。

自分で鍵を閉め、登校できるようになった彼の成長を喜んでいましたが、やっぱりさみしい思いをしていたのでしょうね。私のひとりよがりだったんだと考えさせられた出来事でした。

子どもが大きくなってきたら、自分でできることが増え、親は手がかからなくなってきます。あまり話をしないようになる時期もあります。こうしてほしいという気持ちをそのまま表現しないこともあるでしょう。それは、子どもの成長として喜ばしいことなのですが、やはり子どもに応じた支えは必要なのでしょうね。

今回は子どもの望むようにすることができましたが、子どもの要求とおりにできないこともあるでしょう。そのときでも「あなたをこんなふうに見守っているよ」と私の思いを伝えられる親でありたいと思います。

高校生になった上の子どもは、ほとんど自立していて、私の帰りが遅くなったときは料理を作ってくれたりはしますが、ふだんの私のへたな手料理は必ずおなかいっぱい食べてくれます。「このうまい晩飯を食べたら、今日がんばってよかったと思うんや。」と言ってくれることがあります。子どもの好物を作った時は、会話が弾みます。

「いつもぼくたちを見守っていてね!」という子どもたちの思いに応えられる親でありたいと思います。

心をゆさぶる一言

親や先生の一言が、子どもの生活に大きな影響を与えることがあります。私の友人も、そんな体験をもっている一人でした。どんな一言だったのか、紹介したいと思います。

彼は、高校生の時、いわゆる「ちょい悪」といわれていました。その日も、友だちと二人で授業をさぼり、校舎の隅でだべっていました。「暇やな。なにか面白いことないかな」「工事中の新体育館に忍び込もうや」ということになり、あたりの様子をうかがいながら体育館に向かいました。新体育館はほぼ完成しているものの、まだ、検査が終わっていないので立ち入り禁止の柵で囲まれていました。誰もいないことを確認するとすばやく柵を乗り越え、館内に入ることができる場所をさがしました。うまい具合にヒサシがあって、それにのぼれば窓から入れそうでした。そこで、二人でヒサシによじ登り、そこから手を伸ばして窓を引くとすっと開きました。侵入に成功した彼らは、うれしくなって真新しい大きなフロアのど真ん中に大の字に寝転びました。しばらくすると、カチャと音がして工事の人達がはいってきたのです。

職員室に連れていかれ、先生たちからこっぴどく叱られました。また、親にも連絡が入っていたので、夜は親から日頃の生活態度も含め、きびしく説教されました。さらに次の日には、校長先生から呼び出されました。『今度は校長先生に怒られるのか。まさか停学にはならんと思うけど・・・』あれこれ思いをめぐらせながら、校長室に向かいました。

校長先生から、「理事長より君たちへのメッセージを預かっています」と白い封筒を渡されました。用件はそれだけで、彼らは、あまりに簡単に終わったのであっけにとられました。「停学通知かな」「まさか・・・」と言い合いながら、恐る恐る封筒を開けると、「新体育館入場、一番のり。おめでとう」と書かれていました。

彼らは、理事長のメッセージに目頭が熱くなりました。『なんて心の大きい人なんだろう』と感じ、そんな理事長の創った学校に通っていることを誇りに思えました。そして、これからがんばろうと心から決意しました。彼らは二度と悪いことをしなくなりました。

私は、熱く語る彼の話を聞いて、子どもの心をゆさぶる一言というのは、言葉の内容より、発する人の心の大きさ、暖かさで決まるように思いました。

編集後記

いじめ、自殺・・・これらの言葉を耳にするとき、心がきりでもまれるような思いがします。

強い者は弱い者をいじめ、いじめられた者は自分よりもっと弱い者をいじめる。そんな弱肉強食の構図を、大人の世界でも子どもの世界でも嫌と言うほど見てきました。いな、大人の世界で渦巻いているから、その縮図として子どもの世界に起こっているといった方が正確かもしれません。

いじめられている子を救うために、関係機関がそれぞれの役割を最大限に発揮することが急務です。それと平行して、まず、私たち大人が、思いやりのある人権感覚の豊かな生活を実践し、子ども達の模範を示していくことが大切だと考えます。

この冊子には、子どもたちへ、思いやりのある関わり方がいっぱい詰まっていると自負しています。ぜひご一読いただき、子どもに関わるときのお役に立てていただければ幸いです。

2007年(平成19年)3月 児童育成課 一同

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